最終章 第1話 暗闇月 その4
「いただきます」
手を合わせてそう呟いたうてなは、レンジで温めたパスタをフォークで巻き取る。
机の上に並べられた食材は、いずれもコンビニで調達してきたものだ。
普段の食事量と比較するとやや少な目だが、それでも同年代の少女が一度に摂取する量よりは多い。
新鮮味のない食べ慣れた味が、今のうてなにはなんだかありがたく思えた。
サラダにドレッシングを掛けながら、以前あったやり取りをふと思い出す。
同じようにサラダを食べようとした際、パートナーの少女はドレッシングを不要だと言っていた。
摂取できる栄養に差はないでしょう、と真顔で言われた時は、心底呆れたものだ。
いいから試してみろと強引にドレッシングを掛けてやったが、彼女が感想を口にする事はなかった。
「……まったく」
感想くらい言ってもいいだろうに、とうてなは苦笑する。
懐かしむほど昔の事ではないが、今ではもう、遠すぎる日常の風景だ。
感傷的になりそうな考えを振り払うように、うてなはペットボトルに口をつけてのどを潤す。
小さく息を吐き出し、視線をテーブルの対面へと向ける。
「少しでいいから、食べなよ」
このセーフハウスに到着してから数時間が経過している。
龍二が浴室から出てきたのは、一時間ほどしてからだった。
代わりの服に着替えた龍二と入れ替わるように、うてなもシャワーを浴びた。
手早く着替えを済ませたうてなが戻ってから大分経つが、彼はまだ一言も声を発していない。
それなりの広さを備えた部屋の隅に座り込み、ずっと俯いていた。
うてなも、どう声を掛けていいか、わからなかった。
本当ならばもう少し早めに食事をとりたかったが、龍二を放っておく事ができず、こんな時間になってしまったのだ。
彼を一人にするのは不安でもあったが、食料までは用意されていなかった。
さすがになにも食べないという選択肢はなかったので、近くのコンビニで食料を調達してきて、今に至る。
蹲っている龍二を半ば強引に立たせ、テーブルまで連れてきたのが、数分前の出来事だ。
龍二が塞ぎ込む理由は、痛いほど理解できる。
背中越しに聞いたあの慟哭が、今もまだ耳の奥で響いているようだった。
「……ほら、冷めちゃうから」
だからと言って、そのまま引き下がるうてなではない。
立ち昇る湯気が龍二に届くよう、温かい弁当を彼の方へと押しやる。
今にも閉じてしまいそうな弱々しい双眸が、うてなへと向けられた。
胸の奥で疼く痛みを無視して、うてなは小さく頷く。
うてなの強引さに後押しされるように、龍二は箸を手に取る。
食事の仕方を思い出し、確かめるような動作だった。
その様子をジッと見守りながら、うてなは自分の食事を続ける。
そうする事で龍二が動き続けられるとでもいうように。
「…………」
龍二は結局、指先程度の白米を口にしただけで、箸を置いてしまう。
咀嚼して飲み下す事すら、億劫だとでも言いたげだった。
さすがにそれ以上を求めるのは酷だろう。
あれからまだ、一日も経過していないのだ。
彼が失ったものの大きさを考えれば、うてなでも足踏みをしてしまう。
無理矢理口に詰め込んでやりたい気持ちはあるが、今の龍二に対してどこまで踏み込んでいいのか、測りかねていた。
今はまだ、そっとしておくしかないのだろう。
だが、いつまでもそのままでいられないだろうと、うてなは思う。
どこかで必ず、向き合わなければいけなくなる。
けれど、それは今ではない。
悲しむ時間が必要なのも、わかっている。
だからうてなは言葉を呑み込み、無言で食事を続けた。
テーブルに並んだ食べ物が減っていく様子をぼんやりと眺める龍二の思考は、ある一点で堂々巡りに陥っていた。
シャワーを浴び、声を上げて泣いた。
感情まで洗い流されてしまったかのように、今では喪失感すら薄れつつある。
そんな状態でも残り続け、一番はっきりとしているものは無力感だった。
なにもできなかった。そばにいる事すら、できなかった。
最期の瞬間に、手を握っている事さえも。
思考を埋め尽くす言葉の群れが混ざり合い、一つに統合される。
――自分に力があれば、と。
悲しみから目を背けるように、それだけを繰り返し、考える。
力があれば、強さがあれば結果は違っていたはずだ。
彼女たちのような強さが、肩を並べ、背中を預けて戦えるだけの力があれば、くのりをひとりにする事はなかった。
一緒に戦える力があったのなら、助ける事だってできた。
全てを捨てて逃げようと言われた時、頷けたかもしれない。
守られるだけではない、確かな強さを自分が持ってさえいれば。
そうすれば、くのりがあんな最期を迎える事だって、なかったかもしれない。
