第23話 灯
「やめろ!」
驚くべきことに彼は真莉の結界の外に出て石像へ駆けだしていた。しかし、彼にはなにもない。できることも、力も、策も。ただ感情のままにとった行動は無謀そのもの。
だが無意味ではなかった。
走ってきた灯護に、石像の注意が向けられ、一瞬その動きが止まったのだ。
そして灯護の声とその無謀な行為は真莉の瞳に光を戻した。
振り絞った力で真莉は剣を振るい、『救済』に持たれたままの自らの腕を切り落とす。
グシャリと落ちた身をそのままに、彼女の口から微かな声が漏れる。
「
声を合図に、周囲の血だまりに火が灯り、瞬く間に天井にまで届く火柱となる。
爆発にも近いその炎の勢いに、灯護は手をかざして後ずさる。
その炎は血のように赤く、炎の揺らめきがいくつもの人間の顔のようにも見える。
当然、石像と同じく血だまりの中にいた真莉も業炎の中。
言葉を失う彼だったが、しかし次の瞬間、炎の中から真莉が飛び出してきた。
咳込みながら灯護の前まで来た少女は、ガクリと膝をつく。ポニーテールを作っていた髪留めは焼け落ち、長い髪が煙を上げて大きく広がっている。焼けた皮膚や切り落とした腕が逆再生をしているかのようにもとの姿を取り戻していく。
「湖月さん!」
灯護を無視し彼女は火柱へ振り返る。
床や壁に広く流れていた血に沿って広く燃え盛っていた火柱は、骸骨を模したような形となって、『救済』の一点へと集まっていき、いまや石像の周囲二メートルほどの範囲で火災旋風のように渦巻いている。
これはただの炎ではない。ディザルマをも焼く怨念の炎だ。物理攻撃がきかないのなら、と試したが、
「……」
真莉は表情を苦々しく歪める。
あれだけの業火に包まれているのに、石像には見た目的にもディザルマ的にもほとんどダメージはなかった。幸い多少効果はあるのか、動きが鈍くなり、その場から動けないでいるようだが、この魔術も長くは続かない。
ならば、
「……逃げるわよっ!」
判断は早かった。叫ぶようにそう言うと、彼女は灯護の手を引いて駆けだす。足取りは引きずるようで、呼吸も苦しそうだ。
その様子を見た灯護は、彼女の後ろで静かに拳を握った。
「結界の中にいてって言ったでしょっ!」
全ての憤りを灯護へぶつけるように声を荒げる。
「……ごめん、でもいても立ってもいられなかった」
そう言う彼の表情にはほとんど恐れはなく、むしろその目つきは鋭い。
真莉と『救済』の人知を超えた戦いに割って入ろうとしてきたことといい、恐れ知らずどころかどうしてここまで好戦的な……とそこまで考えたところで彼女は気付く。
これもまた
こんな状況、一般人が平気でいられるはずがない。しかし、彼は真莉の闘争心に共鳴してしまい、その心に偽りの闘争心を燃やしている。自らを無謀な突撃に投じさせるほどに。そんなのはもはや呪いだ。
悠斗が灯護に
先ほどの無謀な行動。自身の命さえも、自分以外の意志で彼は捨てうるのだ。
展示室を出て幅の広い廊下へと足を踏み入れる。廊下も展示室と同様に赤い結界に覆われており、ステンドグラスを介して入ってくる光まで淀んだ赤色を含んでしまっている。床に映る美しかったステンドグラスの影は、今や血を浴びたように不気味な色をしている。
二人は大階段へと向かおうとする。だが当然のごとく大階段への扉は閉まっており、赤い結界が張られている。それどころかネヴィル・エヴァンス展へ通じる通路にも結界が張ってある。完全に袋小路だ。
真莉が結界へ流月を振るってみるが、やはり剣は弾かれる。二度、三度別の手法で破壊を試みても結果は同じだった。
真莉は確信する。やはり敵は湖月の魔術を熟知している、と。
流月は、全ての神秘を問答無用に破壊できるわけではない。あくまでディザルマを食らうだけ。すなわち、今まさにディザルマが通っている魔法陣などを斬れば、その魔術を破壊できるが、その魔法陣によって起きた神秘のほうにディザルマが籠っていなければその神秘を破壊することはできない。
(……とはいえ、普通魔術によって起きた神秘にもディザルマは通っている)
そもそもあの石像のほうからはディザルマを感じていたのではなかったか。それなのに破壊できない仕組みがわからない。
いずれにせよ、結界しかり、石像しかり、こうもたまたま真莉に都合が悪い魔術が使われるわけはない。最初の一撃もそうだ。肉体の傷では効果が薄い真莉に初手で内部への攻撃。敵は完全に湖月の魔術に対策を練って攻めてきている。
対してこちらはなんの情報も持っていない。
深く、大きなため息とともに真莉が膝をつく。無視してきた現実がいよいよ目の前にまで迫っていた。
勝ち目がない。
諦めてはいない。そんな弱さは彼女自身が許さない。ただ、いかに闘争心にあふれようと、前を見るほどその現実の大きさが良く見えるようになるだけだった。
(ダメだ……絶対にダメ……!)
