第45話 カナコおねえちゃん

 千夏が床に撒いた塩を掃除機で片づけていると、怪しいものがないか見回りに行っていた元気がリビングへと戻ってきた。


「悪い気配はほとんど消えてるみたいだ。あっちの部屋の奥とかベランダとかには、ごちゃごちゃ黒いモヤみたいなのがわだかまってたところが何か所かあったから、蹴散らしておいた」


「ありがとう」


 そんな会話をしていたら、シャワーを浴びに浴室に行っていた晴高も戻ってきた。さっきまでいつものスーツを着ていた晴高だったが、今はさすがに部屋着に着替えている。彼は戻ってくるなり、ソファにどさっと横になって目を閉じた。まだどこか体調が悪いのかもしれない。


 晴高に、さっきの悪霊みたいなものがなんだったのか聞いてみたい気持ちは強かったのだが、憔悴している彼に今それを聞くのは酷な気がして聞けないでいた。

 元気も心配そうにしている。

 

 さて、このあとどうしよう。あの悪霊みたいなものが晴高の体調不良の原因だろうというのは千夏にもうすうす分かってはいた。壁にかかった時計はもう夜の一時過ぎを指している。このまま晴高を一人でおいておけばまた同じ状態にならないとも限らないから、彼をここに一人にさせておくのは不安だ。どうしようかな、そんなことを悩んでいたらボソボソと晴高の声が聞こえてきた。


「……すまなかったな」


 いつものような張りの感じられない、弱い声音。


「いえ。何度か電話したんですが、出なかったので心配になって。あ、キーは会社から借りてきました」


 千夏たちが勝手に家に入ってきたことについては、晴高は何も言わなかった。

 元気はダイニングテーブルの椅子を引っ張ってきてソファのそばに置くと、背もたれに抱き着くようにして座る。


「ここに来る前、千夏にも霊障が出たんだ。子どもの霊みたいなのに襲われた。そんで心配になってきてみたら、お前もこんな状態だし」


 そこで言葉を区切るが、晴高は何も返してこないので元気は話を続ける。


「……なあ。千夏の霊障も、お前の影響だろ。俺、霊のことはよくわかんねぇけど、お前、このままだと本当にヤバイんじゃないのか?」


 強い調子が滲む元気の声。けれど、晴高は目をつぶったまま何も答えなかった。

 もしかして眠ってしまったのかなと千夏が思い始めたころ、晴高はうっすらと目を開けてボソッと返してきた。


「……どっから、話したらいいんだろうな」


 そうしてしばらく天井を見ながら何か考えているようだったが、やがて晴高はゆっくり起き上がるとソファに座った。


「俺が倒れたときにお前らが視たっていう誰かの記憶、あっただろ」


「はい」


「それって、どんな情景だったのか詳しく教えてもらってもいいか?」


 晴高に言われ、千夏はあのとき視えた情景を晴高にできるだけ正確に伝えた。


 どこか郊外の病院のようなところに入院していたこと。小さな男の子が入ってきて、『カナコおねえちゃん』と呼んでいたこと。男の子は手にキリンのようなマスコットを持っていたが、それがなぜか千夏が自宅にあって霊障を引き起こしたこと。

 そして、トートバッグに入れてもってきた、あのキリンのマスコットを見せる。


 晴高は千夏の話を黙ってきいていた。

 もとから色白な彼の顔色は、病的なまでに白いままだ。いまにもまた倒れてしまうんじゃないかと、千夏は内心はらはらしていた。

 彼は膝に置いた腕で額を押さえて、身体の中の辛さを吐き出すように言った。


「……カナコは、おそらく。雨宮華奈子。俺が昔、つきあってた恋人の名前だ」


 きっと、あのずっと右薬指につけているペアリングの相手なのだろう。と、千夏は察する。


「四年前に病死した。もともと身体が弱い子で、二十歳まで生きられないって言われてたから、二十四まで生きたのは幸運だったんだろうな」


 彼女の葬儀はつつがなく行われたはずだった。しかし、それだけでは終わらなかったのだと晴高は言う。


「しばらくして、その病院でおかしなことが起こりはじめたんだ。夜な夜な、いるはずのない人間の足音が頻繁に聞こえたり、話し声がしたり。いろいろな霊障がおこって、マスコミに心霊病院なんて紹介されるほどになっていた」


