最終章 第3話 Eidolon その5

「……それ、なんの冗談?」

 最初に口を開いたのは、隣に立つうてなだった。

 博士の話が本当なら、彼が握っている銃は容易く人の命を奪う事ができる。

 百歩譲って博士にそれを向けるのならまだしも、自分自身に向けるのは、やはり冗談としか言いようがない。

 それもかなり質の悪い冗談だ。

 うてなの声に咎めるような色が滲むのも、当然だった。

「冗談のつもりはないよ」

 銃口を心臓に当てたまま、龍二は困ったような笑みを浮かべて答える。

「冗談じゃなきゃなんだっていうわけ?」

 うてなは目を細め、龍二をねめつける。

 二人の背後で微かな衣擦れの音がした。

 座り込んでいた深月が、よろめくように立ち上がる。

 それに気づいたうてなは、深月の側に移動して支える。

 感謝するように深月は首肯し、龍二を見る。

「……なにを、考えているの?」

 二人の突き刺さるような視線を受けた龍二は、一瞬だけ頬を緩め、博士に向き直る。

「取り引きをしたい」

「まぁ、そんなところだろうな」

 さして驚きもせず、博士は腕を組んだまま唇を歪めた。

 龍二の行動に高揚しているのは、誰の目にも明らかだ。

「ちょっと待て。いきなりあんた、どういうつもりよ?」

「ごめん、うてな。なんの相談もしなくて。でも、決めてたんだ」

「だから待てって言ってんの。勝手に話進めんな」

「ごめん」

「ごめんじゃなくて! いいからそれ、早く下ろせ」

 苛立ちを募らせるうてなに、龍二は首を振る。

 なら力づくで、と手を伸ばそうとするうてなを、龍二は見た。

 思う通りにやらせて欲しいと、無言で語る。

 疑いようもないほどはっきりと意思を示す龍二に、うてなは唸る。

 龍二の意思を尊重すると決めたのは、うてな自身だ。

 ならここでそれを阻もうとするのは、筋が通らない。

 たとえそれが、不安しか覚えない空気を孕んでいるとしても。

 困り果てたうてなは、肩を抱く深月に視線を向ける。

 その助けを求めるような目を見て、深月は理解した。

 これが龍二の独断専行であり、なにを言うつもりなのか見当もつかないのだという事を。

 どうする、と言いたげなうてなの視線に、深月は小さく頷く。

 龍二の意図は読めないが、今は見守ろうと。

「……まぁ、言うだけならタダ、か」

 実にうてならしい納得の仕方に、龍二は苦笑しつつありがとうと告げた。

「確かに言うだけならタダでもあり勝手だが、銃口を向ける相手を、君は間違っているのではないか?」

 取り引きをしたいと言うのなら、銃を向けるべきはこの私だろうと、博士は自身の胸を軽く叩いて見せる。

 その通りだと頷くうてなを横目に、龍二は首を振って否定した。

「あなたを殺すつもりなんてないし、そもそも僕にはできない。できるとは、思えない」

 どんな状況だとしても、人を殺す事だけはできない。

 それだけはやらないと、龍二は決めていた。

 ただ一つの、例外を残して。

「あなたにとって僕は、貴重なサンプルだ。こんな形で失うのは、大きな損失になる。なら僕は……僕のこの命は、取り引きの材料になるはずだ」

 自分の命だけは例外に、龍二は自身を交渉材料にする。

「なるほど。君から得られる研究データの破壊が交渉の材料というわけだな」

「そうだ。あなたはまだ、僕から得られるものがあると思ってる。そうじゃなければ、逃げ出した僕を生きたまま確保しようなんてしない」

「断言できるだけの根拠は?」

「逃げ出す前に話した時、そう感じた。あと数ヶ月は観察を続けても良かったと、あなたは言ってた。どんなデータかは知らないけど、あなたにとっては価値があるはずだ」

「問題がなければ、だとしたら? 余計な手間をかけるくらいなら、すぐに処分しても構わない。私はそういう判断を下せる立場にある。そう判断しないと、なぜ言える?」

「僕はまだ、生きてる。あなたがその気なら、とっくに死んでてもおかしくない」

「弱いな。気まぐれだという可能性もあるだろう?」

「確信が持てたのは、ついさっきだ。ここに来た僕を、あなたは受け入れた。知りたいことを教えるって。もう僕に価値がないなら、あなたはそんなことをしない。あなたの話を聞いた僕がどうするのかを、あなたは知りたがってる。だったら僕には、価値がある」

