最終章 第3話 Eidolon その4
「久良屋、さん……?」
ゆらりと姿を現した深月は顔を伏せたまま、龍二やうてなに視線を向ける素振りもない。
ただ黙って博士の隣に立ち、それ以上は動かなくなる。
数週間ぶりに見る彼女は、龍二が良く知る少女とはまるで別人のように思えた。
俯いた顔を隠す髪は、以前よりも短くなっているが、それが理由ではない。
深月が纏う空気そのものが違っていた。
それはまるで、灰色の影を背負っているようだった。
龍二は助けを求めるようにうてなを見る。
だが、うてなは首を振る事しかできなかった。
彼女もまた、龍二と同じように困惑している。
二人の視線は当然、博士へと向けられた。
「……彼女に、なにかしたのか?」
「見ての通り、久良屋深月は今、拘束されている身だ。特別なことはしていないよ。まぁ、尋問程度は当然しているが」
それも形式的なものでしかないと、博士は肩を竦める。
「そのわりに、かなり疲れてるように見えるけど?」
「彼女自身が食事を拒むのでね。私たちも手を焼いているのだよ」
「それだけとは、到底思えないけどね」
明らかに様子のおかしい深月を見ながら、うてなは目を細める。
「拘束した理由は? 言っておくけど――」
「君たちの逃亡には加担していない、と言うのだろう? それはわかっているよ。理由は別にある」
君たちにも見せよう、と博士は端末を再び操作する。
新たに映し出された映像に、龍二とうてなは思わず声を上げそうになった。
「君たちが逃亡したあの日の映像だよ」
モニターの映像を見ながら、うてなは自身の予想が当たっていた事を理解し、同時に舌打ちした。
あえて龍二には伝えずにいた事が無駄になり、行き場のない苛立ちを博士に向ける。
うてなの視線に気づいた博士は、微かに唇を歪めた。
変化したかもわからないほど僅かな歪みだったが、うてなは間違いないと確信する。
「あの日、逢沢くのりの足止めをしたのは彼女だよ。結果は、見ての通りだがね」
映像に見入っていた龍二は、その戦いに息を呑む。
倒れたくのりに跨り、銃を突きつける深月。
なにを話しているのかはわからないが、一瞬の隙をついてくのりが銃を奪い、形勢は逆転していた。
そして深月は、敗北を受け入れるように銃口を見上げる。
その姿は、撃たれる事を待っているかのようでもあった。
だがそれは叶わない。
くのりは引き金を引かず、深月の頭部を殴りつけて気絶させ、その場から姿を消した。
映像は、そこで途切れる。
「逢沢くのりはその後、警備を突破して君たちの下へ向かった、というわけだ」
「……これを見せて、なんの意味があるんだ?」
「君は知りたいのではないかと思ってね。残り少なかった逢沢くのりの生命と時間を削り取ったのが、誰なのかを」
「――――っ」
博士の言葉に肩を震わせたのは、龍二だけではなかった。
意識すらないと錯覚しそうなほど静かだった深月の肩が、跳ねるように震える。
龍二の視線から逃れるように、深月は伏せていた顔を僅かに背ける。
そんな深月に、龍二はどう声を掛けていいのか、わからなかった。
「回収した遺体の状態から言って、致命傷となったのは腹部に受けた銃弾だろう。だから、彼女が殺したとみることはできないがね」
震える深月の肩に手を置き、博士は続ける。
「ただ、彼女との戦闘がなければ、警備を突破する際に銃弾を受けることもなかったとも考えられる。これはまぁ、あくまで可能性の話だが」
博士の視線が、ゆっくりと龍二に向けられる。
爪先から絡みつくような、不快な視線だ。
「久良屋深月が奪った時間は、君と逢沢くのりの時間だ。彼女がいなければ、逢沢くのりは君たちと生きたまま合流できていた可能性が高い。共にすごす時間が数日か、それとも数時間か、数分程度だったかもしれないが」
背中から潜り込んだ言葉の爪が、龍二の心臓を撫でていく。
悪意を塗りたくった毒が、ジリジリと傷口を焼くように染み込む。
「少なくとも、逢沢くのりが孤独に死んでいくことは、なかっただろうな。君が見つけた時には、もう死んでいたのだろう?」
「――――っ、あっ、あんたはっ」
博士がなにを言いたいのかを理解した龍二は、拳を握り締めて震わせた。
まだ癒えていない傷口が開き、血が滲み出すような感覚に襲われる。
「恨む相手を間違っているぞ。君が恨むべきは、彼女だろう?」
博士はそう言って深月の背中を押す。
一切の抵抗もなくよろめいた深月は、龍二の前に膝をついた。
「…………」
俯いていた顔が、初めて上がる。
「…………久良屋、さん」
その表情に、龍二は喉を締め付けられる。
前髪の間から覗く、生気の欠片も感じられない、目を逸らしたくなる灰色の双眸。
なのに彼女の表情は、どこか穏やかに見える。
