最終章 第1話 暗闇月 その6

「無事で良かった」

 暗くなり始めた道を歩きながら、うてなはため息を漏らすように呟いた。

 マフラーで口元を隠し、伊達眼鏡の位置を直す。

 数ヶ月を過ごした、すっかり馴染みのある風景を眺めつつ歩く。

 近所の住人と何度かすれ違うが、誰一人としてうてなに気づく事はない。

 今のうてなは、世界から隔絶された存在だ。

 本部から脱走して、すでに数日が経過している。

 逢沢くのりを失った事実から、龍二が立ち直ったとはまだ言えない。

 食事はするようになったが、以前として口数は少ないままだ。

 傍を離れるのはまだ心配だったが、どうしても確かめておきた事があった。

 それが、安藤聡の安否だ。

 気配を隠したまま様子を窺ってきたうてなは、重く圧し掛かる感覚からようやく解放された。

 家族三人で寄り添うようにすごしている様子に、少なからず痛みを覚えはしたが、これで良かったのだろうと思う。

 本心を言えば、奏と龍二をどうにか会わせてやりたい。

 ちゃんと謝りたいと言っていた奏の願いを、叶えさせてやりたいと思う。

 が、あまりにもリスクがありすぎる。

 一見して日常を取り戻したように思えるが、まず間違いなく安藤家は監視されている。

 自分たちが龍二の保護をしていた時ほどではないだろうが、なにかしら手は打っているはずだ。

 龍二との関係性を考えれば、誰でもそうする。

 自分ですら考え付くのだから、組織がなにもしていないわけがないと、うてなは確信していた。

 だからこそ、メールでの連絡すらしていない。

 気配を消して様子を窺うのが精一杯だ。

「どっちにしても、今のあいつは見せられないか……」

 多少は落ち着きを取り戻しているが、龍二の表情は相変わらずだ。

 夜もあまり眠れていないのは、一目瞭然。

 深夜に何度も目を覚ましている事にも、気付いている。

 あの夏を再現しているようだ。

 ぶり返す痛みに、何度も傷口が開き、哀しみに襲われる。

 うてなは毎晩、気付かないフリをする事しかできなかった。

 歯がゆさを噛み締め、グッと目を閉じる。

 声をかけるべきか、それとも震える手を握ってやるべきか。

 いくら考えても、正しい答えは見つからない。

 自身の不器用さに、もはやため息も出なくなっていた。

「どうするつもりかな、あいつ」

 力が欲しいと肩を掴んできた龍二の顔を思い出し、うてなは目を伏せた。

 あれ以来、龍二はその事に触れようとしなかった。

 一時的な気の迷いだったのなら、それでいい。

 そう考えてしまう気持ちも、わからなくはない。

 大切なものを失い、絶望の中で浮かんだ一つの可能性。

 そこに意味があるとは、龍二も思っていないだろう。

 それでも求めてしまうのは、それ以外の道が見えなくなっているからだろうと、うてなは思う。

 冷静であれば絶対に選ばない道だけが、絶望と悲しみに染まった闇の中に浮かぶ。

「でも、だからってさ……あんたはそうなっちゃダメなんだよ」

 踏み込む事すら躊躇うほどの危うさを、今の龍二はまだ抱えている。

 彼が見たという少年の映像。

 それがなにを意味するのか、そして本当に彼が望むような力を得られる手段があるのか。

「闇落ちなんて、バカげてる」

 龍二が迷い込みそうになる道を、うてなは鼻で笑い飛ばす。

 星が瞬き始めた空を見上げる。

 以前なら、夕飯になにを食べようかと考えているシチュエーションだ。

 だが今は、暗い話題についてばかり考えている。

 視線を前に戻し、立ち止まってしまいそうになる足を動かす。

 最寄り駅へと入り、改札を通過して電車を待つ。

 気配を完全に消している状態なら改札すら素通りできるが、きちんと電子マネーで料金は支払う。

 できるからと言ってそれを良しとしてしまえば、ズルズルと当たり前になってしまう。

 自分で自分を嫌いになるような生き方はしたくないというのが、うてなにとって絶対のルールだ。

 リスクはあるが、それも最小限で済む。

 そのリスクと自分のルールを天秤にかけての行動と選択だった。

 流れる景色をぼんやりと見つめながら、うてなは次に取るべき行動を考えていた。

 安藤聡の無事は確認できた。

 唯一の気がかりが解消された今、次はどうするべきかを、うてな一人では決められない。

 もともと安藤龍二に協力する立場なのだ。

 彼がどうしたいかを決めなければ、始まらない。

 だがすぐに決めろと言うのは、あまりにも酷だ。

 それに、急がせる理由も、うてな自身にはない。

 異邦人である神無城うてなは、組織との関わりがなければ存在しないも同然だった。

 社会で生きていく事は、まず不可能だ。

 ならばそこから外れて生きていくしかない。

 だが、それでいいと割り切れる性格でもなかった。

 目的らしい目的を持たないうてなは、自分のために生きる道を見つけられずにいる。

 それはもう、ずっと以前から抱えていた問題でもあった。

