第15話 影が差す日常
流方市の西側から東側にかけて、一本の川が流れている。赤路川と呼ばれるこの川は、普段の流水量は少ないが、大雨などの増水時には非常に流水量が増すために、左右五メートルほどのコンクリート壁に挟まれている。結果、平時において、この川はまるで深い堀のような様相を呈している。
川に沿ってずっと長く並ぶは、街灯と桜の木。数キロ続くこの桜街道は、この町の観光名物だ。つい春先まで満開だった桜の木々も、いまや青々と葉が茂っており、それを眺めに来る人間もいない。
桜の枝は、街灯の光とともに遥か下の水面へとしだれている。この都会のど真ん中で僅かに残された自然だけの空間。コンクリートに挟まれたこの場所には、降りる場所も上る場所もない。それゆえに、めったにこの場所に人が足を踏み入れることはない。
しかし、今日は少し違うようだった。
川を渡す一本の橋の上で、爆音とともに粉塵が巻き上がる。続いて、一つの影が川へと落下してきた。
影の正体はローブに身を包んだ大柄な人間。フードによって顔は見えないが、おそらく男。右手には大量の装飾品が付いた杖を持っている。その者は、飛沫を巻き上げ着地すると、橋へと振り返る。
と、同時にもう一つの飛沫が上がった。
そこに立つは、黒く機能的な服を身に纏った茶髪七三分けの若い男、新井壮一。英語教師としての姿を持つ彼だが、今現在彼が纏う雰囲気は昼のものとは全く違う。
ノアリーのエージェントとしての彼の姿。眼鏡の奥に光る眼は、氷の刃のように鋭い視線を持っている。なにより、腰には重厚な黒さを放つ拳銃、背中にはナイフと、その恰好もまた殺伐としたものに包まれたものになっている。
「つれないな。逃げんなよ」
その余裕そうなセリフとは裏腹に、彼の口調は焦りが滲んでいる。
こうしてこの侵入者と対面できたのは、新井が見つけ出したからではない。男が近くにある研究所に侵入したのを、研究所自体に張ってある魔術が探知したために、新井が駆けつけただけだ。
ここを逃がせば、再び見つけ出すことは難しい。
にらみ合いは一瞬。
新井の手がブレたかと思うと、次の瞬間彼は腰の拳銃を発砲していた。
銃声が何重にも反響し、いくつものマズルフラッシュが夜を飾る。
「チッ」
しかし、男には当たらない。外すはずのないこの至近距離で。
これもまた魔術。意志なき脅威は彼らには届かない。
男も動いた。身の丈以上の長さを持つ杖を振るう。銀の装飾品同士がぶつかる高音とともに、男の周囲の水面が数か所ボコボコと盛り上がり人型となる。それらは、目鼻も五指の分かれもない。できそこないのただの木偶。
「……っ!」
即座に駆け出そうとした新井の表情が歪む。足元見れば、新井が足を下ろしている周りの水面だけが時が止まったかのように動きを止めており、同時に新井の足も動かせなくなっている。
そこへ追いすがる水木偶たち。
慌てて発砲する新井だが、水の体に物理攻撃など効くはずもない。弾は当たりはしたが、なんの効果もない。
川辺の壁に飛沫が飛び散った。
その飛沫は、赤くない。全ては水。木偶を構成していた水の破片だった。
崩れ去るは水木偶ども。川に立つは新井の姿。その手には月光を鋭く返すナイフが握られていた。そのナイフは金属のような質感を持ちながらも、ルビーのように赤く透き通っている。
ディザルマでならディザルマに干渉できる。ゆえに、このナイフでなら魔術を斬れる。
足元に半透明のナイフを振るう。それだけで足の拘束が緩む。
が、敵もさるもの。新井が体勢を立て直したそのときには、彼の周囲に再度水木偶が出来上がっている。
これではさっきの焼きまわし。悠長なことをしている間に逃げられる。
歯噛みする新井。ローブの奥で男が笑みを浮かべた気さえした。ナイフを振るう新井を尻目に、男は距離を離していく。が、数歩も進まぬうちに異変を感じる。頭上に