死ぬことは許されない。灯護も殺させてはならない。唯花のためにも。悠斗のためにも。
「大丈夫?湖月さん」
灯護が気遣わしげに顔を覗き込んでくる。
いつもよりもずっと本来持つべき感情と乖離している灯護の姿に、いつもより強く嫌悪感が湧き出てしまう。
「……黙ってて」
灯護を見ないままに言葉を吐く。八つ当たりを悔いる余裕もない。
短い間に何度も意識が飛びそうになる。疲労と呪いで体は鉛のように重い。
体調は襲撃をうけたときよりずっと悪い。ただでさえ悪い体調で立て続けに魔術を使ったせいだろう。
魔術や超能力は使えば使うほど使用者に疲労感や倦怠感を蓄積していく。カレドブルグの再生能力があるとはいえ、湖月の魔術が無限に使えるわけではないのだ。それに鞘の再生能力にも真莉のディザルマを多少使う。再生もまた無限ではない。
立て続けの再生と強力な魔術の使用は、確実に真莉を蝕んでいた。
身体状況は最悪。それを鑑みてももう魔術はほとんど使えない。これ以上使えば動けなくなるだろう。そんな状態でどうやって勝つ?結界のバックアップもなしに?ただでさえ、実力差の開いた相手に?
打つ手がない。ここで二人とも死ぬ。
状況を整理すればするほど、それがハッキリわかる。
真莉は強く首を振った。
諦めてなるものか。と、叫ぶのは心だけ。思考は何度も同じ結論を巡らせ、積みあがった死の選択肢が四肢を凍らせていく。焦燥感と意志だけが虚しく彼女に勝利を催促する。
そもそも相手の魔術の系統がわからなければ話にならない。
真莉が使う魔術が人体を触媒にするように、魔術師が使う魔術には、発動条件なり、使える魔術の種類なり、どこかに一本軸になっているところがある。
そこには、その魔術の存在意義や、少ない種類の触媒でいろんな魔術を使えたほうが(やはりそのぶん使う魔術に偏りが出るが)利便性が高いなどの様々な要因がからむが、ひとまず、敵が使う魔術にもまず間違いなくそういった系統があるはずなのだ。
あの動きを止める魔術にも。およびディザルマが込められているのに、流月で斬れない石像にも。
わかったところで勝ち目など……、と思う心を殺し必死に思考を巡らす。
生きなければならない。生かさなければならない。持てるもの全てを使って
(……持てるもの……すべて……?)
ふと、彼女の脳裏を掠めたのは、あり得ない選択肢。
その思いがけない思いつきに。思わず灯護を見てしまう。
灯護と目が合う。その瞬間彼女は弾かれたように目を逸らす。自分の目を通して今の考えが伝わってしまうような気がして。
(馬鹿なこと……)
思いついたことそのものを恥じた。何が馬鹿々々しいといえば、その選択肢を選んだところで結局は勝ち目がないところだ。
どうかこの考えよ、虚空に消えろと願う。しかし、彼女の隣にいるのは日ノ崎灯護。彼女が恐れた通り、彼には伝わってしまった。
「ねえ、湖月さん。僕なら大丈夫だよ」
ハッキリと、宣誓するかのように彼はそう言う。
彼は人の思考を読めるわけではない。だが、彼は真莉の感情の動きが何によってもたらされたのかを確かに読み取っていた。
真莉は言葉を返さない。視線すら合わせない。黙れ、と怒気だけ彼に飛ばず。
だが彼はそれを無視した。
「僕にできることがあるなら――」
「うぬぼれんな!」
ついに彼女の感情が爆発した。
「あなたにできることなんて何もないっ。流されていい加減なこと――」
「じゃあ、他に手があるの!」
廊下中に灯護の声が響く。真莉が今まで聞いた彼のどの声よりも大きく、感情的な声だった。
真莉の怒りに共鳴したのだ。しかし、灯護が持つ怒りは、彼女のものとは少し違う。
「確かに僕は流されやすいかもしれない。今もきっと君の感情に流されてる!でも、それでも嘘じゃない!僕が君に協力したいって、何かしたいって意志は嘘じゃないんだ!」
真莉は灯護を見ない。頑なに。
「あなたの感情のありようなんて関係ない!ただあなたにできることが……」
「嘘だ」
バッサリと切り捨てる。その断言の強さに、真莉は反論の言葉を飲み込んでしまった。それは灯護の言葉が図星であったことを認めているに等しい。答えに窮した彼女は別の言葉を吐く。その言葉にさきほどの力はない。
