最終章 第2話 夢の続きを見る君へ その3
薄暗い部屋にあるたった一つのベッドで、龍二とうてなは背中を向け合って横になっていた。
最低限まで落とされた照明が、二人の息遣いを見守る。
無駄に大きすぎるベッドは、二人で横たわってもまだまだ余裕がある。寝心地の良さも、セーフハウスのものに比べればはるかに良かった。
二人が同じベッドに横たわっている理由は、単純だ。
気を遣ってソファで眠ると言った龍二に、うてなが一緒で構わないと首を振り、半ば強制的に同じベッドを使わせた。
こうしている今も、いつ襲撃を受けるかわからないのだ。
それを考えれば、近くにいるほうが咄嗟に龍二を守れる。
ただそれだけの理由だ。
そう言われてしまえば、龍二は従うしかなかった。
本当にそうなった場合、自分にはなにもできないと理解していたからだ。
「……うてなは嫌じゃないの?」
最後の抵抗をするようにそう訊いた龍二に、うてなは目を細めて答えた。
「あんたが理性を保てるなら、問題なんてないでしょ」
冗談のようにも、本気のようにも聞こえる言葉に、龍二は頭を掻きながら頷いた。
うてななりに気を遣ってくれているのだろうと、そう自分を納得させたのだ。
寝返りを打ってもぶつからない程度の間隔はあるが、手を伸ばせば届く距離で、二人はそれぞれに薄い闇を見つめていた。
こうして背中を合わせてから、すでに一時間が経過している。
あと数時間で夜が明けるのだから、少しでも眠って体力を回復させておくべきだ。
特に、うてなは魔力を消費している。
傷はもうだいぶ癒えているが、また移動する事を考えれば、夜更かしをしている余裕はない。
寝つきはいい方だと思っていたうてなは、自身の変化に戸惑いを覚えていた。
いざ眠ろうと目を瞑ると、背後にいる龍二の息遣いや気配を強く感じてしまう。
もう何度も同じ部屋で寝泊まりを繰り返しているが、こうもはっきりと意識してしまうのは初めての事だった。
戦いの余韻がまだ体内に残っているから、などという理由ではない。
落ち着かない気持ちを持て余し、微かな気配の動きに心が反応する。
怯えにも似た感覚に、うてなは唇を噛む。
これではまるで――と浮かんだ不都合な言葉を掻き消し、静かに息を吐く。
背中を向けたままでも、龍二が眠っていない事はわかっている。
彼がどんな気持ちなのかまではわからないが、眠れないという点は同じなのだろう。
世界中にたった二人、取り残されたような気さえしてくる。
そんな自分の思考を、うてなは内心笑い飛ばす。
似合わない思考は鼻息と共に押し出し、囁くように口を開いた。
「……あんた、さ」
「うん」
「……死ぬの?」
唐突に声を掛けられたにも関わらず、龍二はすぐに反応を見せた。
が、続く問いかけには、間が空く。
「…………たぶん」
しかし、ほんの僅かに躊躇った後、龍二は静かに頷いた。
今度はうてなの方が黙り込む。
ここまで来る間、考える時間はいくらでもあった。
だからそういう答えが返ってくる事も、十分予想できていたし、覚悟と呼べるものもしてきた。
その、つもりだった。
だがいざ肯定されると、言葉に詰まる。
安藤龍二はたった今、自身の死を肯定した。
断定するほど強くはなかったが、その言葉は確信しているように聞こえた。
少し前から、うてなはずっとそれを訊けずにいた。
逢沢くのりと彼の会話の中に、それを予感させる言葉があった。
最初は逢沢くのりの体調に関わる話かとも思ったが、違うと気づいた。
安藤龍二もまた、自身に残された時間が限られていると、理解しているのだと。
「……いつ? っていうか、なんで?」
訊くべきかどうかを、ずっと迷っていた。
けれど、いつまでも目を逸らしているわけにはいかない。
彼と共に行動するのなら、自分は知っておかなくてはならない。
うてなは無意識に、強く拳を握っていた。
