第22話 真っ赤な花
「湖月さん⁉」
駆け寄る灯護。うずくまる真莉から反応はない。
周囲から感じるのはディザルマ。これは魔術だと流石の灯護でも理解する。
立て続けに状況は変化する。
ゴトリという音とともに、出口に立っていた彫刻が動き出した。その所作には緩慢さは一切なく、まるで人と同じ重さであるかのようにこちらへ歩いてくる。
灯護の喉が一気に干上がる。
近づいてくる彫刻。ただでさえ二メートル近くの大きさに作られているそれは、この状況ではそれ以上に大きく見え、迫りくる威圧感に押しつぶされそうだ。
身のこなしに対してその足音は重く、一歩ごとに音と振動が灯護を威嚇する。
灯護は動けない。かろうじてパニックにこそならなかったが、しかし、どうすればいいかわからない。
逃げたい。でも真莉を置いていけない。そもそも逃げられるのか。怖い。様々な感情と思考が入り混じるだけで行動へと移せない。まるで彼自身が彫刻へと変えられたかのように地面に足が張りついている。ただ呼吸のみが次第に荒くなっていくだけだ。
彫刻が彼の目の前までにきた。
過呼吸寸前になっている灯護へ、石とは思えぬほどの滑らかな腕が伸ばされる。翼を持つものが人間へ手に差し出す姿は奇しくもまるで救済しているかのような構図となった。
伸ばされた手が灯護に触れるその瞬間。真莉が跳ね起きた。
うずくまった姿勢のまま低い位置からの強烈な蹴りを石像に叩き込む。
岩同士が激突したかのような硬質な音が部屋に響いた。
一トン近くある巨体がグラリと傾く。しかし倒れない。見れば背中に生えた手の翼が地面につき、のけぞった体を支えている。
「くっ……『
すかさず真莉は絞り出すような声で呪文を唱える。
すると、石像はすさまじい勢いで吹き飛び、いくつもの展示物を台座ごと破壊して対面の壁に激突した。さらに真莉が追加で呪文を唱えると、周囲の影軸やら屏風やらがガラスを突き破って飛び出し、石像へと纏わりついた。
そこまでやって真莉は再び床へ崩れ落ちる。
「湖月さんっ」
真莉の息は荒く、顔色も悪い。その顔には嫌な汗が滲み、長い髪が張り付いている。すぐに次が来るとわかっていても体が動いてくれない。その表情には焦りが浮かんでいる。
(結界から切り離された……⁉)
湖月家の魔術師は、結界からバックアップを受けている。結界内に限り、その力は何倍にも増幅される。さっきの一撃でその結界からのバックアップから切り離された。
(でも、あり得ない……!)
そう、結界と術者のつながりは強力だ。真莉が未熟であるとかそういう問題ではない。結界とのつながりは彼女の父などの歴代の魔術師が結界自体に施した魔術によってできているのだ。それを断ち切るなど、相当強力な魔術が必要となる。侵入者がこの町に入ってから二週間。たったそれだけの時間で、そんな魔術が用意できるはずがないのだ。
しかもそれだけじゃない。これだけの魔術となると事前に準備が必要だ。どうしてそんな魔術が、最近来ることに決めた博物館に仕掛けられているのか。さらに言うなら、たかが魔術の目撃者を消すために、どうしてここまでする必要があるというのか。
あり得ないことばかりだ。しかし、事実こうしてそれらは起きている。
乱れた思考に、嫌な考えがさらに混ざる。
結界のバックアップがなければ真莉の実力は未熟者以下。万全を期した状態でも勝てなかった相手に勝ち目があるのか。最初の一撃ですでに息も絶え絶えだ。
床の魔法陣に目を下ろす。おそらくは呪いに近い魔術。外傷ではなく肉体機能そのものへダメージを与える系統のものだ。真莉の肉体には今、全力疾走した後のような虚脱感と病に罹ったかのような気持ち悪さが襲い掛かっている。
(落ち着け……落ち着け……!)
