罪人は影から逃げきれたのか

第28話 戻るもの 変わったもの

 鳥の羽ばたきがどこからか届いた。


 布団が一枚敷かれ和室で、真莉は障子格子の上げられたガラス戸の向こうに目を向ける。


 木枠に切り取られた世界には、静謐な庭先の様子が広がっている。その世界には音もなければ時間もない。苔むした岩と木が音もなく鎮座し、澄んだ池には波もない。夕過ぎの陽光は木の葉に優しく受け止められ、包み込まれるような薄暗さを空間に渡している。


 真莉のいる和室は、そのあちこちから歴史の匂いを漂わせている。壁や柱に刻まれている濃い色をした傷たち。日焼けが見てとれる敷居。色のくすんだ襖と床の間の土壁。劣化しているはずのそれらが確かな重厚感を伝えてくる。照明に使われているのは、もちろん電気照明だが、和提灯がそれを包み雰囲気を壊していない。


 一見ただの古い和室のようであるが、床の間に置かれた水盆や、鴨居や柱に施された彫刻がなぜか西洋風のものとなっており、それらの存在は浮いていた。


 真莉はTシャツに短パンとラフないで立ちで、同級生よりずっと大人びたボディラインがあらわになっている。


 部屋中央に置かれた布団には灯護が眠っている。美術館での戦闘以降眠ったままだ。


「なるほど。そんなことがあったのか」


 突如部屋に低い声が響く。その声は何重にも振動が重なっているような耳障りな声だった。声は床の間に置かれている場違いな水盆からしていた。金の装飾が施された白い水盆には水が満たされており、その水の中央には黒いもやのようなものが渦まいている。


「未熟だ。それゆえの失敗ばかりだな」


 ゆっくりと紡がれた言葉。その声は啓示のように真莉に響いた。


「言われなくても分かってるわよ。父さん」


 父。その言葉は確かに水盆の存在へと向けられている。彼女はどこかにいる父親と遠隔通信しているわけではない。その水盆の中にいる不定形の黒い物体こそが彼女の父その人なのだ。いや、厳密に言うと、父の意志であり、父そのものではない。


 四年前の戦いで、彼女の父は確かに命を落とした。しかし、彼はとある魔術を残していた。その魔術は、特定の条件を満たしたものに、自身のディザルマと同じ働きをさせるというもの。すなわち、彼は自分の魂の複製を疑似的に作っていたのだ。これにより、彼は未熟な真莉に師として魔術を教えることもできたし、助言もできた。しかし、それらはあくまで魔術が起こした現象。本当に死んだ父のディザルマがそこにあるわけではない。彼女の父の意志、考え方、記憶、知識、経験を持っているようにみえるだけ。まるで、プログラムで動いている対話機器のように……。


「でも、今回の件でハッキリしたことがある。……この町には、裏切り者……内通者がいるわ」


 美術館の件は明らかに異様だった。


 真莉が未熟な魔術使いであることを突いた戦術はまだいいとして、真莉の戦い方へ完全に対策してきたことといい、彼女を湖月の結界から切断したことといい、たった二週間できることじゃない。だが、内通者がいれば別だ。いや、いないとおかしいレベルだ。敵は明らかに内通者から事前に情報をもらい、そのうえで真莉との戦いに挑んできた。


「それも、ちょっとやそっとのやつじゃない。うちの結界に関する情報を知ってるやつなんて、ごく一部……。だいぶうちと関係が深いやつらが裏切ってる」


 となると問題はだいぶ大きい。


「……だいぶ厄介なことになるな。可能性が高いのはノアリーのやつらか。湖月の監視を快く思っていない魔術師は多いからな。探りを入れるよう新井に言っておけ」


 このことはもう新井には話してある。彼もまた湖月と関係が深いものなので話すか迷ったが、しかし、彼を介さなければノアリーの内部は探れない。彼も事の重大さを察し、今回の件は報告しないと言っていたので、現在この問題を知っているのは新井と真莉、そして彼女の父だけとなる。


 しばらくの沈黙の後、虚像の父が空気を震わす。


「やはりその少年は殺そう」


 真莉は冷たく水盆を睨み付けた。


「不利益だ。私たちにとって。その少年を守るために私たちの魔法が失われるところだった」


「でも……!」


「結果論だ。撃退したと言うのはね。お前はわがままを押し通せるだけの力を持っていない。力ない人間にわがままを言う権利はない」


「……。言ってなさいよ木偶棒が」


 精一杯の悪態をついて彼女は自分をなだめる。あの父に怒るのは、機械のプログラムに怒るのと同じだ。向こうには善意も悪意もなくただプログラムをこなしているだけ。言うだけ言っても実体を持たない彼には何もできない。言わせておいて無視するが一番だ。


