最終章 第1話 暗闇月 その3

「バカげた話だと思うだろう? だがね、全てのプロジェクトはこのために存在しているんだ。もちろん、出資者や政治家どもの思惑は絡んでくるが、大元にある思想はそこに集約している」

 その思惑を博士がどう思っているのかは、嘲るように歪んだ口元が物語っていた。

 組織の運営に関わり、発言権を持つ中心人物たちの思惑は、博士にとってはどうでもいいものだ。

 スポンサーである彼らの要望に応えはするが、それはあくまで副産物にすぎない。

 博士が求め、最終的に目指すものはただ一つ。

「人間を、進化させるつもり、ですか?」

「まさか。そんな大層な話ではないよ。この場合はそうだな、強化と言うのが妥当だろう」

 そこまで驕ってはいないと、博士は静かに笑みを浮かべた。

 組織や博士の目的を初めて知った深月は、怪訝そうに眉を顰める。

 なぜ今、そんな話を自分にしているのかがわからない。

 ただのエージェント、駒にすぎない深月にそれを教えて、博士はどうするつもりなのか。

 なおも治まらない吐き気に喘ぎながら、深月は博士を見上げる。

「強化と一口に言っても、内容は様々だ。例えば君たちエージェントは、身体能力の向上を目的としているわけだが、今は戦闘能力にばかり注目されている。だがそんなものは、いくらでも強化できてしまう」

 博士はもう一度モニターに視線を向け、停止している映像に目を細める。

 そこに映し出されているのは、失敗作と称された少年の顔だ。

「しかし、不思議なものでな。常人をはるかに超えた力を与えると、精神のバランスが保てない。私が求めるものとはかけ離れすぎている。兵器としても、お粗末と言わざるを得ない」

 彼は極端な例だがね、と博士は自嘲して鼻を鳴らした。

 その実験によって失われた命には、僅かも興味がないのだと深月にもわかる。

 博士にとっては、ただの実験であり、一つの結果でしかないのだ。

「……どうして、そんな実験を」

「いかなる環境にも適応し、生存できるようにしたいのさ」

 そう言って深月に向けられた視線は、奇妙に思えるほど穏やかなものだった。

 絶えず宿っていると思っていた狂気の欠片すら、消え失せている。

「だから私は求めているんだ。生に執着するエージェントを、な」

 殺す技術の高さも、命令に忠実である事も、どうでもいい。

 ただひたすらに、生きる事を望むエージェントを求めているのだと、博士は笑みを浮かべる。

「生物としての本能ではなく、生きたいと願う感情。それがあるからこそ、人間は人間なのだと、私は思う」

 再び端末を操作し、モニターの映像を逢沢くのりのデータに切り替えた。

「その点で言えば彼女……逢沢くのりは実に理想的だった。エージェントとして最高の能力を備え、結果を出した。あれほどまでに完璧なエージェントは、今のところ逢沢くのりただ一人だ」

 数瞬前にあった穏やかさが、また変わる。

 微かな熱を帯びながらも、背筋が凍るような冷たさを秘めた瞳が、モニターに注がれる。

「その上で逢沢くのりは、感情を芽生えさせ、欲望を抱いた。我々が与えてはいないはずのものを、な」

 完成していると思われたエージェントが、自我を持った。

 それを知った時の歓喜は、博士にしかわからないだろう。

 下らない要望に応えて繰り返す実験の中で、博士の心を躍らせた輝きだ。

「逢沢くのりが独自に獲得した感情は、実に興味深いものだった。監視対象を特別だと思い、手に入れたいと望んだ。そして、実際に行動を起こして見せた」

 博士にしかわからないような変化だった。

 あえて見逃し、観察し続けた。

 どこまでやるのかと、仕事が手につかないほどに。

「まさに命がけだ。わかるか? ただの感情、一時のものかもしれないそれに、逢沢くのりは命を賭けたんだ」

 ――自分のために生き、彼のために死ぬ。

 くのりの言葉が、深月の脳内で反射する。

 ただの一度もブレる事なく、それを貫いた姿が通り過ぎていく。

「任務をこなすことが全てだと育てられたエージェントが、自分で生きる目的を見つけた。それだけではない。命を投げ打つ場所すらも自分で決めていた。実に人間らしいと思わないか?」

