第4話 青い少女

 日もすっかり落ちた夜。雲の隙間に星が覗く空の下、灯護はようやく家の前にまで来ていた。剣道部の助っ人にでたせいで空腹も最高潮。一刻も早く家のドアをくぐりたい灯護であったが、その彼はいま、玄関を前にして立ち止まっていた。


 住宅街の真っただ中にある庭付きの一戸建て。石段とランプで妙に西洋風に洒落たデザインをしているこの家が灯護の家だ。


 ノブにかける手には冷や汗。纏う空気は重い。この先に待ち受けものを想像しただけで表情が強張る。


 彼はその異能で家の中にいる人物の感情を感じ取っていた。


 すなわち、


(おばあちゃん、めっちゃ怒ってるううぅ……!)


 扉の向こうから感じるのは怒り。顔を合わせるまでもなく、共鳴キャン色彩バスが祖母の真っ赤な怒りを教えてくれる。


 今日は兄の墓参りに家族で行く予定だったのに、いつも通り頼みを断れないせいでそれをふいにしてしまった。怒り心頭なのも当然だ。


 直接言うのは怖かったので、妹に電話することで間接的に遅くなることは伝えていたのだが、それは怒られるのを先送りにしただけに過ぎない。


 共鳴することで自身の感情が怒りに染まっていくのを感じ、慌てて理性で自分をなだめる。


 これも共鳴能力の困ったところだ。悲しみや喜びなどの自身へ向ける感情だけでなく、怒りや敵意などの相手へ向ける感情にまで共感してしまう。そのまま感情に流されれば、怒っている相手に怒り返すという支離滅裂な言動をとってしまうのだ。


 灯護は共鳴キャン色彩バスをほとんどコントロールできない。共感のオン・オフはもちろん、共感する相手を選ぶことも、自身の感情がどこまで能力によって染められたものかの把握もできない。が、あまりに今の自分と乖離した感情はさすがに自分でも能力によるものだと自覚できるので、こうして理性的に自分をなだめることである程度管理できる。


 だが、そんなことより今は、おばあちゃんである。


 灯護は決めた。


(先にお墓参りに行こう)


 現実逃避である。


 いずれにしても彼は今日中に墓参りに行くつもりではあった。夜の墓参りなんて背筋が寒くなるが、しかし、兄の命日は今日だ。自分の優柔不断さのせいでそれを後日にまわすなんてことは自分が自分を許せない。自分自身へのけじめでもある。


 彼は自転車置き場に荷物を置くと、通学に使っている自転車へ再度またがる。妹に墓参りへ行く旨を連絡し、夜の闇へと繰り出した。


 自転車を漕いで、住宅街を駆け抜ける。八時すぎという時間だが、大通りから離れたこの辺りは、もう人の気配はなく、周囲の家に明かりが灯っているのみである。


 墓所自体はそれほど遠くなく、自転車で一〇分ほどの場所にある。問題はその場所だ。墓所というのはだいたいそうであるが、住宅街から少し離れた人通りの少ないところに置かれる。この時間帯となれば確実に誰もいないだろう。しかもこれから向かうところはほとんど街灯もないときた。これで微塵も怖くないという人のほうが少数だろう。


「はぁ……」


 自転車で坂を上りながら灯護は嘆息する。


 結局頼まれたら断れないツケをこういう形で払うことになっている。夕方の自分を恨んだ。


 一人で夜の墓所に行くなど憂鬱以外の何物でもない。しかも、灯護の場合、普通の人以上に憂鬱であった。


 なぜなら、感じるからだ。


 平時の場所でもたまにあるが、墓所などは特に、誰もいない場所に何者かの感情を感じるのだ。能力による共感であるから気のせいではない。そこには確かに誰かがいる。


(この世には幽霊までいるってこと、だよね……)


 なまじ存在をリアルに感じるがゆえに、半信半疑よりもより怖い。


 考え始めるとペダルを踏む足が重くなる。住宅を通り過ぎるたびに漂ってくる夕飯の香りや、談笑する人々の楽しそうな心に共感して足の重りを外していく。


 せめてもの救いは月が明るいということか。まだ半月ではあるが、快晴の空に浮かぶその姿は頼もしい。眩しい月光が影を作り出すほどに周囲を照らしている。これなら街灯なしでも十分に視界は確保できそうであった。


 坂を超え、少し丘になっている場所までたどり着く。丘の壁面を削って作られた墓所は、階段のように段差が連なり丘に沿って墓石が並べられている。


 案の定人は誰もいない。喧騒から隔離されたこの場所でなら、月明かりに掘り出された墓石の呼吸まで聞こえてきそうであった。


 自転車を入り口近くに停め、一つ深呼吸。気合とともに灯護は墓所に踏み入った。


 砂利を踏みしめ次々段差を上っていく。ジャッジャッと砂利を踏む音だけがこの空間に溶けている。


 月明かりのおかげで暗さに困ることはない。むしろここまで月光に染められた世界を楽しむことすらできそうだ。


 が、いいことばかりが連続するはずもない。


「げ……」


 自身感情に別の感情が混ざった。その感情を感じるほうを見てももちろん誰もいはしない。


 冷や水をかけられたように悪寒が走る。


 自身に混ざる感情は、強い後悔。その感情は、重く辛い。


 灯護が幽霊を苦手(得意な人はそういないだろうが)な理由の一つとして、彼らから伝播してくる感情の特異性がある。彼らの感情は、往々にして負の感情であり、そして何より純粋であるのだ。単一で純粋な負の感情など、それを共感してしまう灯護にとっては気持ちが悪いことこの上ない。生きている人間からは感じえない感情が自分に芽生えるのだから。