 だからこそ、組織に協力する事で良しとしていた。

 そうしている間は、考えずに済む。

 今も結局、安藤龍二に協力するという理由で、考えないようにしていた。

 うてな自身、薄々気づいていながらも、そこから目を逸らし続けている。

「……まいったな」

 誰かの心配をしている事が、こんなにも楽だとは思わなかったと、うてなは小さくため息を吐く。

 誰かのためになら、頑張れる。

 迷わず行動もできる。

 だが、いざ自分のためとなると、二の足を踏んでしまう。

 自身の弱さを突きつけられるような感覚は、気を抜けばネガティブな思考に陥りそうになる。

 うてなはその思考を振り払うように、軽く頭を振って視線を景色に向けた。

 自分が今できる事を考える。

 まず浮かんだのが、本部に潜入して情報収集をする事だった。

 追跡状況や追手の数を把握しておくのは、悪い事ではない。

 が、それもリスクが高すぎる。

 監視カメラにすら感知されずに潜入はできる、それは証明されている。

 だがそれは、あくまで博士から開示されている情報によるものだ。

 うてなが知らないなにかしらの方法があったとしても、おかしくはない。

「あいつのことだから、ありそうなんだよなぁ」

 博士という人間に対する評価は複雑だ。

 能力の高さを疑う余地はない。

 反面、人間としての性質は極めて卑劣と言っても過言ではないと、うてなは思っていた。

 目的のためなら、どんな手段も辞さない。

 ある意味、この世界で最も信じてはいけない相手だとすら思っている。

「……はぁ。こういうのは、私の担当じゃないのに」

 窓に頭を軽くぶつけ、うてなは愚痴るように声を漏らした。

 こんな風に複雑な事を考えるのは、いつも自分以外の誰かだった。

 脳裏に浮かぶのは、久良屋深月の顔だ。

 うてながなにかしら行動を起こすと、彼女には伝えてあった。

 そうした時から、彼女と対立する覚悟はしていたつもりだ。

 だからあの日、深月が立ちはだかる事も想定していた。

 見逃して欲しいとは伝えたが、彼女がどうするかは、正直わからなかった。

 戦いたくはないが、そうなる可能性が一番高いとも、考えていた。

 しかし、深月は姿を見せなかった。

 直前までパートナーとして行動をしていたから、作戦には加えられなかったのか。

 それとも、彼女がそれを拒んだのか。

 もしくは、逢沢くのりの対処を命じられたか。

 あの状況でうてなの対処を他のエージェントに任せるのなら、深月をそちらに差し向けるのは十分にあり得る選択だ。

 不調を抱えるくのりになら、深月でも対抗できただろう。

 だとすると、あの傷を負わせたのも深月かもしれない。

 それはつまり、逢沢くのりを死に追いやる、決定的な要因だったとも考えられる。

「……まさか」

 浮かんだ考えをうてなは即座に否定した。

 いくら命令とは言え、深月がそこまでするとは、どうしても思えない。

 そう信じたいだけなのかもしれないと、うてなは目を伏せる。

 久良屋深月という少女に対して、客観的な分析などできないと、諦めた。

 そうなってしまうだけの時間をすごしてしまったのだと、痛感する。

 そしてもう一つ、不安を掻き立てるような言葉を思い出した。

 脱出する際だけではない。

 これまでに何度か、それらしい言葉を耳にした。

 残された時間が、あと僅かだと。

 龍二もくのりも、互いにわかっていたような口振りだった。

 死を予感させる、独特の気配。

 確かめたい気持ちはあるが、タイミングがないまま、今日まで来てしまっている。

 確かめるのが怖いという気持ちも、もちろんある。

 いつかは向き合う必要があるとはわかっているが、そう簡単に踏み出せる一歩ではなかった。

「……とりあえずは、次の場所に移動しないと」

 現在のセーフハウスを察知されている様子はないが、だからと言って同じ場所に留まり続けるわけにもいかない。

 幸いにも、セーフハウスとして利用できる部屋はまだいくつかある。

「あいつの置き土産に感謝、か……」

 それらは全て、逢沢くのりが独自に用意していたものだ。

 まるで託すように送られてきた情報。それが今、龍二とうてなの助けとなっている。

 流れる景色を見ながら、うてなはふと気づいた。

 どこか、寂しさの漂う世間の空気。

 知らない間に、クリスマスは終わっていたのだ。

 年の瀬特有の、慌しくも静かな気配。

 去年はどうすごしていたかと考え、自嘲気味に笑う。

 なにもなかった。

 ただ普通に、部屋で一人、過ごしていただけだ。

「今年は、退屈せずに済みそう」

 だが、決して明るい年越しにはなりそうもないな、とマフラーで口元を隠す。

 こんな状況にさえならなければ、きっと楽しかったのにと、思わず考えてしまった弱さを、隠すように。

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