 ため息をつく。いつもこう思っているのに、それでも心を乱されてしまう。単純な自分に彼女は嫌悪した。


 さらに父の言葉が降ろうとしたとき、布団で眠る灯護が目を覚ました。


 何度も目を瞬かせたあと、彼は寝ぼけ眼で周囲を見渡す。


「起きた?」


「あれ……ここは?」


「恭佳の家。あんたを治療するために運んできたの」


 床の間に意識を向ける。父の気配は薄い。彼は間違っても、一般人に魔術を明かすことなどしない人だった。存在を気取られることすらひどく嫌った。灯護の前での発言など絶対にしないだろう。


 が、灯護には共鳴キャン能力バスがある。彼は水盆の魔力ディザルマを感じて少しそこへ視線を向けたが、やがて気にしても仕方がないと思ったのか、すぐに真莉へ視線を戻した。


「ありがとう。真莉さん」


「いいのよ。調子は?」


 灯護がゆっくり手を顔の前へ持ってくる。


「まだ体が熱いし……だるいかな。でも我慢できないほどじゃないよ。ていうか、僕どれくらい寝てた?」


「丸一日。もう日曜の夕方近くよ」


 その言葉を聞いた灯護は飛び起きた。


「えっ!バイト!」


「連絡しておいたわ。今日は休みなさい」


 そう言われても灯護は複雑そうな顔をしていたが、実際休むほうがいいと判断したのだろう、彼は体から力を抜いた。彼は痣や傷の薄くなった自身の腕を眺める。その表情は穏やかだ。


「夢じゃなかったんだ。あれ」


「悪夢だったでしょうが」


「そうでもないよ。


 照れたような嬉しそうな笑みを浮かべる。そんな彼の表情に真莉も毒気を抜かれる。


 と、彼の視線が右腕の真っ赤なブレスレッドに止まる。


「あれ、これ……」


「ああ、しばらくはつけたままでいなさい。怪我が早く治るわ」


「でもこれって、真莉さんの力を分けたものなんだよね?いいの?」


「あーら、じゃあ返してもらおうかしら。それがあるとか弱いままだし。それがないとあなたは一週間くらい疲労と痛みと不調に苦しむけど、いいわよね?」


 いじわるな返しに、すごすごと灯護は「ありがたくいただいておきます」と答えた。


 体の調子を確認し終えた彼は、物珍しそうに部屋を見渡した。家の内装が気になっている、のではないことに彼女は気付く。


「……感じる?」


「うん」


 彼はこの家や屋内の家具などにかけられた魔術内の魔力ディザルマを感じているのだろう。彼からしてみれば、家中のあちこちの物から人に感じているものと同じ感覚を感じるのだから、不思議な気分だろう。


 彼女は目を細めた。


 魔術が修正される一要因、「他人に観測される」というのは、何も視覚的に捉えられることだけを指しているわけではない。認知もまた観測の一つだ。


 負の根源要素ディザルマに魅かれたものとして、本能的に不快感を覚えてしまう。


 それを敏感に感じ取ったのだろう。灯護が腰をあげる。


「えーと、それじゃあ体も大丈夫そうだし、帰ろうかな」


「いいわよ。そんな気ぃ遣わなくて」


「でも実際、帰らないとおばあちゃんや春奈が心配するよ」


「その辺もうまくやってあるから心配しないで。あなたがしばらく帰らなくてもおばあさんに怒られることはないわ」


 また何か魔術を使ったのだろうか、と灯護は思った。


 と、廊下のほうから慌ただしい足音が近づいてきた。足音が近づいてくるにつれて、灯護の心に新たな感情が混入してくる。


 灯護は眉をあげる。


(あれ、この人って……)


 感情ディザルマにも個人差がある。足音の主が持つこの感情は共鳴し覚えがあった。


(そういえばさっき真莉さんは、この家のこと……)


「とぉおおご先輩がいるってホントぉ⁉」


 ババーンと襖を開けてそう叫んだのは、真莉と同じ生徒会役員の武部恭佳だった。今日も灯護への好意全開で、小さな矮躯から元気を溢れさせている。


 彼女は灯護を目に留めると、耳が見えるほどのショートヘアを振り乱し、一層目の輝きを強めた。


「アッハー!いた!ホントに!」


「ちょっとうるわいわよ恭佳」


「いーじゃん!私の家だし!」


 ニコニコと上機嫌で彼女は灯護のそばに寄ってくる。あまりにストレートな感情に灯護は親友の学に感じるものと似た好感を覚える。


「ていうか、どうして恭佳さんの家に運ばれたの?」


「あれ、聞いてませんでした?うち武部家って湖月家の分家なんですよ」


「分家?」


「はい。私たち分家は、湖月家のいろいろな雑務を担ってるんです」


 魔術は多くの人に知られるわけにはいかないが、維持や研究、研鑽には人手がいる。だから魔術師は自分の周りに、魔術に関わらない仕事をさせる人間を置くことがある。湖月家にとっての武部家のように。身内にこうした役割を与えるのは、秘密保持や血縁維持など多くの利点があるので、多くの魔術師の家系はこの形態をとっている。