死から逃れる事はできなかったかもしれないが、それでも違う。
もっと穏やかで、温かい気持ちで、その瞬間を迎えられたかもしれないのだ。
自分が足手まといでさえなければ、全ては違っていたはずだ。
――力が、あれば。
それこそ、あの忌まわしい映像の中にいた、自分と同じ姿をした少年のような力があったのなら。
全てはもう、終わった事だ。
すぎてしまった事であり、なにもかもが遅すぎる。
だがそれでも、思わずにはいられない。
「……本当に僕は、なんの力も、ないのかな?」
地の底から這い出すように、龍二は顔を上げる。
食事を続けていたうてなの手が、ピタリと止まった。
その目が、龍二の昏い視線とぶつかる。
空耳でも聞き間違いでもないのだと、うてなはすぐ理解した。
それと同時に、枯れかけている龍二の声に痛みを覚えた。
数時間を経てようやく絞り出した言葉は、あまりにも哀しい。
「僕の身体には、うてなと同じ魔力があるんだよね? だったら――」
「前に言ったでしょ、それは無理」
素っ気なく答えたうてなは、食べかけのおにぎりを口に放り込む。
今の会話だけで、彼がなにを求めているのかがわかってしまった。
だから殊更冷たく、それで終わらせるように続ける。
「確かにあんたの身体にも魔力は流れてる。それは疑う余地もない。でもね、どうあっても魔法を使えるようにはならない。これだけは絶対」
ペットボトルに一度口をつけ、うてなは気持ちを落ち着かせる。
「いい? 予め刻んでおいた術式に魔力を流して発動させる、それが魔法」
真っ直ぐに龍二を見るうてなの視線は、真剣さと共に厳しさを含んでいる。
お前が求めるものは手に入らないと、現実を突きつけるように。
「で、術式っていうのは、肉体に対して施すものでもあるけど、それだけじゃないの。肉体と同時にそれと繋がる精神……いわば、魂に刻むものなの」
自身の胸を、うてなは軽く指で叩いて見せる。
「じゃあ、それができれば僕も使えるってことだよね?」
「できれば、ね」
だがそれは不可能だと、うてなは鼻を鳴らす。
「ここじゃあ、どうやってもできない。だってここは、私の世界じゃないから」
どんな手を尽くそうとも、どれだけの魔力があろうとも、それだけは不可能なのだとうてなは語る。
「……で、でも、もしかしたら違う方法があるかもしれない」
「絶対にない……とは言い切れないけど、無理よ。それこそ、新しい術式……いや、魔法体系を作り出しでもしない限り」
それが仮にできたとしても、やはり異世界の魔法を新たに成立させる事など不可能だと、うてなは考えていた。
自分というイレギュラーは、個体だからこそ辛うじて許容されている。
世界の理すら変えるような事を、世界が許すはずがない。
そうでなければ、世界はその姿を保てないのだから。
「本当に? うてなが知らないなにかがあるんじゃないの?」
「しつこい。なんでそう思うわけ?」
「……見たんだ」
「……なにを?」
「……僕が、うてなみたいに戦ってる映像を」
テーブルの下で震える拳を握り締め、龍二は話した。
奏と共に誘拐されたあの場所で見せられた、自分そのものとしか言いようのない少年が戦う姿を。
人間離れした速度、膂力。
あの戦う姿は、うてなのそれを髣髴とさせるものだった。
だからこそ、もしかしたらという考えに至ってしまうのだと、龍二はうてなを見る。
「その映像については、奏さんが話してくれた。けど……」
二人が口を揃えて、見間違いではないと断言しているのなら、それは確かなのだろう。
だがそれでもうてなにとっては、にわかに信じがたい話だった。
なにかがずっと、引っかかっている。
それがなんなのかを、うてなはまだ掴めていなかった。
「本当に……本当なんだよ!」
はっきりとしないうてなの態度に、龍二は思わず声を荒げていた。
テーブルに手をついて立ち上がった拍子に、ペットボトルが倒れる。幸いにも、中は空になっていた。
「本当に戦ってたんだ! あの中で僕は……僕は戦ってた! たくさん殺して……殺してっ」
「ちょっと龍二、落ち着け」
眉間に皺を刻む龍二の姿に、うてなも立ち上がる。
空気が淀むような感覚に胸を締め付けられるが、それを無視する。
「信じてよ。本当にあれは、見間違いなんかじゃないんだ……だから、だからきっと僕は、忘れてるなにかがあるんだ!」
それはもはや、呪いとすら言えた。
力があればという思考に取りつかれた龍二は、ずっと否定し続けてきた可能性を受け入れている。
あの映像の中で虐殺を繰り広げた少年は、自分自身であると。
最悪を受け入れてしまえば、可能性が手に入る。
