第5章 第4話 Sasanqua その1
「大丈夫そう。降りてきて」
薄暗い中で、周囲を見回しながらうてなは後部座席のドアを開けた。
パーカーのフードで頭を覆った龍二は、無言で頷いて車を降りる。
二人が今いるのは、駐車場の一角だ。
本部から無事に脱出し、用意しておいた車に乗り込んだ二人は、すでに何度か車両を乗り換えている。
この駐車場に入ったのも、また別の車両に乗り換えるためだ。
「はいこれ、荷物」
トランクから取り出した旅行鞄を龍二に押し付け、うてなは次の車がある場所へと向かう。
龍二が押し付けられた鞄には、予め用意してあった着替えなどが入っている。
彼が今着ている服も、そこに入っていたものだ。
うてなは事前準備として、同じような車両と鞄を複数個所に用意していた。
もちろん、彼女が一人で考え付いたものではない。安藤聡や奏の助言があったからこそ、そこまで用意しておけたのだ。
「あのさ、後部座席で蹲ってる必要、まだある?」
「なに、嫌なの?」
「さすがに背中が痛い」
車を乗り継いですでに二時間ほどが経過している。
龍二はその間ずっと座席の間に蹲り、身を隠し続けていた。
うてなにそうしろと言われるがまま従っていたが、どんな意味があるのかは今一つ理解できていなかった。
「我慢して。あんたの顔をカメラで補足されたら、車を乗り換える意味がなくなるでしょ」
「なるほど」
そういう意味があったのか、とようやく龍二も理解して頷く。
「でも、そこまでする必要ある?」
「あるから言ってんの。ここだって、カメラがないから乗り換え場所に選んだんだから」
それくらい警戒しておかなければ、組織の監視網にすぐ補足されてしまうのだと、うてなは面倒くさそうに鼻を鳴らした。
現代を生きる上で、監視カメラに映らず移動するのはほぼ不可能だ。
比較的映らない移動ルートを選定する事はできても、ゼロにはできない。
実際、ここに来るまで何度もうてなが運転する車両はカメラに映っているはずだ。
そこには僅かだが、神無城うてなの痕跡、気配が残っている。
「運転中はさ、存在を薄める限界ってのがあるんだよね」
「もしかして、本気でやると車ごと消えちゃうってこと?」
「そう。どうなるかは、予想できるでしょ?」
「まぁ、なんとなくは」
赤信号で止まろうものなら、すぐにでも追突されてしまうのだろう。
事故に遭う確率がどれくらい跳ね上がるかは、考えるまでもない。
「でもま、少しでもそうしておけば、カメラではっきりと捉えることはできないの。膨大な量の映像を人力で調べるなら違和感にも気づくだろうけど、機械任せならまず問題ない。仮に人力でやるにしても、時間がかかりすぎる」
だからあとは龍二さえ補足されなければ、足取りはそうそう掴まれる事はないのだ。
「逃亡生活初日に捕まるとか、間抜けすぎるのはあんたも嫌でしょ?」
「……そうだね」
これが自分の選んだ道なのだから、それくらいの不便は当然だと、龍二は受け入れる。
こんなものは、まだまだ序の口でしかないのだから。
新しい車に乗り込んだうてなは、端末で次の移動ルートを確認する。
この調子なら、あと二回ほど乗り換えたところで、待ち合わせの場所に向かえる。
最終的には車ではなく、歩いて移動する事になるだろうが、その頃には夜になっているはずだ。
暗闇に紛れて生身で移動するのなら、さして問題はない。
問題は、このまま移動を続けられるのか。
そして、逢沢くのりが無事に脱出できているか、だ。
「車、出すよ」
脳裏を掠めた問題は口にせず、うてなはアクセルを踏み込んだ。
駐車場を出てしばらくすると、フロントガラスに水滴がつき始める。
「降ってきたか」
一分と経たず、本格的に雨が降り出した。
ワイパーが雨を拭う様子を眺めながら、黙ったまま車を走らせる。
雨に濡れた道路を走る音が、静寂に染み込んでくるようだった。
窮屈そうに龍二が身動ぎをしているのがわかる。
「そう言えば確認してなかったけど、怪我とかしてないよね?」
「今更訊く?」
「一応よ、一応」
沈黙に耐えかねた、とは口が裂けても言うつもりはなかった。
黙っていればいるほど、どうしても逢沢くのりの事が頭をよぎる。
それはきっと、龍二も同じだろう。
「怪我はないけど……うん」
「なに? 言いたいことあるなら言って」
含みのある気配に、うてなは正面を見たまま目を細めた。
「肉体的にはなんともないけど、精神的にはなんか、トラウマを植え付けられたかなって」
「捕まってる間になんかあったの?」
「なにもなかったとは言わないけど、そうじゃなくてさ」
「なによ?」
「……高所恐怖症になるかと思った」
「…………あぁ」
その事かと理解したうてなは、大袈裟すぎるだろうと鼻で笑う。