 博士という人間だけが見出す、なにか特別な価値が。

 そう確信したからこそ、龍二は自分が交渉材料になり得ると思ったのだ。

 今までに知る事ができた、博士という人物像から導き出した答えだった。

「いいだろう、認めよう。君には価値があると」

 伏せた顔に手を当て、博士は低く笑う。

 安藤龍二の行動は、ほぼ想定通りだった。

 ただ一つ、銃を向ける先だけが博士の想定から外れた。

 あの状況で銃を手にしたのなら、自分に銃を向けるはずだと考えていた。

 交渉を持ちかけてくることも、可能性として考えていた。

 だがまさか、自分自身の生命を交渉材料にするとは思っていなかった。

 そしてそれは、新たな好奇心を芽生えさせる。

「では話を進めよう。貴重な研究データを失わないために、私はなにを差し出せばいい?」

 博士が交渉に乗って来た事に、龍二は喉の渇きを覚えて唾を飲む。

 銃を握る手のひらが汗ばみ、不快感が染み込んでくる。

 不思議なほど落ち着いていた感情が、少しずつ熱を取り戻していくようだった。

 会話を黙って見守っていてくれる二人に、思わず目を向けてしまいたくなるが、堪えた。

「彼女たち二人の、自由だ」

 そのまま二人を視界には収めず、龍二はそう言った。

 深月とうてなが息を呑んだのが、気配でわかる。

 うてながすぐに声を上げなかったのは、本人ですら驚く奇跡だ。

「君がいう自由とは?」

「それは、二人が決めることだ。僕が口を出す問題じゃない」

「つまり、組織から解放しろと言いたいわけか」

「そう思ってくれて構わない。二人がどうするにせよ、見逃して欲しい。それが僕の要求だ」

 迷いなく言いきった龍二は、ようやく二人に視線を向ける。

 その二人は、示し合わせたように同じ顔をしていた。

 目と口を開き、絶句している。

 うてなに至っては、罵倒の言葉すら出て来ないようだった。

「君の要求は理解した。だが、どうしてそんなことを望む? 君に残された時間は、およそ六ヶ月。彼女たちとすごした時間より、僅かに長い。惜しくはないのか?」

「僕一人の六ヶ月と、彼女たち二人のこれから。どっちが大切かなんて、考えるまでもない」

 あまりにも清々しい顔で告げる龍二に、博士の唇が弧を描く。

 妖しい熱を宿した双眸を、龍二の奥底へと潜り込ませる。

「僕はずっと、彼女たちに守られてきた。助けられてきた。僕のために、傷ついてきた」

 その度に、歯がゆい思いをしてきた。

 一緒に戦えたらと何度も思った。

 彼女たちを守れなくとも、助ける事ができればと。

 けれど、どうしてもそれは叶わない。

 どこまでも普通で、平凡な自分では逆の立場にはなれない。

「たとえそれが任務だったとしても、僕は感謝してる」

「そのお礼、というわけか」

「あぁ。僕が二人に返せるものなんて、それくらいしかない」

 それが、安藤龍二の決意だった。

 逢沢くのりと逃げる事を選んだ時から、最後はそうすると決めていた。

 その結果として自分がどうなるかを思えば、足が震えて竦んでしまう。

 くのりを失った事で、なにもかもを投げ出したくもなった。

 だがそれでもまだ、残せるものはあると思えた。

 あの日から数ヶ月。

 彼女たちと出会い、共にすごした時間があったからこそ、龍二はその答えに辿り着いた。

「そのために、命を賭けると?」

 真意を探るような博士の言葉に、龍二は力強く頷く。

 僅かも迷いを見せず、引き金に指を掛けて見せた。

「君から得られるデータと二人の自由、か。つり合いが取れていると、本気で思うのか?」

「……どうかな。自分の価値なんて、正直言ってわからない。でも、悪い取り引きじゃないはずだ。少なくとも、あなたや組織にとっては」

 博士の視線から目を逸らさず、龍二は答える。

 この場で一瞬でも怯んでしまったら、全てが無意味になる気がしていた。

 見せるべきは、確かな意志。

「いい目をしているが、まだ考えが浅い」

 そう言って博士は白衣のポケットから端末を取り出す。

「合図一つで、君はすぐに拘束される。突入から拘束するまで、十秒とかかるまい。その場合、取り引きは成立しないということになるが」

 君はどうする、と博士は僅かに首を傾げる。

「その時は、僕が本気だって証明してみせるさ」

 そう答える龍二の声は、不自然なほどに落ち着いていた。

 冷や汗一つ掻かずに、博士を見据えたまま、指に力を込める。

「はっきり言おう。君にできるとは思わない」

 博士は即座に龍二の覚悟を否定した。

「他人のために自ら命を絶てるのは、フィクションの中だけだ。ましてや君は、君という人格は私が捏造した作り物。あえて平凡な人格を与えられた君に、自己犠牲を行えるような意思はない。なにに憧れているのかは知らないが、滑稽と言わざるを得ないな」

 最後の言葉に乗せた嘲りには、とびきりの悪意が込められていた。

 博士は双眸を細め、龍二を見る。

 瞬間的に、空気が冷えた。

「――できるさ」

 囁くように言って、龍二は人差し指に力を込める。

 うてなは声を上げ、手を伸ばす。

 だが、間に合いもしなければ、届きもしなかった。




 ――龍二の指が、引き金を引き絞る。




 そして、乾いた音が、冷えた空気を振るわせた。

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