取り乱しては冷静な思考すら叶わなくなる。それに、灯護がパニックになっていないのは真莉の心と共鳴しているからだ。これ以上焦れば彼がパニックに陥りかねない。
「湖月さん、大丈夫?」
不安そうな灯護の声。事実今の焦りは彼に伝わってしまっているのだから、当然不安だろう。
虚脱感と不快感を気合で押しのけ、なんとか理性を用いて心を冷静にしていく。
真莉はあえて思考を放棄した。
今は考えていても仕方がない。いずれにせよやるべきことは一つだ。ならばただそれを愚直に遂行すればいい。
気力を振り絞り、ゆっくりと立ち上がる。体はふらつき、足も重い。
(戦闘用に切り替えてくるか)
石像を取りまいている屏風や巻物たちから、バリッと音を立てて石像の腕が飛び出る。その腕はさらにまとわりつくものを破壊していき、いとも簡単に拘束が破られていく。
真莉は大きく息を吐き、その瞳に闘志を滾らせた。
「日ノ崎くん、ちょっとショッキングかもだけど覚悟して」
「え?」
言い終わるや否や自身の目の前で自分の左手首を右手で掴む。左腕が青い光につつまれ、両腕に幾何学模様が浮かび上がる。そしてそのまま、彼女は鞘から剣を引き抜くような動作で、自らの左腕を引き抜いていく。
「……!」
唖然とする灯護。
だが、真莉が引き抜いていくそばから、引き抜かれた左腕は形を変えていく。徐々に現れるのは青き柄。鋭利な刃。そして完全に左腕が引き抜かれたとき、その手に握られていたのは刃渡り三〇センチほどの青い短剣であった。
一閃、空を切る。それだけで空気が震えるほどの威圧感が周囲に振りまかれる。
流れるような動作で足元の魔法陣に短剣を突き刺す。硬質な金属音が展示室に響き、床には剣は突き立たない。しかし、剣が触れた魔法陣はそれだけで光を失い、破壊された。
真莉の体が一気に軽くなり、倦怠感が和らぐ。
湖月家が代々使う、ディザルマを食らう青い魔剣『
事実灯護は、抜かれたときは真莉のディザルマしか感じなかったその剣に、さっきまで魔法陣に感じていたディザルマを感じている。さらに、引き抜かれた真莉の左腕はもう元に戻っていた。
目の前で見せられた神秘に充分灯護は驚いていたが、しかし次の瞬間起きた出来事は、完全に灯護から言葉を奪った。
その剣を掲げたかと思うと、彼女は自らの首を掻き斬ったのだ。
「なっ……!」
噴き出す鮮血。真莉の衣服が真っ赤に染まり、あたりに嫌な鉄の匂いが充満する。
「
囁き声のような真莉の声が空気を震わす。すると、とめどなく流れ出る血液が、意志を持つかのように彼女の体へ広がっていく。その血が全身を覆う頃には、元の服は消え、灯護の目の前に立つ少女は真っ赤なドレス姿となっていた。
まるでファンタジー世界の貴族のような艶やかな赤のドレス。鮮血で編まれたそれは、湖月家の人柱魔術による戦闘魔装『犠牲の衣』。その魔術は人間の血液を引き換えとする。
大量の出血をなおも続ける真莉の表情に変化はない。湖月の歪理はこれからだ。
言葉を失っている灯護の目の間で、切り裂かれた真莉の首がまるで別の生き物のように塞がり、出血が収まっていく。
湖月家が代を跨いで継承している鞘がある。
その鞘は何よりも硬く、また持ち主の肉体を癒す力を持つ。真莉の曽祖父がイギリスより持ち込んだその鞘は、湖月の暗く凄惨な歴史に終止符を打った。それまでの湖月家は人を触媒とする魔術の研究のために、様々な後ろ暗い方法で人間を調達し、魔術へと使っていたという、とても灯護あたりには話せないようなことをしていた。しかし、その鞘を手にして以降、湖月家は人間を調達することはなくなった。なぜなら、その鞘の回復能力を使えば、一人の人間で永久に人柱魔術の研究を行うことが出来るのだから。
ゆえに、湖月家ではその鞘を次期後継者に携え、現継承者は彼らの肉体を使って研究を続けたのだ。その闇が以前より深くないかどうかは、誰にもわからない。
ただ、何人をも癒す鞘が、人体を触媒にする魔術師である湖月家の魔術を大幅に強めたのは紛れもない事実である。
その鞘は、名をカレドブルグという。
望まずして継承者となった真莉も、もちろんその鞘を持っている。いや、持っているというのは正確ではない。湖月家の後継者は、その肉体そのものが鞘と同化している。それゆえにその身は鋼よりも硬く、その身から剣を引き出せ、肉体の傷はたちまち治る。