全てを諦め、ただ終わりを待っているような……。
うてなもそれを、龍二の隣で見てしまう。
あの日から、深月になにがあったのかはわからない。
だが、先ほどの映像を見ていた時にも感じた。
死を望むような気配に、湧いて来る感情は怒りだった。
憐れみも同情もない。
ただ純粋な怒りが、うてなの中で渦巻いていく。
「彼女はね、君たちの追跡任務を拒んだ」
独り言のように言いながら、博士は歩く。
「エージェントとして活動する気も、もうないと言う。拘束されている理由はそれだ。彼女はエージェントであり、それ以外の何者でもない。本人も、エージェント以外の生き方など考えられないようでね。だが、任務を拒むエージェントを、組織は必要としていない。だから、わかるだろう?」
組織にとって、久良屋深月はもう必要ない。
博士は言外にそう告げて、懐から取り出したそれを龍二の手に握らせた。
「そこで、彼女の処分は、君に一任しようと思う」
「――――これ」
握らされたそれがなんなのか、そして博士がなにを言ったのかを理解した龍二は、弾かれたように顔を上げる。
「まだ開発段階の銃だが、すでに実用段階に入っているものだ。これを使うといい」
「……あんた、なにを言ってるんだ?」
「安心しろ。これは火薬を使用していない消音拳銃だ。反動もないに等しく、素人でも扱える」
「――――っ」
龍二の背後に回った博士は、そのまま抱き締めるように両腕を回し、銃をしっかりと握らせる。
「狙うなら胴体がいい。これは暗殺用でね。貫通力と射程が極めて低いが、その代わり、致命傷にならない箇所でも、最大限の効果を発揮する弾丸が込められている。内部に留まった弾丸から毒が漏れ出す仕組みでね。この距離であれば、君でも確実に彼女を殺せる」
あとは引き金を引くだけだ、と耳元で囁き、博士は龍二から離れた。
強引に引き剥がそうとしていたうてなに笑いかけ、更に一歩下がる。
「あんたねっ、悪趣味も大概にしろっての!」
「君が口を出す問題ではないだろう? これは安藤龍二と久良屋深月の問題だ」
「だ、だからって!」
言ってやりたい事は山ほどあるが、今はそれよりも優先するべき事があるとうてなは振り返る。
「龍二」
「……わかってる」
博士から解放された龍二は、握らされた銃を手にしたまま、深月を見ていた。
今のやり取りを目の前で見ていたにも関わらず、深月は微動だにしない。
それはまるで、狙いが外れてしまわないようにしているかのようだった。
「装填されている弾は、一つだ」
ゆえに、チャンスは一度しかないと言うのだろう。
わかりたくもない博士の言葉に、龍二は一度目を閉じ、開く。
「罪には問われることはない。君が思うようにすればいい」
断崖に立つ者の背中を押すような言葉に、うてなは博士を睨み付ける。
それ以上は喋るなと言わんばかりの剣幕に、博士は大人しく引き下がると肩を竦めた。
あとは、安藤龍二次第だ。
「…………」
なにかを言おうとして口を開いたうてなは、そのまま口を閉ざす。
認めたくはないが、博士の言葉に嘘はなかった。
全て可能性の話ではあるが、深月と戦わなければ、結末は違ったものになっていたと、思えてしまう。
ドア越しに聞いた慟哭が、今も耳に残っている。
なんの意味もないとしても、それで彼の傷が癒えるのなら、止める事はできない。
悔しいが、博士の言う通りだ。
これは二人の問題なのだと、うてなも思ってしまった。
同時に、深月との時間が脳裏を駆け巡る。
龍二の手を掴んでしまいそうになるが、相反する感情に動けない。
うてなはそのまま、横から龍二を見ているしかできなかった。
拳銃のグリップを握る指が、僅かに動く。
「…………」
その動きに答えるように、深月は頬を緩める。
そして、唇だけを動かした。
声にはならず、ごめんなさいが空気に溶ける。
その言葉を吸い込むように息を止め、龍二は微笑む。
「君を撃つなんて、できないよ」
葛藤などなかった。
龍二は銃口を下げ、深月の前に膝をつく。
同じ高さに並んだ事で、しっかりと深月の表情を見る事ができた。
「…………どう、して? 私は……私が、いなければ……」
「うん。久良屋さんがいなかったら、僕はここにはいなかった。君とうてなのおかげで、僕はここに辿り着いたんだ」
「ちが、うっ……私は、逢沢くのりをっ」
穏やかな龍二の言葉を、深月は首を振って掻き消そうとする。
だが、なにも変わらない。
「見たよ。君とくのりがどうしたのか」
「――だったら」
「君は撃たなかった」
「違う! 撃てなかっただけっ、撃とうとした! 殺すつもりでっ、でもっ!」
できなかっただけだと、言葉が床に落ちる。
龍二は深月の腕に触れ、笑いかけた。
