第53話 幸せをありがとう
元気の全身がキラキラと輝いている。それは彼の成仏がもうすぐだという証。
元気が千夏を見る。彼は成仏できるというのに、心底申し訳なさそうな顔をしていた。千夏は、胸に湧き上がるたくさんの思いを飲み混んで元気を見つめ返した。
「なんて顔してるのよ」
そう言って、無理やり笑う。目の端に涙は浮かんでしまったけれど、彼がようやくこの世での未練を果たして次へと進めるのだ。嬉しいことじゃないはずがない。そう自分に言い聞かせた。
「あっちに逝っても、元気でね」
そう空元気を振り絞って笑顔で言うと、抑えきれなかった涙が一粒、ホロリとこぼれおちた。
元気は、くしゃっと辛そうに顔を歪めると千夏の背に手を回して抱きしめる。
「俺、また戻ってくる。千夏のそばに帰ってくるよ。それがどんな形かは、分からないけど」
その元気の言葉に、千夏も小さく頷いた。
成仏すれば、彼は輪廻の輪の中に戻っていずれ生まれ変わるのだろう。今の彼とは違う誰かになってしまうのかもしれない。そうしたらもう、千夏には彼が彼とは分からなくなるに違いない。それでも、いずれ再び彼がこの世に戻ってきてくれると言うその言葉が、唯一の希望のように思えた。
声が言葉にならず、千夏はただ頷くしかできなかった。それが伝わると、元気は千夏から少し身体を離して柔らかな眼差しを千夏に向ける。
「千夏、君に出会えて良かった。君との日々はほんとに、楽しくて……ずっと続けばいいのに、って思ってた」
彼の顔をもっと見ていたかった。彼の笑顔をずっと見ていたかった。涙で滲んでしまいたくなくて、彼に心配をかけたくなくて。千夏は必死で涙をこらえた。
「私も……そう、思ってたから」
堪らず千夏は元気の身体にもう一度抱きつく。元気はしっかりと受け止めてくれた。
「……ごめんね。悲しませて」
千夏はぶんぶんと首を横に振った。
逝かないで、なんて言えない。
「私は、あなたの未練になんかなりたくないもの」
そう声を振り絞るように返す。精一杯の強がりだった。
千夏に回した元気の腕がぎゅっと強くなる。
「俺に、幸せをくれてありがとう。愛してるよ。千夏」
「うん。私も。愛してる、元気」
お互い、相手を離すまいとするかのように強く抱き合う。
唐突に、千夏の腕の中にあった元気の感触がふわりと消えた。
彼は光の粒となり、そして空気に溶け込むように見えなくなった。
あとに、カランと何かが落ちる。
指で拾い上げるとそれは、彼が左薬指につけていたシルバーのペアリングだった。
千夏はそれを手のひらで強く握りしめると胸にあてて、彼が言っていた逝くべき方角へと目をやった。
(逝ってらっしゃい)
また、いつか出会える日まで。
またいつか、二人の運命が重なるその日まで。
不思議と涙は出なかった。
気がつくと、周りがシンと静まり返っていた。ここにいるのは、晴高と自分だけ。そうだ、ずっと傍目にはここには二人しかいないように見えていたはずだ。華奈子も元気も、ほとんどの人には視えないのだから。
ここは、こんなに寂しい場所だったのかと、初めて実感した。
あんなにザワザワと騒がしかった霊たちがいまは一人もいない。
きっと元気と華奈子の二人が迷っていた霊たちを連れて逝ったのだろう。
「逝っちまったな」
ぽつりと晴高が言う。
「逝って、しまいましたね」
それだけ会話を交わすと、晴高と千夏は乗ってきた車でその場をあとにした。
そして、千夏は自宅へと帰ってくる。
「ただいま」
そう独り言を言ってから靴を脱いで、リビングへ向かった。
がらんと静かなリビング。
こんなに広かったっけ。
そして、こんなに静かだったっけ。
もう、彼と出会う前がどうだったかなんて思い出せない。
ほんの今朝まで、「ただいま」と言えば「おかえり」と返してくれる声がそこにあった。
ソファに座ってタブレットを眺める姿があった。
千夏はカバンを床に置くと、ふらつくようにリビングの隅にある衣装ケースの前にペタンと座った。そこには彼のために買った衣服が入っている。
引き出しを開けて、シャツを一枚手に取った。
まったく誰も袖を通したことのない新しい匂いのするシャツ。でもそれは、彼がよく着ていたシャツ。
千夏はそれを、ぎゅっと抱きしめて顔を埋めた。
キッチンにはまだ彼が使っていた茶碗や箸が洗ったまま残っている。
洗面所には彼の歯ブラシもある。
そして、カバンの中には彼が愛用していたタブレットが入っていた。彼の名前が刻印された、タブレット。これが届いたとき、彼は本当に嬉しそうにしていたっけ。
彼の痕跡が、家中のあちらこちらに残っていた。
たしかに、元気という人間はこの場所にいて、一緒に暮らしていたのだ。
それなのに、彼はもうここにはいない。
もう、どこを探してもいない。
この世のどこにも、いない。
もうあの笑顔も、あたたかい声も、大きな手も、戻っては来ない。
抱きしめて顔を埋めたシャツから、嗚咽が漏れた。
一度堰を切って流れ出した涙は、なかなか止まらなかった。
たったひとりきりの寒い部屋で、泣き続ける。
その左親指には、彼が残していったペアリングが静かに輝いていた。
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