「貴重な経験ができて良かったじゃん。そこいらの絶叫マシンやバンジージャンプなんて目じゃない、本物のスリルがあったでしょ」
「そんなの求めてないから」
落ちたらまず助からない高さからの、安全器具もなにもないジャンプ。
唯一頼れるものは、神無城うてなだけだった。
「っていうか、最後のあれ、なんなのさ?」
「最後の? あぁ、ぶん投げたやつ?」
「……正直、あれが一番怖かった」
「ハハっ」
なぜそこで笑うのか、と龍二は運転席の背もたれを半眼で見る。
「楽しくなかった?」
「楽しい要素は一つもなかったよ」
「そう?」
「そうだよ」
龍二を抱きかかえて屋上から飛び降りたうてなは、着地する少し前に、龍二の身体を前方へと放り投げた。
あの高さから飛び降りて着地した経験は、うてなもない。
怪我の心配はしていなかったが、龍二を抱えたまま上手に着地できるかは、判断の難しいところだった。
だからうてなはまず、自分一人で着地する事にしたのだ。
そのためには当然、龍二を一度手放す必要がある。
龍二の身体を前方高く放り投げ、遠ざかる悲鳴を聞きながらうてなは難なく着地した。
衝撃に地面のアスファルトが砕けはしがた、うてなの膝にダメージはなかった。
問題ない事を確認したうてなはすぐに走り出し、落下してくる龍二を軽く跳んで受けとめ、再び着地した。
龍二は自分の身になにが起きたのかを、すぐには理解できなかった。
大きく目を見開き、何度も口を開閉させ、首を傾げていた。
なにか言いたげな様子だったが、言葉が出てこなかったのだろう。
うてなは構わず、そのまま龍二を抱えて最寄りの車両を目指した。
そして今に至るのだが、ようやくその時の恐怖と不満をぶつけられる程度に落ち着いたのだろう。
「怪我してないんでしょ? ならいいじゃん」
「してないけどね? でももっとこう、やり方がさ」
「まさかあんた、ビビッて漏らしたとかじゃ――」
「最悪だよ」
デリカシーの欠片もないうてなの発言に、龍二は顔を顰めた。
かなりギリギリだったが、どうにかそれだけは免れていたのだ。
正直、そうなっていてもおかしくはなかった。
これまでにも恐怖を覚える経験は何度かあったが、あれはまた、ベツモノだ。
命の危険を感じる感じないの問題でもない。
「とにかく、ああいうのは今回限りにして欲しい」
「ん、考えとく」
「なにを考える必要があるのさ……」
半分くらいは面白がっているのではないかと、龍二は疑い始めていた。
それくらいうてなの声は、どこか楽しげに聞こえた。
もちろん、ただ楽しんでいるだけなのではないのも、わかる。
彼女なりの気遣いも、そこには含まれているのだろう。
そう感じられるのは、数ヶ月という時間があったからだ。
「…………大丈夫かな」
環境音に掻き消されてしまいそうな、主語のない呟きだった。
だがうてなの耳は、それを捉えていた。
聞こえなければ良かったのにと、頭のどこかが思う。
「大丈夫でしょ、あいつなら」
しかし聞こえてしまったのなら、答えるしかない。
神無城うてなの性格が、聞き流す事を選ばせなかった。
「今頃、同じように向かってるんじゃない?」
「そう、だよね」
行動を開始してから、すでに二時間が経過している。
何事もなければ、くのりも同じように脱出し、あの廃工場へ向かっているはずだ。
「連絡は、ないんだよね?」
「なんか色々と情報は送られてきたけど、それだけ」
うてながそれに気づいたのは、最初に車を乗り換える時だった。
時間的に見て、本部から脱出する前に送ってきたものだろう。
これから逃亡生活をする際に役立ちそうな情報が、そこには記されていた。
どういうつもりでそれを送ってきたのかは、本人に訊かなければわからない。
「こっちから連絡とかしちゃ、ダメかな?」
「言ってたでしょ。使うのは最低限って」
「無事を確認するくらいなら……ダメか」
うてながどう答えるのかは、龍二もわかっていたのだろう。
駄々をこねるような事はせず、力なくため息を吐いた。
うてなを責めるつもりなどは微塵もない。
ただ自分の無力さを、何度目になるかわからないほど、痛感したため息だった。
自分の不安を打ち消すために連絡をして、万が一にでもそれが傍受されたりしたら、目も当てられない。
今の自分が得られる強さとはなにかを、龍二は考える。
ポケットにある髪留めの感触を確かめながら、目を閉じる。
それはきっと、心の強さだ。
不安に押し潰されない強さ。
そして、彼女を信じる強さ。
「約束、したもんな」
口の中で呟くような、本当に微かな声。
うてなはなにも答えなかった。
聞こえているのかどうかも、わからない。
龍二は静かに息を吸い、吐く。
またね、と唇を動かして微笑んだ、逢沢くのりを想いながら。
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