第52話 君に、幸あれ

 千夏と元気はソウタを家に送ったあと、再びあの廃病院へと戻ってきていた。

 もう日はとっぷりと暮れてしまっていたが、晴高が車のヘッドライトを廃病院に向かってつけていたので明るさはあった。


「バッテリー、あがっちまうよ?」


 廃病院の敷地の庭に晴高の背中をみつけて、元気が声をかける。


「さっきガソリンスタンドに行ってバッテリー充電させてもらったから、心配ない」


 晴高が祓ったのだろう。廃病院の中には悪霊の気配がすべて消えていた。霊の姿はちらほら視えるが、悪影響のない浮遊霊ばかりだ。


「あんなに濃いモヤみたいになってたのに、もうすっかり綺麗になっちゃいましたね」


「ああ。核だったあの子どもがいなくなったからな。あの子はたぐいまれな霊力を持っていたせいで、アイツらの供給源にされてたんだろう。そういえば、あの子は?」


「おうちに送り届けましたよ。身体の周りがキラキラしてたから、もうすぐ成仏するんじゃないでしょうか。それまで残された時間を家族といっぱい過ごしてくれてたらいいですよね」


「そうか……」


 ヘッドライトの明かりを背中に受けているので表情まではわからなかったが、晴高は一瞬笑ったようだった。


 そこでふと、いつのまにか辺りに白いモヤのようなものが立ち込めはじめたことに千夏は気づく。モヤは集まって濃さを増していき、煙のようになって晴高の周りを取り巻きはじめた。


 晴高自身も戸惑っている様子だったが、その白いモヤからは悪い気配は一切感じられない。


 白いモヤは晴高の全身にまとわりついたあと、彼の身体から離れてその目の前で次第に人の形を成し始める。


 モヤは小柄な一人の女性の姿となった。長い髪に、青いワンピースの二十代前半と思しき女性。

 千夏にも見覚えがある。霊の記憶の中でも見たし、悪霊たちから追われて廃病院から逃げ出すときに道を教えて、手を引いてくれたのも彼女だった。


「華奈子……」


 晴高の声は震えていた。彼女は、晴高を穏やかな目で見上げると静かな微笑みをたたえる。


「晴高君」


 華奈子は両手を伸ばすと、晴高の頬に触れた。


「やっと、君に会えた」


 そう呟いて背伸びするように顔を近づけると、華奈子は晴高と唇を重ねる。

 彼女の華奢な背中を晴高は抱きしめた。


「ずっと。……ずっと、会いたかった」


 呻くように応える晴高に、華奈子はいとし気な瞳を彼にそそぐ。


「うん。ずっと会いに来てくれてるの、知ってた」


 華奈子はもう一度、晴高の首に腕を回してぎゅっと抱きつくと、そっと彼から離れた。


「もっといっぱい一緒にいたかったけど。私、もう逝かなくちゃ」


 彼女の身体もまた、キラキラと光を放ち始めていた。成仏しかけているのだ。


「ああ」


「晴高君!」


 華奈子は晴高を指さすと、はつらつとした声で告げる。


「君に、幸あれ!」


 その言葉を聞いた晴高の顔が、ハッとした。すぐに、くしゃりと涙に歪む。


「それ、俺が卒業式の日にクラスの皆に言った言葉だろ」


 華奈子はエヘヘと笑った。そして、ふわりと穏やかな笑顔になると、そのままスウッと夜の闇に溶け込むように消えていった。


「大好きだよ」


 そう、ぽつりと言葉を残して。

 華奈子の消えた場所を見つめながら、晴高も応える。


「ああ。俺も、大好きだ」


 その声が華奈子に届いたのかどうかは、わからない。でも、きっと届いたと千夏は信じている。人が逝くのは一瞬だ。でも、その別れはきっと一生忘れられないものになるに違いない。


 晴高はしばらく華奈子がいまいた場所を見つめていたが、腕で顔を拭った後こちらを向いた彼は、もういつものクールな彼に戻っていた。


「さあ。悪霊はいなくなったし。私たちも帰りましょう?」


 千夏がそう晴高に声をかけると、彼も「そうだな」とズボンのポケットから車のキーを取り出す。

 と、そこに庭をふらふらと歩いていた浮遊霊の一人が声をかけてきた。


『あ、あの……私らは、どうすれば……』


 どうやら、どこへ行けばいいのかわからないらしい。

 ほかにも数人、霊たちが近寄ってきて口々に言ってくる。


『どこへ行けばいいんでしょう』


『どこかへ行かなきゃいけないような気はするんだけどな』


「どこって言われても、すみません。私もよく知らないんです」


 千夏は戸惑った。浮遊霊がなぜ成仏せず浮遊しているのかは千夏にもわからない。何か未練があってこの世に残っている霊もいれば、ただなんとなく留まり続けている霊もいるようだし。


 そのとき、ずっと黙ったままだった元気が口を開いた。


「みんな。逝くべき場所なら、もう見えてるんじゃないかな。ほら、あっちの方」


 元気が廃病院の庭の端を指さす。そちらは太陽が沈む方角だ。


「あっちに、よく見るとキラキラと光が下りてくる場所があるだろ?」


 元気はそう言うが、千夏にはただ廃病院の塀と庭木があるくらいしか見えない。


「……元気?」


 元気が何のことを言っているのか千夏には理解できず、不安になって声をかけた。


 しかし、周りの浮遊霊たちには元気が示すものが見えるようで『ああ、見える』『あそこに行けば……』と、感嘆した様子だ。


 元気はそちらに目を向けたまま、まぶしそうに目を細めた。


「千夏。俺にもアレが視えてるんだ。いままでは視えなかった。でも、阿賀沢さんの件が片付いたくらいからかな。時々視えるようになって。そして……ソウタと動物園に行ったあたりから、もう消えなくなった」


 そして、元気は千夏に視線を戻すと、申し訳なさそうに目じりを下げる。


「千夏……俺も、もうそろそろ逝かなくちゃいけないみたいだ」


 そう語る元気の身体が、いつの間にか光を帯びはじめていた。ソウタや華奈子、それにいままで成仏を見届けた数々の霊たちと同じように、その身体がキラキラと光の粒子を放って輝き始める。


 その輝きを千夏は驚きをもって見つめた。そして、それが意味することを理解する。こうなるともう、誰にも止められないこともわかっている。

 元気にもとうとう、成仏する瞬間がやって来たのだ。

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