「あの廃工場で、くのりが教えてくれたんだ。僕はモルモットで、卒業したら組織に回収される予定だって」
その時は当然、すぐには信じられなかったと、龍二は弱々しい笑みを浮かべて息を吐く。
あの場でくのりとどんな話をしたのかを、龍二は今まで誰にも話してこなかった。
うてなにも、深月にも話してはいない。
話せるような内容ではないと、そう思っていたからだ。
真偽が定かではなかったし、龍二自身、確かめるのは怖いと思っていた。
けれど、それももう必要ない。
龍二はうてなに、あの場で聞かされた事を全て話す。
その内容は、博士が龍二に語った内容とそう変わらない。
気配を消していたうてなは、あの時の会話も聞いている。
ただし、龍二とくのりの寿命については、初めて知った。
「ずっと、知ってたんだ。自分がどれくらい生きられるかって」
「半信半疑ではあったけどね。でも、あの人と直接話して、わかったよ。彼女が……くのりが言ってたことは、本当だったって」
その名前を口にした瞬間、僅かな痛みが顔を覗かせた。
龍二はそれを噛み締めるように目を閉じ、開く。
「結局、自分がなんなのかはわからないままだ」
ただ、モルモットの意味だけは理解できたと、龍二は力なく笑う。
過去だと思っていた記憶は全て作り物であり、偽物。
両親の顔を思い出せないのは、当たり前の事だった。
そんなものは、初めから存在していないのだから。
淡々と語る龍二の声を聞きながら、うてなは夏の夜を思い出していた。
魔術師との戦いを終え、ベンチに座って二人で話した事を。
自分が何者であるのかを打ち明け、龍二は何者なのかと尋ねた。
それに対して彼がどう答えたのかを、鮮明に覚えている。
思えば、あれもきっかけの一つだったのだろう。
神無城うてなという異邦人が、一人の少女になる小さな一歩。
「僕の知らない、僕がいる」
三年以上前の記憶を遡れない龍二にとって、四年前の映像に記録されていた少年の姿は、これ以上ない恐怖の具現だ。
信じるべきものが、どんどん崩れていくような感覚。
確かだと思っていた自分さえ、疑わしく思えてくる。
「正直、わからないよ……僕は、どうすればいいのか」
それはもはや、弱音とすら言えない。
龍二自身、感情の整理がまだできていなかった。
くのりに対する感情も、これからどうするかも、自分が今、なにをしたいのかさえ。
「このまま逃げ続けたいなら、付き合うよ」
さらりと告げられた言葉の意味を、龍二は一瞬理解ができなかった。
が、すぐに理解し、同時に強い疑問に支配される。
「……どうして、そこまでしてくれるの?」
「助けて欲しいって言ったのは、あんたでしょ」
「そうだけど……でも、うてなにメリットなんてないのに」
「今更それ、言う?」
メリットの有無などと言い出すのなら、最初から助けを求めるなとうてなは憮然とする。
確かにその通りだが、龍二としてはやはり、腑に落ちない部分があった。
最終的にどうするかは自分が決めるのだからと、うてなはあの時言っていた。
組織のやり方も気に入らないから、とも。
だが結局、それ以上の理由は言わなかった。
理由がそれだけだと納得するには、あまりにも代償が大きすぎる。
彼女は今までの生活も、身分を証明するものすら投げ捨てたも同然なのだ。
気に入らないという理由だけで行動するのは、うてなとは言え、破天荒すぎる。
「……まぁ、強いて言うなら」
納得しそうもない龍二に対し、うてなはそれらしい答えを頭の中に浮かべる。
どうして龍二に協力するのか。
自分自身の気持ちを、わかりやすい言葉に変換する。
「途中で放り出すのは、趣味じゃないから……かな」
「趣味じゃないって……そんな理由で?」
「悪い?」
「良いとか悪いとかじゃないと思うけど……そっか」
納得できるような答えではないが、龍二は頷く。
