最終章 第1話 暗闇月 その5

「それじゃあ、私は荷物を片付けてくるから」

「あぁ、助かるよ」

 数日ぶりに帰宅した安藤聡は、柔らかな笑みを浮かべて寝室へ向かう静恵の背中を見送った。

 この数週間あまりで起こった出来事を思えば、その背中に疲れが見えるのも当然だった。

「心配をかけてしまったな」

 小さく呟いた聡は、そのままリビングへ向かう。

「お帰りなさい、お父さん」

「ただいま。お前にも心配をかけたな」

「私は、納得してたから」

 静恵とは違い、事情を全て知っている奏はそう答えるが、表情にはいくらかの陰りと疲れが見える。

 納得していると口にはしても、やはりどこかで無理をしているのだ。

「すまなかったな」

「そういうのは、お母さんに言って」

「……そうだな」

 寝室がある方へと視線を向け、まだ戻る気配がない事を聡は確かめる。

 数日前に聡が取った行動を、静恵は把握していない。

 突然夫が怪我をしたと連絡を受けた彼女は、どれほどの不安を抱いただろうか。

 それを思うと、聡も奏も心が痛んだ。

 それでもやはり、彼女に話すわけにはいかないという共通の認識は変わらなかった。

 知れば余計、心労が増してしまうのは明白だ。

 奏が誘拐されてからまだひと月も経過していない彼女には、酷すぎる。

「……なにがあったの?」

「少し、無茶をした。アドリブというやつだな」

 柄にもない事だが、そうしてしまったと聡は頭を掻く。

 数日前、安藤龍二たちの脱走計画に聡は協力した。

 その際、独自の判断で発煙筒を焚くという行動に出た。

 結果として本部施設から脱出するのが遅れ、加えて不審な行動を取っていたとして、武装した警備員に拘束されてしまったのだ。

 怪我はかすり傷と軽度の打撲程度だったが、当然そのまま取り調べを受けた。

 ようやく解放され、帰宅を許されたのが数日後の今日だった。

「陽動のつもりだったのだが、正直意味があったのかどうか……」

「危険なことはしないって言ってたのに」

「本当にすまない。ただ、なにかしなくてはと思ってしまったんだ」

 たとえそれが無駄な事だったとしても、彼らの手助けをしたかった。

 そうする事でしか力になれない歯がゆさを、誤魔化したかったのかもしれない。

 どこかでこれが最初で最後の機会だと、そう思っていたのも事実だ。

「……それで、龍君たちは」

「どうやら、無事に逃げ出すことはできたみたいだ。あの雰囲気からすると、まだ捕まってはいないだろう」

 組織内が少なからず慌しい雰囲気にはなっていたが、逃亡者を捕らえたという感じではなかったように思う。

「作戦は成功、と言って差し支えないと思うよ」

 だから安心しなさい、と聡は微笑みかける。

「あとは、彼ら次第だ」

「そう、だね」

 これ以上、自分たちにできる事はないと、奏も十分理解していた。

 もう一度龍二に会い、ちゃんと謝りたいという願いも、おそらくは叶わない。

 龍二とうてなは、逃亡者となったのだから。

 組織というものがどれほどの力や権力を持っているかを、奏は知らない。

 それでも、ただの研究機関などではない事くらいはわかる。

 自身に起こった事や、あの夜の出来事を思えば。

 そんな組織から追われる身となった二人は、想像もできないくらいに大変な生き方を強いられるだろう。

 会いたいという気持ちはあるが、それ以上に無事でいて欲しいという想いもある。

 無事に生きていてくれるのなら、それでいい。

 自己満足のような自分の想いよりも、はるかにそちらの方が重要だ。

 この想いは、自分が背負い続けるべきものだと、奏は手首のシュシュに触れる。

 それでもいつかはと、奇跡のような可能性を願う気持ちも、まだあった。

 もしそんな機会が訪れたら、その時はちゃんと言うのだ。

「きっと、大丈夫だよ」

「……うん」

 二人の身を案じながら、奏は頷く。

「……それはそうと、お父さんはこれからどうなるの?」

「あぁ、それなんだが……」

 気持ちに区切りをつけた奏は、もう一つの気がかりを確かめる。

 それは聡の仕事だ。

 組織に関わる研究をしている聡は、今回の件で立場が悪くなったはずだ。

 当然、聡はそれを承知で協力を申し出た。

 とは言え、予定以上の行動を取ってしまった聡は、言い逃れができない状態だ。