どれだけ望んでも届かなかった、戦うための力が。
「お願いだうてな、なにか知ってるなら……隠してるなら、教えてよ! 僕は……僕は!」
そのためなら、身に覚えのない罪すら受け入れてやると、目を血走らせる。
「ちょっ、龍二っ」
迫って来た龍二に両肩を掴まれたうてなは、思わず一歩後ずさる。
あまりにも必死すぎる龍二の表情を間近にして、その痛々しさに動揺していた。
簡単に振り払えるはずの腕を払えず、今にもひび割れてしまいそうな龍二の顔を見上げる。
「お願い、だよ……なんとか、言って……僕にも力が……戦うすべがあるって……」
血走る目に反して、顔は青ざめていた。
限界まで絞られ、色を失ってしまいそうなほど、今の龍二は思い詰めている。
「ねぇ、教えてくれよ……強くなれるなら、なんだってする……だから……」
最後の希望に縋るように、龍二は掠れた声を漏らす。
たとえそれが死に至る希望であろうとも、もうそれしかないと思っているかのようだった。
肩を掴む手から、震えが伝わって来る。
同時に、彼の痛みが触れた肩を通して染み込んでくるような気がした。
枯れたと思っていた涙すらこぼしそうな龍二の頬に、うてなは手を伸ばす。
その冷たい頬を両手でそっと挟み、踵を上げる。
「……しっかり、しろっ!」
そして、これでもかという一撃を、龍二の額にぶつけた。
一切の加減がない頭突きを喰らった龍二は、思わず仰け反る。
遠慮なく正面から喰らわせたうてなもまた、意外にも硬い龍二の頭に低く唸った。
「……な、なにを」
目の前で火花が散るような痛みに手を離した龍二は、額を押さえてうてなを見る。
「なにを、じゃないだろ、バカモノが」
額を擦っていたうてなは不機嫌そうに鼻を鳴らし、ふんぞり返るように龍二を見やる。
「あんたね、なに言ってるかわかってんの? 力がどうだとか、戦うだとかさ」
「わ、わかってるよ」
「なら聞くけど、もし望み通りの力が手に入ったとして、どうするわけ?」
「それ、は……」
正面から突きつけられる言葉に、龍二は声を詰まらせる。
もうそれしかないと思っていたにも関わらず、一度立ち止まるとその先にはなにもなかった。
手遅れなのは最初からわかっていた。
それでもと、力を求めた。
だがその先は、虚無だ。
「僕は……わからない」
どうしたいのかなど、微塵も考えていなかったと気づく。
顔に手を当てたまま、龍二は小さく首を振って俯く。
その様子を見て、うてなはもう一度鼻を鳴らした。
「じゃあ、復讐でもする? こういう時のお決まりでしょ。手に入れた力で、組織をぶっ潰すのは」
「そんなこと……」
したいとは思わない、などと口にする事はできなかった。
怒りをぶつける矛先としては、これ以上ない対象だ。
それを実行できる力が手に入ったとしたら、絶対に選ばないとは言えなかった。
「ま、やりたいって言うなら止めないよ」
「……ここは、止めるところじゃないの?」
「あんたがそうしたいって言うなら、やればいい。綺麗事とか王道でなんでも片づけられるなら、誰も苦しんだりしない」
そう言ったうてなの表情は、微かな陰りを帯びていた。
実感の籠った言葉なのが、龍二にもわかる。
「でもさ、さっきのあんたは、違う」
掴まれていた肩に軽く触れ、うてなは目を細める。
「こういう時だからこそ、ちゃんと考えなきゃ、ダメなんだと思う」
それは今朝、逢沢くのりを置いて逃げる際に言ったものと同じだった。
あの時は絶望に、今は欲望に、龍二は支配されていた。
そんな状態で決断してはならないと、うてなは諭す。
「ちゃんと自分で選んだ道だって、そう言えるようにしなきゃ。じゃないと、きっと後悔する」
当事者ではないからこそ、そう言わなければいけないのだと、うてなは思っていた。
龍二が冷静になれない分、自分がそうでなければならないと。
雨に凍え、彼の慟哭を耳にしながら、うてなはそう決めていたのだ。
「その上でもし、あんたが復讐したいって言うなら、相談しろ。話は聞いてやる」
うてなはそれで話は終わりだと言うように、椅子に座り直した。
畳みかけるようなうてなの言葉を反芻しながら、龍二もつられて座る。
「とりあえず、もう少し食え。腹が減ってちゃ、回る頭も回らないでしょ」
そんな龍二に弁当と箸を押し付け、うてなは自身の食事を再開する。
龍二はその様子をしばし眺めていたが、やがて箸を手に取り、少し冷めてしまった弁当に口をつける。
互いに無言の食事ではあったが、その口元は微かに、綻んでいた。
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