「だから同じ敷地内に住んでるんですよ。真莉先輩の家もすぐそこにありますよ」


「私の家は魔術まみれで人を近づけたくないから、ここに運んだのよ」


 なるほど、と灯護の中でいろいろ得心がいく。あまりに自然で流されていたが、さっきから後輩であるはずの恭佳が真莉に敬語を使っていない。分家というのは親戚のようなものだろうし、学校以外ではそのように振る舞っているだろう。


「灯護先輩お加減はいかがですか?」


「うん。もうほとんど大丈夫。ありがとう」


「なら、ご飯にしましょう!ご飯!腕によりをかけて作ったんですよ!お母さんが!」


 なぜか自分が作ったかのように胸を張っている。


 恭佳はもちろん真莉からも嫌そうな感情は伝わってこなかったので、灯護は素直に言葉に甘えることにした。


「おっと……」


 起き上がって部屋を出たところで灯護がふらつく。真莉が肩を持ってそれを支えた。


「ありがとう。真莉さん」


「気を付けなさい」


 何気ないことだったが、その様子を見ていた恭佳は首を傾げる。


「なんか仲良くなってません?」


 パッと離れて真莉は目をそらす。


「そんなことないから」


 冷たくいい放つ麻莉に恭佳はそれ以上言葉を続けられなかった。だが灯護にはわかる。彼女のその発言が照れ隠しなのだと。思わず灯護の口元に笑みが浮かんだ。


「なに気持ち悪い顔してんの!行くわよ!」


 部屋の様子を見たときから灯護はそう思っていたが、真莉の家、もとい恭佳の家は豪邸だった。広い廊下やそこから見える広い庭が趣深い雰囲気を作り出している。しかし、廊下の一角に置かれた黒電話や、部屋を仕切る暖簾などの家具には高級なものは見られず、むしろ庶民的なものが多い。家の様相だけ見て気おくれしていた灯護も、端々から匂うおなじみの小物たちに、次第に落ち着いていく。


 恭佳の母親は気さくな細身の女性だった。魔術師の関係者であるので、部外者の灯護に冷たいと思っていたが、そんなことはなかった。彼の身の上を同情してくれたうえで、暖かく歓迎してくれた。


 恭佳とその母親、真莉と囲む食卓は賑やかで、知らず固まっていた灯護の心をほぐしてくれた。


(戻らないとね。日常に……)


 今でも「救済」の姿を思い浮かべると心に影が射す。だが、終わったことそんなことを思わされるだけ損というもの。前向いていかなければならない。


 食事を終え、少しだけ寛いだあと、夜も浅いうちに灯護は家へと帰った。もちろん真莉も一緒である。真莉の言っていたとおり、祖母も春菜も灯護が帰ってこなかったこと(友人の家に泊まったことになっていた)には特になにも言ってこず、いつも通りの空間がそこにはあった。


 部屋に戻り、ベッドに倒れこむ。今日一日寝ていたはずだが、まだ体に残っているダメージと疲労のせいでもう疲れている。


(あ、宿題とかやってない……)


 昨日あんなことがあったが、悲しいことにその事情は学校では通じない。


(真莉さんはよくこんな目にあってるんだろうな……)


 それでもいつも完璧にこなしてくるのだから、やはり彼女はすごいと灯護は思う。


 どうしようかと迷っているうちに降りてきた眠気がどんどん積もっていく。


 彼の瞼が降りかけたそのとき、彼の目に淡い紫の光が入ってきた。光は彼の胸元と布団の間から漏れてきている。


 起き上がって見てみると、真莉から渡されたあのアメジストのペンダントが点滅している。


 寝ぼけていた目が覚める。


 唯花は言っていた。これは、灯護を守るためのものだと。ならばこのペンダントが作動している今、まさに自分は攻撃を受けている、もしくは受けようとしているということではないのか。


 隣室にいる真莉を呼ぼうと口を開く。しかし、遅かった。彼が声を発するその前に、ペンダントの光は消え、彼の体から力が抜けた。


 数分後。


 虚ろな目をした少年が一人、一軒の家から暗い夜道へと出ていった。少年は焦点のあっていない目でフラフラと暗がりへと消えていく。


 そして、そんな彼を静かに見送る影がひとつ。


 電柱に背を預けた、眼鏡をかけた茶髪の男。新井宗一。栄方高校の英語教師にして、ノアリー最上位特殊エージェント「SILLENT」の一人。


 灯護の背を見る彼の目は、街頭を反射した眼鏡の光に隠されていた。

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