冷やしパインと恋の魔法

湊歌淚夜

パインの酸味

夏の蒸し暑い夜は、魔法にかかるには最適なのかもしれない。ましてや祭りの夜はその熱気が何倍にも膨れ上がり、文字通りうだる暑さだった。


「剣のクラスってみんな真面目だよなぁ。3組だけ、ほぼ見てないもん。」

「……そうだな。」

左から秋谷の声がして苦笑い気味に答えた。秋谷は体育会系だが、それに見合わぬ華奢な体つきとさらさらな黒髪を後ろで束ねた女子高生みたいな奴だ。浴衣なんか着ていれば、それは大層絵になるのだろう。俺は何となく背筋を駆けるむず痒さを無視するために、鼻を掻いた。後ろめたさに似たその感情が風呂敷みたいに心臓辺りを包み込んでいく感覚を鮮明に感じている。


「最後なんだねぇ、こうやって高校生活を謳歌出来るのも。」

みんなそれぞれの道を行く。いつかはそうなるなんて想像していなかったから、今更になって寂しくなった。将来って残酷なようで俺の手で掴んでしまったものだから、その手の反論はただ心という砂地に爪を突き立てる行為に等しい。いつもなら、笑って嵐に目を伏せる彼があんなに寂しげな瞳でもって世の中を見ている光景は、それこそ宗教画のように意味を持って見える。


「おーい、剣くーん」

そんな声に夏の魔法とやらは少し覚めたみたいで、俺はとにかく帰りたくなった。夏祭りは恋するのに適している一大イベントだけど、思いのほか自分の思うほど上手くは行かないらしい。笹中香苗は俺の中で悩みの種としてすくすくと心の中で大きく育っていた。偶然居合わせてしまうことが多くて、鼻先に気まずさがついて離れない。


「剣、呼ばれてる」

秋谷から脇腹あたりをつつかれ、ため息がこぼれた。胸中で獣は唸り、自分の行先をより不鮮明にしている。俺は頭を掻きながら香苗の方へ向かった。彼女の笑顔は妙に癪に障るのだけど、それは単に時間が作った色眼鏡なのかもしれない。

「……先行ってて」

と秋谷に呟いてから俺は、香苗の元へ行く。胃のあたりがキリキリと痛み、胸がぐっと締め付けられる嫌気がした。


「……何?」

そうやってやっとの事で出た言葉に乗っかっていたのは、気だるさに似たなにかだった。毎日顔を合わせたいとは思わない。例えるならステーキのような。そんな高カロリーな彼女は、俺に寄り添うことがお望みのようだけど。いまいち恋とやらがぼんやりとしていて端的に噛み砕かれたところで何かわかるような気はしない。


「いや……偶然だねって」

言葉選びが難しいことをこういう場面で思い知る。彼女が申し訳なさげに声を潜めているのから、多分そういうことだろう。そんな顔すんなよ、といつもなら笑い飛ばせそうなものだけど今日はそれを易々とそうすることを重苦しい心の足枷が許してくれそうになかった。


夏の魔法を過信した自分が何より馬鹿らしくて、俺はその場から逃げ出したくなる。そんなもの端から信じてはいなかったし、と唇を尖らせてからふと空を見た。黒い布を貼っただけとは言えないくらいに、その闇は柔らかく感じられて、俺は頭を掻く。


「かもな。……でも、友達待たせてるから」

そう軽く流し、無理矢理に苦味を飲み干して俺はその場をあとにした。妙な罪悪感と後ろめたさに苛まれ、居心地が悪い。とりあえず、と自分の脳裏で1つのピリオドを打って仕切り直しにしておこう、今だけは。


青春マンガに切り取られるであろう、いわゆる「お決まり」のシーンを抜けた俺は少し疲れていた。自分の立ち位置がそうでは無いことは何となく見えていて、どこか期待していて。でもこうじゃないはずなんて思ってしまう。悶々と湧いてくるノイズの波を聞き流しながら、人ごみの中へ入って行った。


折角の夏祭り、秋谷を待たせたからなんかお礼でも買おうかな。なんて思い立って屋台を見回してみた。『りんご飴』に『かき氷』、『たこ焼き』やら『鮎の塩焼き』なんかが並ぶ中、少し見慣れない屋台を見つけた。


「冷やし……パイン?」

1本250円ほどの祭りにしては良心的(まず、これ自体聞き覚えがないから相場など知りもしないのだ)な価格帯で、名前の通りパインを冷やしたものだろう。それ以上に何ひとつとして事前知識がなかった。俺はとりあえずそれを2本買って、1本秋谷に渡そうと少し胸が高鳴っている。