「それは君が知ってたからだよ。人を殺しちゃいけないって。殺したくないって、君が思ってるからだよ」
「……それじゃあ、ダメなの。私は、エージェントで……じゃなきゃ……」
「いいじゃないか。エージェントなんてやめちゃえばいい。久良屋さんには、向いてなかった。ただそれだけだよ」
「だからそれじゃあ私は……私には、なにも……」
「探せばいい。きっとなにか、どこかにある。自分にはなにもないなんて考えるのは、早すぎるよ」
ここが始まりなのだと、龍二は思う。
命令に従うだけのエージェントではなく、彼女が彼女として考え、決断し、生きていく。
「……本当に、それでいいの? 私はあなたの、大切な人を……」
「そもそも誤解してる。僕は君を恨んだりしてないし、君のせいだなんてこれっぽっちも思ってない。考えたこともない。君を責めるなんて、それこそおかしいよ」
一点の曇りもない眼差しに、深月は息を呑む。
どうしてこんな状況でそんな目をしていられるのかが、わからない。
安藤龍二の想いを、逢沢くのりに対する強い感情を知っているからこそ、深月は困惑する。
「さっきも言ったけど、君がいてくれたから、僕はここにいる。あの日からずっと……何度も、助けて貰った。守って貰った。君と、うてなに」
「――それは任務で」
「うん。それでもやっぱり、助けてくれた事実は変わらない。僕が感謝するのに、任務かどうかは関係ないよ」
「……あなたがどう思うかは、自由だけど」
それでも自分の罪からは逃れられないと、深月は顔を伏せる。
彼女の視線を追うように、龍二も目を伏せた。
「……くのりと戦ったのも、任務だったから、だよね?」
返ってきたのは、沈黙という名の肯定だ。
久良屋深月はエージェントとして逢沢くのりの前に立ち、戦った。
龍二が言う通り、任務として。
「なら、それに対してどう思うかも、僕の自由ってことになる。だったらやっぱり、答えは変わらない。僕はずっと、君に感謝してる。君が護衛で良かったって、本当に思ってる。もちろん、うてなも」
龍二はそう言って、うてなの方に視線を上げる。
ずっと向けられていたうてなの視線は、すでに柔らかさを取り戻していた。
少しでも不安に思っていた事が馬鹿らしいとすら思っている。
安藤龍二ならそう言うだろうと、頬を緩めた。
そんなやつだからこそ、逢沢くのりも恋なんてものをしてしまったのだろう。
「……くのりのことは、君のせいじゃない。僕がどうするかを決めて、ああいう結果になったんだ。久良屋さんが気に病むことじゃない。っていうか、僕が背負うものだから。勝手に背負われても困る」
顔を上げた深月は、そう語る少年の瞳の奥に、燃え尽きた感情の残滓を見た。
確かな傷が、そこには潜んでいる。
それを抱えたまま、それでも彼はこうして自分の前にいるのだと、理解した。
深月の胸の奥で、なにかが疼く。
全てを捨てたはずの、なにも残っていないはずの場所に、痛みが走る。
その痛みに意識が乱され、血が流れ出し、全身に通う。
「……りゅう、じ」
それがなんなのかを、深月はまだ理解できない。
ただ、掠れた声で、彼の名を呼んだ。
「本当に、ありがとう。何度も言わなくていいって言われるけど、ごめん。それ以外の言葉が、見つからないから」
少し照れくさそうな、はにかむような笑顔を見せ、龍二は立ち上がる。
深月は自分をただのエージェントだと言うが、龍二はそれだけではないとずっと思っていた。
確かに普通の女子高生とは違う。
けれど、無機質だと感じた事はなかった。
彼女には彼女の意思があると、龍二は感じていた。
ズレているところはあったが、でもだからこそ、人間らしくも見えた。
「彼女を赦す、か。どこまでも善人だな」
感情の読み取れない博士の声に、龍二たちは振り返った。
博士は近くの機械に背中を預け、腕を組んでいた。
相変わらず、観察するような視線を龍二に纏わりつかせて。
「だから、許すとか許さないとか、そういうのは最初からない」
答える龍二の声は、先ほどまでよりもどこか力強い。
深月と話した事で、内に秘めた決意は更に強固なものになっていた。
それが龍二の声に、力を与える。
博士は内心の高揚を隠そうとするが、僅かに口角が上がっていた。
すぐ隣で聞いていたうてなも、その変化に気づく。
だが、なにかはわからない。
わからないまま、うてなは龍二の肩に手を伸ばす。
その手が龍二に届くよりも先に、彼は動いた。
銃を手にした腕を上げ、銃口を向ける。
彼の視線が捉えているのは、正面に立つ博士。
そして龍二が銃口を定めたのは、自分自身の心臓だった。
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