「……私はあなたを守らないといけないの」
悠斗のために。本当は彼が望んでいたように、こちら側の世界を見てすらほしくなかった。
だから、できない。この戦いに彼を利用するなど。
しかし、
「だったらできることは全てやるべきじゃないか!」
「……」
彼は引き下がらない。
およそ彼らしくもない、と真莉は思うが、しかし彼女は気付く。自分は灯護自身のことを何も知らないことに。
彼はいつも人の心と同調し、それに合わせた行動ばかりしている。そこに彼の個はない。それが彼らしさともいえるし、真莉もそうだと思っていた。そんな彼が嫌いだった。しかし、それは表面的な評価だ。実際彼が何を思う、どのような意志を持つ人間であるかは、真莉は全く知らない。十日近くの間ほとんどずっと一緒にいたというのに。
そんな彼が今真莉に激情をぶつけている。普段の彼ならきっと真莉の怒りを感じ取り、黙っていたはずだ。ならば、今見せている彼の姿が、本当の彼ではないのか。
真莉は思う。自分は今まで彼を見たことはあったのだろうかと。守るべき対象としてでも、誰かの心の鏡としてでもない。その姿に悠斗を透かして見ることなく、ただ一人の人間として……。
「湖月さん。僕を見てよ」
ハッと真莉は顔を上げる。そこには灯護の顔がある。彼の目はこんな時でも光が宿っていた。
「お願いだ。僕にも手伝わせて」
そこには彼の意志がある。言葉の隅々にまで。
真莉は初めて日ノ崎灯護という人間に会った気がした。同時に、今まで見ていた彼が死んだ。過去のしがらみと身勝手な責任感が生んだ、虚栄の彼が。
一度瞬きをする。その瞳には新たな灯が生まれている。彼女は決然と彼に向き直ると、深々と頭を下げた。さらりと肩から長い髪が流れる。
「ごめんなさい。私が間違っていたわ」
虚栄を見て、彼を見た気になっていたことを謝る。それが伝わるだろうかという心配はしない。彼にはそれで充分伝わる。
彼はただ頷く。それだけで互いの心は通じた。
「あなたの協力があっても、ほとんど勝ち目はないけど、それでもやるのね?」
「うん。それしか方法がないのなら」
覚悟は決まっていると。感情は流されていても、その意志だけは本物だ。
真莉も頷く。一連の会話で冷静にもなれた。剣を握り直し、自身が来た常設展のほうへと目を向ける。
まだ漏れてくる業火の光は続いている。だがあと五分も続かないだろう。急がなければ。
灯護へ手を差し伸べる。
「それじゃあ、手伝ってもらうわ。灯護君」
彼は眉を少しだけ上げる。そして、こんな状況だというのに、少しだけ頬を緩ませた。
「うん。よろしく。真莉さん」
その手を握る灯護の手は熱かった。
死が前提。生き残るための僅かに希望に、自暴自棄以外の感情で手を伸ばす……ことになるはずだった。
しかし、数分後。
「え」
あの真莉が感嘆詞を口にするほどの言葉を二つ、灯護から告げられたのだ。
「……できるの、それ」
「うんできた。結構簡単に。前説明をきいたときから、できるのかもって思ってて」
真莉は顎に手をあてる。
灯護が提示した二つの情報。それはどちらもとても大きな鍵だった。これがあれば、
「勝てるかもしれない……」
限りなく彼方にあった生存への希望。それが手を伸ばせば届きそうな場所にまで近づいた。生存の二文字が現実味を帯びている。
「本当に?じゃあ……」
「楽観的にならないで。言っておくけど、それでも勝率は五割程度よ」
嘘をついた。本当はこれでも三割もない。彼の心を挫かないためのせめてもの心遣いだった。
しかし、それでもゼロが三になったのは大きい。
「じゃあ、準備をはじめるわ。覚悟はいい?」
言った後愚問だと気付く。自分が覚悟を決めている以上、それが灯護に伝播していないわけはなく、そうでなくとも、彼の意志は決まっている。
「うん」
力強く灯護は頷いた。
そして、さらに数分後。ついに火ぶたが切られる。
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