この数ヶ月、神無城うてなという少女を間近で見て来た。
彼女に抱いた感情は、強い憧れに似ている。
異邦人でありながら、自分というものを失わずに生きている少女。
わざわざ確かめた事はないが、龍二は彼女を友人だと思っていた。
趣味じゃないからと口にした理由は、なるほど、確かに神無城うてなという少女の思考としてはしっくりくる。
そんな彼女だと知っているからこそ、憧れたのだ。
少しでもいいから、自分もそんな風に生きられたら、と。
「だからまぁ、あんたが納得するか、私があんたに呆れるまでは付き合う。それでいい?」
「……うん、ありがとう」
壁に反射して届く柔らかな言葉に、うてなは胸を擽られる。
落ち着かない気持ちが、一層強くなるのを感じて、頬を引き締めた。
そんなうてなの様子には微塵も気づかず、龍二は目を伏せる。
彼女に対する強い憧れを実感し、改めて思い知ったのだ。
結局自分は、守られるばかりの存在なのだと。
彼女たちと出会った瞬間から、それは一度として変わっていない。
今更すぎる事実だが、以前にも増して、不甲斐ないと感じる。
いつまでも守られる立場ではいられない、いたくないと。
なによりも守りたいものは、すでに失ってしまった。
それでも――だからこそ今、強く思ってしまう。
「どうして僕には、力がないんだろう……」
その呟きは、数日前を思い起こさせる。
身体を起こしかけたうてなは、思い直して枕に頭を下ろす。
「なに? やっぱり組織を潰したい?」
「……わからない。ただ、強くなりたいって、そう思う」
暗闇の中で見つめる手のひらには、数日前に感じた冷たい感触が残っている。
生命の気配がなくなった、彼女の冷たさが。
「うてなみたいに戦えたら……力があればって、やっぱり思うんだ。でも、この前とは少し違ってて……」
なにかを破壊してやりたいという衝動は、もうどこにもない。
それでもやはり、力を求める感情が残っていた。
掴めそうで掴めない、不確かな感情だ。
「僕に特別ななにかがあれば、ヒーローみたいになれたのかな」
思い浮かぶのは、背後にいる少女の姿だ。
彼女のように戦えたらと、どうしても思ってしまう。
「力がなきゃ、なれないわけ?」
「今の僕じゃ、なれないよ」
四年前の映像に映っていた少年がヒーローだとは思わない。
あれは、真逆の存在だ。
けれど、あんな風に自分が戦えたのなら、思い描くヒーローになれるのではないかと、龍二は考えてしまうのだ。
自嘲するような呟きに、うてなの感情が揺れる。
「あんたがヒーローになれるかどうかなんて知らないし、興味もない。その基準も、私にはわからないし」
突き放すように言って、ただ、とうてなは続ける。
「あいつに……逢沢くのりにしてみれば、あんたは間違いなく、ヒーローだったと思うけどね」
龍二自身が思い描くようなヒーロー像ではないだろう。
それでも逢沢くのりにとって安藤龍二は、特別な存在だった。
彼女自身も、冗談めかして言っていた。
安藤龍二は自分にとって、王子様だと。
今にして思えばあれは、彼女の本心でもあったのだろう。
逢沢くのりという少女の、たった一つの光。
それは間違いなく、彼女を救ったヒーローのそれだったに違いない。
「……そうだったら、いいな」
龍二は目元に手を当て、掠れた呟きを漏らす。
もはや確かめるすべなどないが、そうであれば嬉しい。
自分という存在が、彼女にとって救いであったのなら。
後悔が言葉一つ分、軽くなる。
「……うてなは、なにかないの?」
「なにかって、なに?」
「僕のことばっかりだけど、うてなにも望みとか、やりたいこととかあるんじゃないかなって」
今まで考える余裕がなかったが、会話をしているうちに新しい感情が芽生え始めていた。
いや、ずっとありはしたが、見えなくなっていた感情の群れだ。
その一つを、龍二は口にした。