「……あのー、冷やしパインを2本。」

少し口ごもってしまったけど、俺はそう言った。はいよ、とおじさんの声がして棒付きアイスのようなものを渡される。氷の入った木製の桶から出したてのそれは見知らぬものへの期待を映し出すように黄色く熟れていた。俺は両手に冷やしパインを持って、秋谷の元へ急いだ。


「遅かったじゃん」

そう声をかけられて、肝が冷える。後ろから秋谷が肩をトンと叩いたのに気がつけなかった。息が上がっていて落ち着いていない隙を狙ってこういうことをするあたり、彼のモテる片鱗を覗き見た気分だ。


「ほい、冷やしパイン。待たせたしな」

秋谷はそれを受け取って、1口軽く齧った。

浴衣のせいか何だか色気を感じたのは言うまでもない。そういうケなど一切ないのだけど、何気ない一場面に何だかどきっとしてしまう。


俺も1口齧ってみる。最初はパインの甘みを感じたけど、徐々に酸味だけになっていく。夜空の下、芝生の上に座って食べるその味に初恋が重なったような気がした。はぁ、とため息がこぼれる声がして秋谷のほうをちらっと見てみる。周りの証明ががいつもより少ないせいか無駄に色っぽく見えた。


「……ごめん、ちょっと用事思い出したわ」

「おう、行ってきなよ」

秋谷との和やかな時間をまたあとに取っておきたい。というのは単なる言い訳で、高カロリーすぎる時間により引き起こされた胃もたれに似た胸元のもやもやした煙幕が、煙を出して胸の領域をしんみりと侵してきた。それが息苦しくてたまらなくて、だけどその存在を信じたくない一心で俺は駆け出した。


悶々とした空気が自分の周りを覆い、汗がたらりと垂れてくる。俺は息が少し荒くなっているのを感じながら、落ち着け、落ち着け、と胸を撫で下ろしていた。口の中にパインの仄かな酸味が広がって、まだその主張を続けている。あの黄色い宝石には酸いも甘いも折り込まれていて、まるで手榴弾だなんて思えていたのはいつの日か。今でもそうやって思うことが多いけど、それ故特段に嫌うという訳でもない。


「困り事……?」

そーだけど、と答えてしまいそうになって、言葉として溢れる寸前で止まった。見知らぬ人に声をかけられたから、と言うより、その人にはあの人の面影が重なって見えるからだ。

「リ、オ……なのか?」

舌も頭も空回りしたまま、俺は彼女をしっかりと見ていた。まっすぐとはいかない、心なしかふらついてる気はするしじんわりと頭が痛い。この状況はもしかしたら夢なのかもしれない、だってリオは。


鋭い痛みを額に覚えて思わず、いてっ、と声がこぼれた。その正体はリオの指から放たれたデコピンだったらしい。そんなことも分からないくらい俺は思考の闇にどっぷり浸かっていたみたいだ。

「なーに、1人で悶々としてんのさ」

リオは涼しい顔で、俺の目の前にいる。この場から逃げ出したいくらい心がざわつくのに、その足はそれを許さないと言わんばかりに動かなかった。俺は汗が頬を伝う感覚を感じながら言葉を紡ぐ。無理矢理に。


「……いつからここにいたんだよ」

「さぁね、そんなの話してなんになんのさ」

そうやって軽快に躱されてしまうあたり、リオらしいというか昔から変わっていない。腹の底から何かが湧き上がるような感覚とでも言えばいいのだろうか。拳を強く握っておきたくなる。リオはヘラヘラした口調で、こう続けた。


「あんときから変わんないのな」

「何がだよ」

「んー?……それはお前が1番知ってると思うぞ」

スルースキルって社会では必要だよな、と何気なく頷きかかっているのを無理矢理制止して俺は牙を剥き出しにしたかった。そんなの知ってる、そう言って彼女の顔を殴り掛かりそうになる。だけど、そうは問屋が卸さないというべきか、俺は深呼吸して激情を沈めようとした。心に針を1本ずつ刺し、その痛みがじんわりと緩和されていく。


リオの言いたいことは俺の中ですんなり溶け込まなかった。頭を搔いて、自分の気をまぎらわせようとする。あの頃から変わりもしないものと言われて、鮮明にそれを思い浮かべることが出来なかった。