 それがどれだけあり得ない事なのかは、深月もよくわかっている。

 全て、自分にはないものだから。

 気が付けば、吐き気はなくなっていた。

 その代わり、心臓が軋んで、呼吸が苦しくなる。

「君と彼女を同一視するつもりはない。生まれ方も育て方も、君たちは異なっているからな。違いがないのは、訓練内容くらいのものだ」

 だが、と博士は舐め回すような視線を深月に向ける。

「私はね、君にも期待しているんだよ、久良屋深月」

 その言葉に棘はない。

 が、優しく撫でるように深月の胸を抉っていく。

「命令を拒んだそうだが……どうだ? まだエージェントとして活動する気はあるか?」

 選べるのはこれが最後だと、深月は理解した。

 興味深そうに細められた目と、その奥に宿る熱が物語っている。

「……もう、不要ですか?」

 だが深月は、なにも選べなかった。

 どうするのが正解なのかも、わからない。

「つまらない」

 深月の答えに、博士はあからさまに落胆して見せる。

 正解などない。

 博士はただ、深月がどう答えるのかを知りたがっていたのだ。

「私が君に訊いているというのに、答えを私に求めるとはな。およそ考え得る中で、最も愚かな選択だ」

 興覚めだと言わんばかりに鼻を鳴らし、息を吐く。

 その視線はもう、深月を見てはいなかった。

「逢沢くのりのほうが、はるかに人間らしい」

 立ち上がった博士は深月の横を通り過ぎ、コーヒーを淹れ始める。

 深月は膝をついたまま、顔を伏せていた。

「生まれ方を考えれば、君のほうが普通の人間に近いのだがな。これでは、わざわざ産んだ意味がない」

 その言葉に、深月はハッとして顔を上げる。

 博士は背中を向けたままだ。

「やはり、生まれ方よりも環境のほうが重要ということか」

「…………っ」

 声を出そうとした深月は、振り返った博士の目を見て言葉を失う。

 これまで、何度も見てきた目だ。

 底なしに冷え切った、深淵のような双眸。

 自分自身に向けられるのは、これが初めてだ。

「…………」

 深月は結局、なにも言えずに顔を伏せる。

 今更なにを訊いても、どうにもならないと悟ったのだ。

 博士はすでに、久良屋深月という存在に興味を失っている。

 結末はもう、決まったも同然だ。

 俯いた深月の唇が、微かに緩む。

 それならそれでいいと、自嘲するように。

 博士が興味を失ったのなら、あとは処分を待つだけだ。

 そう望んでいたじゃないかと、思い直したのだ。

 なにも決断する必要はない。

 あとはただ、その時を待てばいいと。

 気持ちが楽になる感覚に、深月は全身の力を抜いた。

「まるで抜け殻だな」

 だが博士は、そんな深月に声を掛けた。

 一瞬、それが自分に対するものなのだと、深月は気づくのが遅れた。

 興味を失った自分に声を掛けるはずがないと、思い込んでいた。

「そのまま沈んでいくつもりか?」

「…………わた、しは」

 出ないと思っていた声が掠れ、深月は息を詰まらせる。

 見上げた先には、博士の静かな双眸が待っていた。

「望みがあるのなら言ってみろ」

「のぞ、み……?」

 なにを言っているのだろうと、深月は首を傾げる。

 エージェントがなにかを望むことなど、普通ではないのに。

「違う。お前がお前として……久良屋深月として望むことはないのか?」

 見透かしたような博士の言葉に、苛立ちはない。

 ただ淡々と、思考がクリアになっていくような声色だった。

「…………私が、私として?」

 だが深月は、その違いが理解できない。

 久良屋深月は、組織のエージェントだ。

 ここで産まれ、育ち、任務を遂行する。

 それ以外の何者でもない。

「なら訊き方を変える。エージェントをやめた久良屋深月に、なにが残る?」

 氷の刃が心臓を貫くような感覚に、深月は呆然とする。

 博士の問いは単純明快だ。

 わからないわけがない。

 けれど、答えは見つからない。

 エージェントではない自分が何者なのかなど、考えた事もなかった。

 凍り付いたようにへたり込む深月を、博士はジッと見つめる。

 その唇は微かだが、柔らかさを宿していた。

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