「いろんなものを食べたいとか、新作のゲームが気になるとか」
「そういうのじゃなくてさ……こう、あるでしょ? っていうか、誤魔化してるよね?」
図星を突かれたうてなは、僅かに押し黙る。
龍二がなにを訊きたいのかはわかっているが、咄嗟に誤魔化そうとしてしまった。
彼女自身、どうしてそうしてしまったのかがわからなかった。
「……無理にとは、言わないけどさ。なんとなく、どうなのかなって考えちゃって」
踏み込むのは自分だと思っていたうてなは、龍二の不意打ちに戸惑う。
バカみたいに真っ直ぐお礼を言われるのも苦手だが、この踏み込みは慄きすら覚える。
弱さを探られるようで、不安になってしまう。
「…………いつかは」
無視してしまえば、きっとそれ以上は踏み込んでこない。
そうわかっていたが、うてなはポツリと呟く。
「いつか、帰れたらとは、やっぱり思うかな……」
どこへ、などと訊く必要はない。
神無城うてなが帰りたいと願う場所は、一つしかないのだから。
「……方法は、あるの?」
「間違いないとは言えないけど、まぁ……私一人くらいなら、もしかしたらできるかも、程度の可能性はある……っていう感じ」
誰とも共有する事のできない、神無城うてなにのみ許された魔法。
この世界では、新しい魔法を習得する事も、術式を生み出す事もできない。
だが、すでに刻まれている術式ならば、やり方次第では発動させる事ができるかもしれない。
神無城うてなに宿る術式と、二つの世界を繋ぐために使用された術式の残滓を利用すれば。
それは、博士にすら話していない、神無城うてなの秘密だ。
誰にも話す事はないと決めていたそれを、うてなは口にしてしまった。
不思議と、後悔はない。
「ま、本当にただの可能性ってだけ。試すにしても、あと何年かかるか」
「時間がかかるものなの?」
「魔力は自前で用意するしかないから」
事実、仮に術式を発動させる事ができるとしても、それに必要な魔力量がどれほどなのかは、見当もつかない。
うてなが定期的に髪を切り、魔力を貯蔵しているのはそのためだ。
髪を編み込んだ特製のグローブも、そのために準備している物の一つ。
ただひたすらに時間を掛けるしかない、儚い希望。
下手をすれば、数十年を無駄にして終わるかもしれない。
「自分でもね、あんまり期待はしてないんだ」
だが、どうしても望んでしまう。
――いつかは、と。
「……上手くいくといいね」
うてなの想いがどれほどのものかはわからない。
それでも望みが叶えばと、龍二は心の底から思う。
「その時は、あんたも一緒に来る?」
「……できるの、そんなこと」
「さぁ? でもほら、魔力の質が同じだから。もしかしたらできるんじゃないかなって、今考えた」
「……うん。それも、ありなのかな」
うてながどこまで本気で言っているのかわからないが、龍二は頬を緩めて頷いた。
いっそ、彼女と一緒に別の世界へ逃げてしまえば。
それはきっと、なによりも安全な逃亡先だろう。
「そうしたら、今度はあんたが異邦人になるな」
「……僕の場合は、案内役がいるからまだマシかな」
冗談めかすうてなの言葉に、龍二は苦笑する。
お互いに、それが叶わないと理解していた。
術式を発動させられるのかもわからず、仮にできたとしても、何年も先の話になる。
それまでこんな逃亡生活を続けられるわけがない。
そしてなにより、安藤龍二に残された時間は数ヶ月。
欠片ほどの希望すら、そこにはない。
それをわかっていながら、二人は静かに笑う。
叶わぬ願いを想像して、暗闇から目を逸らすように。
会話は、それっきりだ。
朝の気配は、まだ遠く。
途切れた会話が闇に溶けていくように、二人はやがて、眠りに落ちた。
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