肉体という本来多大であるはずの犠牲を払って使っていた強力な魔術を、カレドブルグの力で手軽に幾度も使用する。それが湖月の魔術である。
「
再び静かな声が響くと、ドレスの裾をなしていた血液が床に流れ、生き物のように灯護を囲んで魔法陣を形成する。灯護には理解できないその赤い幾何学模様は、数度の瞬きのあとに青色へと変わり、灯護の周囲を水のような半透明な膜で囲う。
「そこにいて!」
言うと同時に真莉は一気に駆けだした。
カレドブルグの力で癒せるのは肉体の傷のみ。最初の呪いで体に蓄積した、疲労感などの内面的なダメージは回復していない。もともと施されている肉体強化とドレスのおかげで風のように走れてはいるが、そのフォームはめちゃくちゃで、足取りもおぼつかない。一歩ごとに意志を強く持たなければ膝をついてしまいそうだ。
だが真莉の目にも、心にも弱さの蔭はどこにもない。
石像へと右腕を伸ばす。
「
声に呼応し、ドレスの腕から無数の血の手が湧きだし、銃弾のような速度で石像に殺到する。
もうすぐ破られそうだった屏風たちの拘束ごと、無数の手が『救済』を貫く。
仕留めた、と思ったのは束の間。確かにハチの巣になったはずの石像は無傷だ。もはやボロクズとなった紙片を払いのけ、悠然と巨躯を立ち上げる。
その場が爆発したかのような瞬発力で、『救済』も真莉へ飛びかかる。
一瞬にして縮まる距離。交錯はコンマ一秒。
拳と刃が振るわれた。
交わりの勝者は真莉。空間をえぐるかのような石像の拳を頬に掠らせ、下からの切り上げが石像を捉えていた。
しかし、石像に傷はない。まるで実体がないかのように、斬ったはずの箇所が斬ったとほぼ同時にもとに戻ったのだ。
真莉が手にしたのは斬った手ごたえだけ。魔術を食らうはずの剣で斬れない事実に驚く間もなく、次なる驚きが彼女を襲う。
「……!」
体が動かない。まるで岩に閉じ込められたかのように微動だにできない。
魔術。しかも初動や前兆なしの高度なもの。
悠然と振り上げられた『救済』の拳が深々と真莉の胸に叩き込まれた。凄まじい重撃に固い体が陥没する。真莉の体は数メートル吹っ飛び、轟音とともに壁へと叩きつけられる。
「がっ……」
部屋に貼られた結界のせいで、壁は異様に硬くなっており、激しい激突に壊れもしない。衝撃は真莉にすべて返ってきた。
肋骨が折れ、肺は潰れたが、それらも瞬く間に回復していく。
だが敵も回復を待ちはしない。息つく暇なく次の拳が襲い来る。
急いで身を翻す。しかし、間一髪躱せるかという直前で、またも発動条件のわからないあの魔術が真莉の動きを止めた。
数瞬前まで真莉の心臓があった位置の壁へ『救済』の拳が撃ち込まれた。
ギリギリのところで真莉は回避――――できなかった。
顔を顰める彼女の視線の先には、壁と石の拳に挟まれ弾けた自らの右腕があった。爆散とでも表現すべき血しぶきが壁を彩っている。
動きの鈍い真莉に対して『救済』は容赦ない。潰した真莉の腕をそのまま持つと、彼女を持ち上げる。
「ぐぅっ……!」
痛みに耐えながら剣を振るうも、石像に傷は残らない。
『救済』が勢いよく真莉を持つ腕を振るう。軽々と真莉の体が宙を舞い、凄まじい勢いで床へ叩きつけられた。
パァンッとおよそ人間からしてはいけない音が部屋を震わす。
真莉の口から大量の血が吐き出される。
だがまだ終わりではない。敵は真莉の腕をまだ離さず、息つく間もなく彼女を壁へ叩きつける。
それからの光景は悲惨だった。
まるで赤子に遊ばれる玩具のように真莉の体が翻弄され、硬い床や壁に叩きつけられる。その度に彼女は脱臼、骨折、内臓破裂し、そして回復する。真莉からすればまさに地獄。肉体にかけられた魔術が、気絶さえ許さないのもまた拍車をかけた。
彼女が何度口や裂けた皮膚から血が噴き出しても、その血は尽きることは無い。
白い石像は赤く染まり、その周囲も一面真っ赤に染まった。
「やめろ!」
突然響いたのは灯護の声だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます