最終章 第1話 暗闇月 その1
「あぁ、手筈通りで構わない。くれぐれも余計な傷はつけるなよ」
耳に装着していた小型の通信機を外し、博士はそれをデスクの上に放り投げる。
自分の判断が必要となる状況は、しばらくはないだろうと軽く肩を揉み解す。
空になったカップを手に立ち上がった博士は、新たにコーヒーを淹れながら口元を綻ばせた。
仕事で徹夜した時は気怠さが付きまとうものだが、今回はそれがない。
昼というにはまだ早すぎる時間だ。
今日の予定は全てキャンセルだな、とコーヒーの匂いを嗅ぎながら考える。
熱いカップを手にしてデスクに戻った博士は、複数の画像が表示されているモニターを改めて眺める。
いずれもこの一時間たらずの間に現場で撮影されたものだ。
そこに映っているのは、物言わぬ死体となった逢沢くのりの姿。
コーヒーを一口味わいながら、その死に顔を凝視する。
「いい顔をするじゃないか」
逢沢くのりの死に顔は、どこか満足げであり、穏やかなものだった。
まるで幸せな夢を見ているかのようだと、博士ですら思うほどに。
彼女が息絶えていた場所は、あの廃工場のすぐ傍だった。
雪に囲まれるようにして横たわる画像には、いくつかの足跡が残っている。
安藤龍二と神無城うてなのもので間違いないだろう。
二人は未だ逃亡中だが、いずれは発見できると博士は確信していた。
万が一、二人が完全に別行動を取るようであれば、神無城うてなの発見は困難になるだろうが、まずそれはないだろう。
神無城うてなが安藤龍二を見捨て、自分の保身のみを考えるとは思えない。
「そんな半端は、しないだろう」
直情的な彼女に限ってそれはないと、博士は笑みを浮かべる。
組織に対する裏切りに等しい行為ではあるが、苛立ちも嫌悪も不快感もない。
彼女がそうしようと思えるだけのものが、そこにはあったのだろう。
逢沢くのりと神無城うてな。
二人の少女が見せてくれた行動力に、博士はむしろ敬意を覚える。
それぞれに同じ感情を抱いていたとは思えないが、安藤龍二に拘るなにかがあったのは間違いない。
「魔力がその一因ではあるだろうが、さて」
神無城うてなの立場を考えれば、安藤龍二に対して興味を抱かないはずがない。
同時に、放っておく事もやはりできないだろう。
この世界で唯一、自分と同じ性質の魔力を持つ少年。
知りたい事は尽きないはずだ。
だからこそ、彼女が彼を見捨てて逃亡するとは考えられないのだ。
「それにしても……」
モニターの画像に視線を戻した博士は、逢沢くのりの最期に思いを馳せる。
別々に逃亡した彼らは、あの廃工場で落ち合うつもりだったのだろう。
この寒空の中、あえてあの場所を選んだのは果たして誰なのか。
博士はそれを、逢沢くのりだろうと推察していた。
あの廃工場に特別な思い入れを持つのは、彼女以外にはいないだろう。
神無城うてなは言わずもがな、安藤龍二もわざわざあのような場所を提案するとは思えない。
とは言え、逢沢くのりにとってメリットがないのもまた、事実だろう。
むしろデメリットの方がはるかに多い。
組織が潜伏場所として調査を優先する場所ではないが、それがメリットになるほどではない。
その程度の判断もできないほど、逢沢くのりが衰弱していたわけでも、ない。
肉体的には限界を迎えつつあったが、それに対して精神面は健全さを保っていた。
博士としてはその事が驚きでもあり、愉快でもあった。
「最後まで恋に殉じた、というわけか」
逢沢くのりが死の間際まで拘り続けた感情。
それを想像するだけで、博士の心は躍った。
徹夜による疲労など、ないに等しいと思えるほどに、逢沢くのりの最期は強い輝きを放ち、博士という人間を刺激した。
「君は本当に素晴らしい観察対象だったよ、逢沢くのり」
その死に捧げるように、博士はモニターに向けてカップを軽く掲げる。
第四世代と呼ばれるエージェントの中で、彼女ほど有用且つ希少なデータを残してくれた者は、未だにいない。
彼女が生み出されてから十八年。
その間にも技術は進歩し、第五世代のエージェントも実験段階に入っている。
逢沢くのりから得られたデータを活用できるのは、次の第六世代からになる。
だが、すぐに取り掛かれるものではない。
彼女がもたらしたデータを分析する作業がまだ残っている。
そもそも、現在進行形で経過観察を行っている同世代のエージェントは他にもいる。
いずれも逢沢くのりには遠く及ばない結果しか残せていないが、なにがきっかけで変わるかはわからない。
「君も、そうだったな」
博士は愛おしげに呟き、モニターに映るくのりの顔を撫でる。
一つの完成形とまで言われた、任務に忠実なエージェント。
未だにくのりを越える成果を出したエージェントはいない。
基本的なスペックで考えれば、第五世代エージェントの方が優れているはずなのだ。
にも関わらず、彼女と同等に任務をこなせるエージェントはいなかった。
それほどまでに特別だった逢沢くのりを、たった一人の少年――たった一つの感情が変えた。
「それを恋だと、君は言ったな」
そしてそれは、愛でもあると。
数年前の自分に教えたとして、果たして信じただろうか?
そんな考えに博士は低く声を漏らす。
「君の心臓を開いて答えが見つかるのなら、楽なのだがね」
逢沢くのりを変えた感情をデータ化できればと、思わずにはいられない。
「なんにせよ、君ひとりでは、な」
同じような状況を他のエージェントに与えてもみたが、未だに変化は見られない。兆しすら皆無だ。
唯一逢沢くのりだけが、恋をした。
完成されていたはずのエージェントが、異常をきたした。
それとも、博士たちがそう思っていただけで、完成されてなどいなかったのか。
いや、完成していたからこそとも考えられる。
完璧すぎるがゆえに、見えないほどの僅かな傷が、全てを台無しにしてしまった。
研究者の中には、くのりをそう蔑んで落胆している者たちも多い。
だが博士は違う。
台無しになどなっていないと、博士だけは思っていた。
むしろ、それこそが最も博士が望むものでもある。
「君が君であったことの証明……そうだろう、逢沢くのり」
よく働いてくれたと、博士はもう一度カップを掲げて見せる。
「叶うのなら、君の妹や弟たちが、また違う輝きを見せてくれるといいのだが」
博士の興味はすでに、次のエージェントたちへと移っている。
逢沢くのりの実験と観察は、今この時をもって終了となった。
彼女がもたらしてくれたデータは、次世代へと活かされる事になる。
少なく見ても数年は先の話だ。
「さて、次は彼女の番か」
コーヒーを飲み干した博士はそう言って、デスクに設置された通信機を操作する。
「あぁ、連れてこい」
短く告げた博士はカップを置き、モニターの画像を全て閉じる。
そして別のファイルを開き、印刷されたデータをデスクに広げた。
ほどなくして、ドアをノックする音がする。
手元でロックを解除した博士は、開いたドアに視線を向けた。
冷ややかではないが、かと言って温かさも感じられない、静かな目だ。
武装した警備員二人に連れられて来たのは、拘束衣を着せられた少女――久良屋深月だった。
博士は手ぶりだけで警備員を部屋から退出させる。
数メートルの距離で佇む深月は、なにも反応を見せない。
意識ははっきりとしているはずだが、自発的になにかをする意思はないのだろう。
「待っていたよ、久良屋深月」
博士はそう言って、唇に笑みを浮かべた。
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