最終章 第1話 暗闇月 その2

「まるで死人のそれだな」

 無色な双眸を覗き込んだ博士は、深月の頬を軽く撫でながらそう呟く。

 微動だにしない深月から手を離し、博士は中央のソファに腰を下ろす。

 深月は視線を床へ落としたまま、その場から動く事もない。

 博士は特に気分を害した様子もなく、ソファに身を預けて深月を流し見て鼻を鳴らす。

 逢沢くのりの確保に失敗した深月は、ずっとこの調子だ。

 気絶されられた際に頭部を殴打されているが、後遺症の類はない。

 精神的なものである事は、わざわざ調べるまでもなくわかる。

 拘束衣を着せられている理由は単純だ。

 目覚めた後に下された追跡命令を、深月は拒んだ。

 エージェントにとって命令は絶対であり、それを拒む事など許されない。

 彼女は逃亡中の二人と面識があり、数日前までパートナーとして、護衛対象として接していた。

 ゆえに、協力している可能性があると疑いをかけられるのも、当然の事だった。

 博士個人としてはさして問題にもしていないが、心配性の部下がそれを許すはずもなかった。

 そのため彼女は拘束され、夜通し尋問を受けていたのだ。

 だが、得られた情報はなに一つとしてない。

 深月はなにも答えなかった。ただそれだけだ。

 そこには敵対する意思すら存在していない。

「君が取り逃がした逢沢くのりだが、今朝死体で発見されたよ」

 世間話のように告げられた事実にも、深月はなんら反応を見せなかった。眉一つ、動かない。

 瞬きすら忘れてしまったように、無表情なままだった。

「あの二人は現在も逃亡中だ。思ったよりも手を焼くかもしれないな」

 だが居場所を突き止めるのは時間の問題だろうと、博士は楽観的に口元を歪める。

 神無城うてなの特異性があろうとも、エージェントとしての訓練を受けていない彼女では、安藤龍二を連れたまま逃亡し続ける事は不可能だ。

 逢沢くのりが同行していた場合は、発見する難易度が跳ね上がるが、その心配ももうない。

 さほど頭を悩ませる必要も、凝った手を打つ必要もない。

 だからこそ博士は今、久良屋深月に時間を割いているのだ。

「一応訊いておこう。心当たりはあるか?」

「……なにも、ありません」

 ようやく口を開いた深月の目は、変わらず色がない。

 数時間の尋問にも沈黙を貫いた深月の声は、消えてしまいそうなほどに掠れていた。

「そうか。ならこの話は終わりだな」

 さして興味がないとでも言いたげに肩を竦める博士に、深月はゆっくりと視線を向ける。

「無関係だと言った君の言葉を、私は信じているよ」

 嘘偽りのない、それは博士の本心だ。

 が、今の深月はそう思えるほどポジティブな思考ができない。

 どこまでも沈み込むような、暗い思考と感情が彼女を満たしている。

 漆黒に染まってしまった意思は、揺れたとしても影さえ見えない。

 そんな深月の姿は、裁かれる瞬間を待っているかのように、博士には見えた。

 そしてそれは、間違ってはいない。

 深月はただ、処分が下されるのを待ち望んでいるのだ。

 自ら命を絶つ事もなく、不要だと判断されるのを待っている。

 そう判断されたエージェントがどうなるかを、深月は知っていた。

 存在を抹消され、適切に処理される。

 生きていた事も死んだ事も認められず、幻のように消えてしまう。

 そうなる事を、深月は望んでいた。

「追跡を拒んだそうだが、理由は?」

「…………」

 なにかを答えようとして口を開いたが、言葉は出て来なかった。

 自分にはできないと、そう思ったから。

 同時に、漠然とした恐怖を覚えたのだ。

 あの二人を追って、顔を合わせて、なにを言って、なにを言われるのか。

 逢沢くのりの幻影が、揺れる。

 ほんの僅かな表情の変化を、博士は見逃さなかった。

「私がエージェントに求めるものがなにか、わかるか?」

 だからそれ以上は追及せず、全く違う話に切り替える。

 不自然と感じるほどに穏やかな博士の声に、深月は首を振る。

 博士がなにを求めているかなど、誰にもわかりはしない。

 話す機会の多い深月ですら――いや、そんな深月だからこそ、わからない。

 博士という人間を知れば知るほど、理解などできないと思い知る。

 底なしに歪んだ、自分勝手な研究者。

「なんでもいい。君がそうだと思う答えを言ってみろ」