 眉をひそめて先を急ぐ。しかし、やはりというべきか、行く先々に感情を感じる。


 昼間より夜のほうが幽霊を感じやすい。やっぱり昼に来るべきだったか、と何度目かの後悔に見舞われたところで、灯護は自分以外の砂利を踏みしめる音を聞いた。


 思わず飛び上がった。


 並ぶ墓石に挟まれた通路。その先には、一人の人間が立っていた。しかも、こっちを見て。


「かっ……‼」


 あまりの驚きに声すら上げられない。心臓が握りつぶされたかのように縮まる。


 誰もいない、いるはずもないと思っていた場所にいる人影。ついに幽霊が見えたのか、それともあれが人間なのかは判別つかない。だがなんにせよこんな時間こんな場所で佇んでいる存在がまともな存在であるはずがない。


 無視することも、さりとてどうすることもできず、驚いた姿勢のまま体が凍る。


 その間もその存在は身じろぎもせずに灯護のほうへ向いている。距離は二〇メートルほど。


 僅かな時間が灯護には永遠にも感じられた。


 月の光を背後に受けたその存在は、フードを目深にかぶったローブ姿に右手には長い杖。そのシルエットからは性別もわからない。


 体の氷溶けきらぬままに、さらなる驚愕の事態が襲い掛かる。


 影が一度杖をつく。鈴の音が痛いほどに墓場に響くと同時に、杖がみるみる姿を変え、やがて一本の棒のようであった杖が、複雑な装飾が垂れ下がるそれへと姿を変える。


 灯護はもはや息すら忘れた。


 影が二度目の杖をつく。瞬間、両隣の墓石に感情が宿った。


「えっ……⁉ ……⁉」


 突然発生した人の気配。その驚きは両隣に人が瞬間移動してきたに等しい。


 困惑も混乱ももはや追いつかない灯護をよそに、墓石が震え動き出す。繰り広げられるは目を疑う光景。破片を散らし、再び見ればその姿は人の形。直方体の大きな石を頭とした異様な頭身の石人が立ち上がる。


「うあ、あ……」


 足の力が抜け、尻餅をつく。思考はとうに失われている。


 二体の石人は悠然と基礎を降りて弱者を見下す。


 得体の知れない存在。理解できない現実。人でないものから感じる人の気配。


 ようやく湧き出た逃げるという選択肢も、背後現れた石人が潰す。


 いわゆる八方ふさがり。詰め寄ってくる石人。伸ばされる石の手。月明かりを反射する滑らかな石面に慈悲はない。


 月が分厚い雲に隠れた。


「うわあああぁぁ!」


 恐怖が彼を飲み込んで、彼は頭を抱えてしゃがみこんだ。


 そのとき――


 カッ、と軽く鋭い音がした。続いて四方からゴトリと落下音。


 その音に身を竦めた灯護であったが、しかしいつまでも自分に何事も起きない。恐る恐る首を上げ、再び目を開いた灯護の瞳に映ったのは、両断された石人の残骸と世闇に舞う長い髪。


 一人の少女が灯護を背に襲撃者へと対峙していた。その手に持つのは、淡く光る短剣。日常とこの場から乖離したその西洋剣は、光とともに畏怖すら覚える空気を纏っている。


 少女から伝播してくるのは闘争心。それが灯護の恐怖を押しのけて、彼に幾ばくかの勇気を与える。


 灯護を無視し、事は進む。


 三度地を叩く音と同時に、周囲十数体の墓石が石人へ変じる。


 同時に少女の剣が煌めく。次の瞬間には近場の石人は両断され、続けて放たれた拳が隣の二体をまとめて砕く。


 蹴り、切り、殴り、一人の少女が群がる石人を次々屠る。その姿は舞うようで、尾を引くように続く髪が剣の軌跡と編まれていき、紡ぎだすは暴の文字。


 青の嵐はすぐに過ぎ去り、残され立つのは一人の少女。積み重なった石の亡骸を踏みしめて、持っていた剣は夢であったかのように消えている。


 もってここに静寂が返った。


 ひととき前とは全く有様を変えた墓所。墓石の欠片が転がる音が、ひどく大きく響いている。


 その空間で、灯護はただ口を半開きにして立ちすくんでいた。


 月光の浴びて佇む少女は、しばらくあたりを見渡したあと、肩を落とした。そして、灯護のほうへと、足を進めてくる。


 対して灯護は立ち尽くすのみ。近づいてくる影を前に後ずさりもしない。未だ続く激しい動悸とは反して、もうその表情に恐怖の色はなくなっている。


「怪我はない?」


 月を覆っていた雲が立ち退く。蘇った月明かりに、少女の顔が照らされていく。


 灯護は瞠目した。そこにあったのは、知った顔だったのだ。


 ポニーテールにしてもなお腰にまで届く長い髪。見覚えのある制服。特徴的なつり目が、厳しい表情を作りつつも、そこには気づかわしげな色が見えている。


「湖月……さん……?」

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