最終章 第2話 夢の続きを見る君へ その4

 それが夢だと、すぐに気づいた。

 気づかずにいられたら、どれほど幸せだろうと、眠っているはずの心が感じる。

 夕暮れの教室。

 それはいつかの記憶だ。

 なんでもないある日の放課後、用事を終えて教室に戻った時の記憶。

 まだなにも知らなかった、穏やかな日々のある一瞬でしかない。

 けれど龍二は、その日の光景を覚えている。

 決して忘れられない、密やかでありながらも、かけがえのない大切な想い出だった。

 高校二年生の、修学旅行を終えて少し経ったある日の光景。

 教室に残っているのは、彼女だけだった。

 他には誰もいない。

 逢沢くのりはひとり、窓辺の席に座って眠っていた。

 椅子に背中を預けて、ほんの僅かに顔を伏せたまま、目を閉じている。

 どうせならもっと楽な姿勢で眠ればいいのにと、場違いな事を思った。

 彼女がわざわざ教室に残っていたのは、約束があったからだ。

 その日の放課後、いつものショッピングモールへ行こうと。

 目的は、そう。

 寒くなる前に、マフラーが欲しいとくのりが言い出した。

 彼女はそれまで、マフラーというものを使った事がなかったらしい。

 選ぶ基準や巻き方もわからないので、アドバイスをよこせと半ば強引に約束を取り付けられたのだ。

 生憎とその日は用事があるから少し遅くなると、一度は断った。

 が、くのりは引き下がらなかった。

 待っててやるから付き合えと、なぜか偉そうに言ってきた。

 そう珍しい事でもなかったので、龍二は待っていてくれるならと承諾した。

 そして、その光景を目にしたのだ。

 放課後の喧騒を遠くに聞きながら、寝息すら立てずに座っているくのり。

 彼女の眠る姿を見るのは、それが初めてだった。

 だから珍しいと思い、起こしてしまうのは勿体なくも感じた。

 とは言え、そのままいつ起きるかわからない彼女を待つわけにもいかない。

 ただ、もう少しだけ見ていたいと思い、静かに近づいた。

 足音を忍ばせ、息すら止めて。

 その時に見た、彼女の寝顔が、忘れられない。

 穏やかさなど、欠片もない。

 気が抜けたようにも見えない。

 初めて見る逢沢くのりの寝顔は、とても厳しく、眉を顰めているように見えた。

 まるで眠る事が、苦痛であるかのように。

 悪夢でも、見ているかのように。

 そんな彼女の寝顔に、目を奪われた。

 ハッとして、目を逸らす事ができず、息を呑んだ。

 そしてその時、思ったのだ。

 彼女には、そんな表情でいて欲しくないと。

 もっと穏やかで、安らかな顔で眠っていて欲しいと。

 理由はわからないが、そうなってくれたらいいと、胸が苦しくなった。

 無意識に手が、彼女の頬に伸びた。

 が、次の瞬間、彼女の目が弾かれるように開いた。

 そして、寝顔を見るのは悪趣味だと、思いきり鼻を摘まれた。

 ――後にも先にも、くのりの寝顔を見たのは、あの一度きりだった。


「…………」

 薄闇の中で、龍二は静かに目を開いた。

 目覚めたばかりとは思えないほど、意識ははっきりとしている。

 身体を横たえたまま、目元に手を当てる。

 涙の形跡に驚く事はなく、無言でそれを拭った。

 ゆっくりと身体を起こし、ベッドに腰かけたまま足を下ろす。

 瞼を閉じれば、直前まで見ていた夢の光景が浮かんでくる。

 龍二はそこに、違う光景を重ねてしまう。

 思い出すのは、逢沢くのりの最期の表情だ。

 まるで眠るように目を閉じた、冷たい顔。

 なのにその表情は、信じられないくらいに穏やかだった。

 かつて見た、厳しい寝顔とは違う。

 喜びを詰め込んだような、幸せに満ちた微笑。

 それは龍二が望んだ――いや、それ以上に穏やかな寝顔だった。

 彼女が最期の瞬間、なにを想っていたのかはわからない。

 たったひとりで、冷たい雨と雪に晒されて。

 その最期が、どんなものであったとしても、浮かべた表情に相応しい、幸せな夢を見てくれていたらと、龍二は思う。

 独りよがりで、自分勝手な願望だとわかっている。

 それでも最期に、そうあってくれたらと、願ってしまう。

「……くのり」

 目を開き、ポケットから取り出した髪留めを握り締め、囁くようにその名を呟く。

 ずっと曇っていた意識が、冴えていく。

 長い悪夢から目覚めたような気分で、龍二はもう一度目を閉じた。

 いくつもの記憶、想い出が駆け巡る。

 感情が励起され、身体の芯が熱を持ち始める。

 少しずつ、ゆっくりと自分を取り戻していくような感覚だった。

 その全てに、彼女がいる。

 どんな時だって、記憶の片隅や風景のどこかに、彼女の気配があった。

 姿は見えなくとも、意識のどこかで、彼女を想っていた。

 次々と溢れ出る記憶と感情に、涙腺が緩む。

 流れる涙を止めようとは、思わなかった。

 拭う事もせず、ただ静かに想う。

 彼女の顔を、声を、言葉を、温もりを。

 龍二の中に宿る彼女の残滓が、微笑みかける。

 そんな顔をしていてはダメだと。

 いっそ自暴自棄になってしまえば、この苦しみからは解放されるだろう。

 心が死んでしまえば、なにも感じずにいられる。

 けれど、それだけはできない。

 それはくのりの想いを裏切る事に他ならない。

 彼女の――大切な少女の笑顔が、絶望を許してくれない。

「……そう、だよね」

 だから龍二は、目を開いて顔を上げる。

 もう一度だけ大切な名を口にして、まだ乾いていない涙をそのままに、背後を見る。

 うてなはまだ、眠っていた。

 背中を向け合っていたはずだが、今のうてなは仰向けになっている。

 寝相はそう、悪くはない。

 無防備すぎるくらいに、穏やかな寝顔だった。

 その姿を静かに眺めながら、龍二は微かに頬を緩める。

 やっと、決心がついた。

 最終的にどうするのか、本当は決めていた。

 あの施設に捕まっている間、脱出する事を決断した時に。

 それをうてなに伝えられず、あんな情けない姿を見せてしまったのは、龍二の弱さに他ならない。

 くのりを失った痛みと、うてなの優しさに甘えてしまった。

 でもようやく、心の整理がついた。

 生半可な気持ちでは、うてなも納得はしてくれないだろう。

 だからこそ、確かな自分を持たなければいけなかった。

 それが完全かどうかは、龍二自身にもわからない。

 だが、彼女たちが教えてくれたのだ。

 それに応えるのは、自分しかいない。

 逢沢くのりを好きだと、愛していると言うのなら。

 自分も彼女のように生きてみせよう。

 自分が自分であると、胸を張って言えるように。

 くのりの言葉を、思い出す。

 ――誰のために生き、誰のために死ぬのか。

 迷いは、もうなかった。

 大切な感情をポケットにしまい、龍二は目を細める。

 微かな呻き声が、無音の部屋に漏れる。

 目覚めの兆候を見せるうてなを、龍二は優しい目で見守った。

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