 何十年と研究に費やして来た事を思えば、心配にもなる。

「どうやら、お咎めはないらしい」

「協力したこと、バレてないの?」

「いや、さすがにそれはないだろう。急な警報で錯乱してしまったと説明はしたが、それを信じるほど緩い組織ではないからね。ただ……」

 一度言葉を区切った聡は、軽く顎を擦る。

 思案するように視線を斜め上へと向け、肩を竦めた。

「組織の中心人物……博士と呼ばれる人がいてね。どうやら彼女が取り計らってくれたらしい」

 そう説明する聡自身、なんとも言えない様子で唸る。組織の真意を測りかねているのだ。

 博士という人物については、奏もうてなから聞かされていた。

 あの組織の中で、誰一人として逆らう事のできない絶対者。

 そしておそらくは、全てを知っている存在。

 博士について語るうてなの苦々しい顔は、印象的だった。

「おそらくは、研究を優先したのだろう。博士という人は、そういうところがあるからね」

 処分するよりも、研究者として協力して貰った方が有用だと思われたのだろうと、聡は苦笑する。

 能力を認められているという嬉しさもあるが、自分も一つの駒として利用されているだけだと自覚させられるのだ。

 博士という人間は、目的のためならあからさまな毒であろうとも取り込む。

 そうしてもなお、自身の思い通りにできると考えているのだ。

 そして厄介な事に、そうできるだけの能力と権力を備えてしまっている。

「お父さんは、平気なの? その、研究を続けることとか」

「思うところがないわけじゃないが、そうだな。やはり私も、ひとりの研究者ということかもしれない。許されるのならなら、続けたいと思ってしまうんだ」

 自嘲するように髪を掻き上げ、聡は椅子に座る。

「……もちろん、お前や静恵がやめて欲しいと思うのなら、そうするよ」

 奏が組織に対して、決して良い感情を抱いてはいないであろう事は、わかっている。

 だから聡は、奏の意見に耳を傾けるために微笑む。

「……お父さんがそうしたいのなら、私はいいと思う」

「……意外だな。幻滅されても仕方ないと思っていたのだが」

「複雑ではあるけど、ずっと見てきたから」

 研究に情熱を傾ける父親の姿も、それを支える母親の姿も。

 そしてそんな父が、全てを捨てる覚悟で龍二のために行動を起こしてくれた姿も。

 だから奏は、聡の決断を支持する。

「ありがとう。あとは、お母さんと相談かな」

「うん」

 奏は微笑みながら頷き、思い出したようにコーヒーを淹れる。

 もうじき夕飯の時間だが、その前にひと息いれたいところだった。

 両親の分もあわせて用意する奏の背中に向けて、聡は付け加える。

「それと、な。研究を続けるのなら、今後は本部に異動する予定なんだ」

「じゃあ、栄転っていう感じ?」

「そう言うと聞こえはいいが、監視の意味も含まれていると思う」

「……そっか」

 お咎めはなしと言っても、全てを許されたわけではない。

 多少なりとも、行動に制限はつく。

 博士もそれは織り込み済みなのだろう。

 それを差し引いても、研究者としては喜ばしい異動ではあった。

 だが聡は、その異動に別の意味を見出していた。

「だがな、本部であれば今までよりも情報を得られる機会が多くなるんだ。もしかしたら、彼らのこともなにか、わかるかもしれない」

 思わぬ父親の言葉に、奏の手が止まる。

 それがどういう意味を持つのか、わからないわけがない。

「……お父さん」

「危ないことをするつもりはないよ。ただ、そういう可能性もあるにはある、程度だ」

 だからあまり心配するなと、聡は笑いかけた。

 奏は背中を向けたまま頷き、三つのカップをトレーに乗せた。

「あら、いい匂いね」

 テーブルに置かれたカップを聡が手にしたところで、寝室から静恵が戻ってきた。

「夕飯の準備をするまえに、ひと息いれよう?」

「えぇ、いいわね」

 家族三人でテーブルにつき、微笑み合う。

 欠けてしまった空間の寂しさは、まだ残っている。

 それでも三人は、温かいコーヒーに口をつけた。

 埋める事のできない喪失感を、それぞれに抱えたまま。

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