 妙な胸騒ぎを覚えて晴高はその病院を訪れるが、病院の様子が以前とは様変わりしていたことに驚いたという。


「華奈子が入院してたころ、俺もよく見舞いに行ってたんだ。けど、そのころは感じたことのないような禍々しい瘴気のようなものに包まれていた」


 いっきに話して疲れたのか、晴高がふぅと息を吐きだす。


「もしかして、そこに華奈子さんの霊もいた?」


 元気の問いかけに、晴高は少し迷ったあとコクンと頷いた。


「あいつの気配を感じた。……驚いた。てっきり、成仏したとばっかり思っていたから。どうやら、あいつは悪霊たちに取り巻かれてあそこに閉じ込められているようなんだ。でも、気配はそれだけじゃなかった。沢山の霊の、それも悪霊といわれるものの気配があった」


 いつの間にか、病院は悪霊たちの巣窟になっていたのだそうだ。

 もちろんそんな状態になって、病院経営もうまくいくはずがない。ちょうど施設が老朽化しつつあったこともあって、病院側はその建物を放棄して別の場所に移転したのだという。


「廃墟になってから、日に日に悪霊は増えている。俺は、暇さえあればあそこに祓いに行っていたんだが……とうとう手に負えなくなって、このありさまだ。俺にくっついてた霊の残滓ざんしが、お前らに影響及ぼしてしまったんだろうな。……すまない」


 そう言うと、晴高はふらりと立ち上がってキッチンカウンターに置いてあった車のキーを手に取り、玄関へ行こうとした。まだふらふらとしていて足取りがおぼつかない。どこへ行こうというのだろう。いや、どこへ行くのかは想像はついた。


 千夏は玄関の手前で彼の前に立ちはだかる。


「…………」


 晴高は怪訝そうに、千夏を見下ろした。やつれているせいか、いつもより眼光が鋭い。思わず怯みそうになりながらも、千夏はキッと晴高を見返した。


「どこへ、行くんですか」


「決まってるだろ。どんどん悪霊が増えてる。俺が祓わないと」


「そんな身体で、そんなとこに行けるわけないじゃないですか!」


「俺がやらなかったら、誰がやるんだ。そうしないと、華奈子はいつまでも」


 晴高が腕で千夏を押しのけ、なおも玄関へ向かおうとしたため千夏は彼の腕を掴んで引き留める。


「それなら、私たちも一緒に行きます」


 睨むようにして千夏がいう。晴高だけを行かせるわけにはいかない。

 しかし、晴高はぴしゃりと拒絶した。


「だめだ。お前らには危険すぎる」


「晴高さんにとっても危険ですよね?」


 すぐに千夏は言い返す。さらに元気が付け加えた。


「お前、すでにそこのやつらに憑りつかれてんだろ。さっきの悪霊たちはなんだよ。このまんまだと、どんどん衰弱してしまいには死んじまうよ? ……お前まさかさ、死んじまってもいいとか思ってないよな?」


 その元気の言葉に、晴高の瞳がわずかに揺れたように千夏には思えた。

 その廃病院には彼の恋人の華奈子の霊もいるのだ。そういう心理に陥る気持ちもわからないではない。でも、それが晴高にとって良いことだとは千夏には到底思えなかった。


「とにかく。私もこのマスコットを返しにいかなきゃいけない気がすごくしているんです。そうしないと、私たちもおちおち夜も安心して寝れません」


 このマスコットはあの霊の記憶の中にでてきた男の子のもので間違いないだろう。なぜ千夏のもとに来てしまったのかはわからないが、これをあの子に返さないとまた同じ悪夢にうなされそうで怖かった。


「そうそう。俺たちんとこにも霊障が起こってんだ。もうとっくに巻き込まれてんだよ。なのにお前一人で自暴自棄になるのは、あまりに無責任じゃね? お前がいなくなったら俺たちはどうすりゃいいんだよ?」


 そう言う元気の言葉は、言っている内容とは裏腹に晴高を責める調子ではなかった。口ぶりから、ただ晴高の力になりたいと思っているのが伝わってくる。千夏も大きくうなずいた。


「一緒に行きましょう。その廃病院」

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