 有無を言わせぬ言葉を、博士は柔らかな声色で口にする。

 恐怖ではないなにかが、答えなければと深月の喉を締めつけていた。

「……任務を達成する、こと」

「たとえそれがどんな内容であろうとも、か?」

 答えを補足する博士に、深月は頷く。

 組織のエージェントに求められるのは、それ以外に考えられない。

 そして深月は、それができなかった。

「違うの、ですか?」

「少なくとも、任務の達成に私は興味などないよ」

 組織が求めるものとしては間違ってはいないがな、と博士は目を細めて笑う。

 確かに博士は、『私が求めるもの』と言っていた。

 深月はそれを、組織として求めるものだと思い込んでいたのだ。

「どちらにせよ、正解とは言えないな。任務の遂行を目的とするなら、わざわざ君たちのようなエージェントを作ったりしないさ。潜入工作にしても、戦闘にしても、な」

 そんなものは既存の工作員や兵士でどうとでもなると、博士は鼻で笑う。

「もちろん、通常の兵士よりも高い能力を持つエージェントを欲しがる輩はいる。実際、そういう打診は何度も受けているが、全て断っている。用意しようと思えばいくらでも用意できるが、得られるものがなさすぎてな。私としてはね、感情を持たない兵士を作るつもりはないのさ」

 博士はその話を持ち掛けて来た相手を思い出し、唇を不快げに歪める。

 同時に、瞳の奥に妖しい熱を宿し始めていた。

「戦場で使用するのなら、わざわざエージェントを用意する必要などない。撃破されることを前提とした兵器やロボットでも作れば済む話だ。機械と違って、君たちのようなエージェントは用意するのに時間がかかる。使い捨ての兵器として扱うには、コストもかかりすぎるしな」

 呆れたように肩を竦めつつ、博士はねっとりとした視線を深月に向けた。

 これまでにも何度か向けられた事のある、絡みつくような視線に、深月は喉の渇きを覚える。

「我々が協力するのは、見返りがあるからこそだ。エージェントが帰還しないのでは、実験にならない。幸いにも予算の心配はもう必要なくなっている。だから君たちを、下らない戦場に送らずに済んでいる、というわけだ」

 博士が手元の端末を操作すると、部屋に備え付けられている大型モニターにある映像が表示された。

 それがなんであるかをすぐに理解した深月は、咄嗟に目を伏せた。

「とは言え、私の目的と彼らの要望が合致することもある。彼はその一つだった。まぁ、成功とは言い難い結果に終わったがね」

 無音の映像を眺めながら、博士は横目で深月を観察する。

 きつく閉じた唇の奥で、歯が鳴っているのがわかる。

 ありもしない音や匂いが伝わってきそうな、虐殺の映像。

「力に溺れて殺しまわるようでは、殺人機械としても不出来だ。対象も規模も制御できない兵器では、ヒトの形を持たせている意味がない」

 淡々と語る博士の言葉は、深月の精神を抉っていく。

 言葉の意味を理解するほどに、思考がバラバラにされていくような感覚だった。

 モニターに流れている映像は、脳裏に焼き付いているものと同じだ。

 大勢の研究員たちを、遊ぶように殺しまわる少年。

 深月にとって悪夢としか言いようのない、あの日の出来事だ。

 吐き気を覚えるが、両腕を拘束されていては口元を押さえる事などできない。

 それでも耐えようと、深月は膝をついて蹲る。

 博士はその背中を見下ろしながら、構わずに続ける。

「命を惜しまず、任務を遂行できるエージェントを作るのなら、そう難しいことではない。だがそれでは意味がない」

 歯を食いしばって顔を上げた深月と、博士の視線がぶつかる。

 吐き気で発汗していた身体が、一瞬で冷えていく。

「私がエージェントに求めているのは、目的を達成した上で生存し、帰還することだ」

 生きて戻る事を望んでいるという言葉が、なぜか死の宣告のように、深月には聞こえた。

 生還を望む事が、死に繋がる。

 そんな矛盾に、深月はますます困惑し、吐き気を覚える。

 博士の思考など知りたくないと、本能が拒絶している。

「私はね、人間を今より優れた生命体にしたいのだよ」

 だが博士は、そんな少女の願いにも似た感情に気づきながら、当然のように無視した。

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