「ばーか、そーやって考え込むとこだよ」

デコピンを食らわされて、冷や水を浴びせられた心地だった。リオはまっすぐとした目でこちらを見つめている。世間話を話すように人の心をまさぐる様は、まるで魔術師のようで俺は彼女のことが好きだったことをふたたび蒸し返された。じんわりとした痛みと熱を頬に感じ、自分に嫌気がさす。


「……もっと、お前は前を向け。そしてその剣で未来を拓けよ。」

ボソッと聞こえたセリフに俺は呆然とした。呆然というか、とりあえず穴があるのならそこに入りたい。帰巣本能が掻き立てられるそんな言葉。


―彼女が何故この言葉を知っている?


思索を巡らせようとしたけど、全くもって想像が及ばなかった。おかしいのだ、何もかも。あの言葉は俺はとある人物に預けて忘れてしまったはずだった。ただ、それは実在してはいない。今は部屋の中に静かに陳列されたノートに眠り、誰かがもう一度開いてくれるのを待っている言葉。それは誰も知るはずがなかった。でもリオは何故か知っている。


「え?」

訳が分からないまま、俺はリオを見た。懐かしい青春を抉り出され剥き出しにされ、何だか胸を探られる感覚を覚える。まだ信じられはしないけれど、聞かないことには進まないと思えた。


「なぁ、リオ」

「なんだよ、告白か?」

彼女の陽気さに、俺は頭を抱えたくなる。顔立ちがいいからこそ、不完全燃焼のようにその火はくすぶってしまった。このまま、夢心地にこの場を終わらせるわけにいかないと自分の手をぐっと握りしめる。


「……さっきのセリフ、なんで知ってた?」

リオはただこちらを見ていた。その顔が淡く桃色に見えた気がしたのは言うまでもない。恥ずかしい話、俺は昔、ファンタジーに憧れて1つの駄作を生み出した。そのヒロインにふと魂が宿ったかのごとく、あのセリフをさらりと描いたのを思い出す。


「おまえの察しの通りだよ、作者さん」

リオは笑顔でそう告げた。俺は突然宇宙の外側へ追いやられたような、空虚さを感じ頭がぼんやりとしている。


「筆をとって世界を広げろなんて言いはしないけど、時々会いに来てくれよ」


それだけ言い残すと、彼女は淡く煌めいてダイヤモンドダストのように消えてしまった。もっと話していたかったのに、そんな願いも虚しく空に溶けていく。ただ残るのは胸を抉られた傷の、じゅくじゅくとした痛みだけだった。




「おーい、寝てるのー?」

その声にはっとなる。汗で背中のあたりがひんやりとした。秋谷の顔が目の前に見えて、危うく起き上がった拍子に頭をぶつけ、互いに気を失っていたかもしれない。


秋谷の話によれば(それは香苗からの言伝らしい)、たまたま俺を見つけたけど、大きな桜の木(今俺が目を覚ました場所だ)の下で魘されていたという。じゃあ何故彼に任せたなどと無粋なことはゴミ箱にでも捨てておいた。


「……寝てたみたいだな」

「心配したんだからな…」

ぼそっとそんな声が聞こえて、俺は思わず吹き出しそうに、いつもならなるはずだった。妙なリミッターがかかったと言えばそうになるだろう。秋谷はこちらを熱っぽい表情で見ているけど、その意図が読めそうで読めなかった。男女間ならある程度ハッキリとわかるんだけど。俺は起き上がると秋谷の元を去ろうとした。しかし何かに手を掴まれ、後ろに転びかける。


―これ以上好きにしてどうするんですか?


そんな言葉が聞こえたような気がしたけど、たぶん気のせいだろう。俺はこの夏祭りを忘れたくなかった。何せ高校最後だし、これからはこんな平穏さがどこか他人のものになってしまうから。俺は夏空を見上げた。夏の魔法に魅入られたまま、夜は更けていく。


俺がぼんやり空を眺めていると、胸のあたりに手を回され、体の全面が体温で少し暖かくなった。秋谷の心臓の音がしっかり聞こえる。頭を軽く撫でると、むず痒そうにしてこちらをみてきた。その表情に思わず胸がキュンとなる。


夏の魔法は存在する。幸運と不幸の双翼を持つ奇っ怪な天使のような。俺は口の中に残る酸味を感じながらその残滓を最後まで味わうことにした。

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冷やしパインと恋の魔法 湊歌淚夜 @2ioHx

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