見れば、遥か頭上の橋の上で姿の、真っ赤なドレスを着た長身の少女が魔術を展開している。
その少女は湖月真莉。中世の貴族のような格好で剣を掲げている彼女の目は、冷たい。断罪を下すかのように、掲げていた短剣を振り下ろした。
「
本来魔術には多くの時間と手順を必要とする。しかし、それでは戦闘で使えない。そこでほとんどの魔術師は発動待機状態にまで準備した魔法を持ち歩き、特定の短い呪文や仕草を引き金にそれらの魔法を使うことで魔術を即座に使えるようにしている。これらの魔術を呼び起こす手順の総称を
真莉の
数秒ののち、真莉が見上げる中空には直径四メートルほどの水の球体ができあがっていた。
湖月が得意とする水の結界。しかし……。
球体から水の槍が伸びてきた。
奇跡的な反応で胸の前で交差させた腕に、水槍が勢いよく突き刺さる。頑丈な真莉の腕が魔装であるドレスごと穿たれる。それでも勢いが止められず、対面の手すりへと叩きつけられる。金属製の手すりが大きくゆがんだ。
「ぐっ……」
顔を顰める真莉。腕から流れ出た血が、刺さった水槍へ溶けていく。
貫通されなかった左手に短剣を持ち替えて振るう。すると、水の槍はおろか、水塊すらも形を失って四散した。
彼女の持つ短剣もまたディザルマに干渉する力を持つ。ただし、新井が持つ程度のものと違い、彼女の剣は、ディザルマを食らう。新井のナイフが一時的に魔術を乱すだけに留まるのに対し、彼女の剣は魔術を根こそぎ破壊するのだ。
水塊は消え、後には何も残っていない。いや、水塊に捕らわれていたはずの男のローブだけが、切り刻まれたボロクズとなって欄干に引っかかっていた。
真莉は舌打ちをした。
「逃げられた……」
ふ、と息をつくと持っていた剣も身に纏っていた真っ赤なドレスも虚空に消え、Tシャツにジーパン姿のいつも格好に戻る。彼女の腕に穿たれた穴も逆再生でもされているかのように数秒の後に塞がった。
川から人間離れした跳躍で、新井が真莉の隣に降り立つ。
「大丈夫か」
「平気よ」
追う術はない。
真莉は静かに舌を噛んだ。
水を使った結界は、湖月家の最も得意とする魔術だ。さっきの水塊は、あのとき真莉が使える中でもかなり強力な部類の結界だった。それなのに、あっけなく破られあげく、逆に結界を乗っ取り返された。
魔術師としてのレベルの違いがハッキリと出てしまっている。自分の未熟さに嫌気が差す。
「そう落ち込むなよ。相手さん相当な術士だぜ」
「そういうのいらないから。で、被害は?」
新井は肩を竦める。
「保管されてたAクラス
「
文字通り、魔術を使うための触媒となるもの。宝石や紙など、物の種類は魔術によってさまざまだ。灯護に渡したペンダントもその一つだ。
真莉は顎に手をあてる。
いくらAクラスの
「この町で何かやろうとしてるわね」
「だな。しかも触媒まで現地調達。舐められてるな」
とはいえ今のところ完全にしてやられている。侵入者からすれば妥当な判断かもしれない。
「ところで、墓地の件の報告読んだか?」
「まだ。でも恭佳から聞いたわ」
「珍しっ。あいつが報告書読むとか」
「あの子最近は半分くらい読むわよ。……特に不審な点見られず、でしょ」
「そ。やっこさんあんなところで何してたんだか」
それがわかれば苦労はしない。
真莉は携帯端末を取り出して時間を確認すると、新井に背を向けた。
「私行くから。そろそろ彼のバイトが終わる。後片付けよろしく」
息もつかずにその足で行くのかと新井は目を丸くする。服も長い髪も水を被って濡れたままである。
新井は少女の背に手を伸ばしかけてやめる。
知っているから。彼女は止まらない。
各所が抉られた橋の上で、新井は煙草を吸う。
「……つぶれちまうぞ」
吐き出した煙は、晩春の風にたちまちバラバラとなった。
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