第5章 第4話 Sasanqua その2

「その髪、どうしたの?」

 眼球を切り裂くような横薙ぎの手刀を右手で受けとめたくのりは、深月に顔を寄せた。

 くのりを射貫く深月の視線に、友好的な気配は微塵もない。あの夜の共闘が幻だったかのように冷え切っていた。

 彼女の無表情を、くのりは憐れむように眺める。

 挨拶もなしに襲い掛かって来た事よりも、深月の姿が哀しい。

「なんか、懐かしいね、その髪型。あの時より短い気もするけど」

 旋回しながら打ち込まれた肘を飛び退ってかわし、くのりは肩を竦める。

「つまんないの。少しくらい、おしゃべりに付き合ってくれてもいいんじゃない?」

「……大人しく投降しなさい」

 構えはそのままに、深月は答えた。

 いつでも戦闘を再開できる状態の深月に対し、くのりはテーブルに腰かけてリラックスしている。

 二人がいるのは、研究員たちが休憩をするために設けられた広いロビーだ。

 戦闘服に身を包んでいる事を除けば、この場に相応しい雰囲気を纏っているのはくのりの方だった。

「あんたとは正直、戦う気になれないんだよね。他のエージェントとチェンジしてくれない? 見逃してくれるならそれに越したことはないけど」

「もう一度言うわ。投降しなさい」

 本気とも冗談とも取れるくのりの言葉に、深月は眉一つ動かさず、繰り返した。

 取り付く島もないその様子に、くのりは目を細める。

 瞳に宿る感情は、より深くなった憐憫だ。

「一度柔らかくなった分、前より硬くなっちゃったみたいね」

 ため息まじりの言葉に、深月は押し黙る。

 くのりがなにを言わんとしているのかを理解しないよう、思考を凍結させた。

 その様子にくのりは鼻を鳴らす。

 今の深月は、龍二の護衛として現れた時と同じか、それ以上にエージェントを体現している。

 命じられるままに、疑問を抱かず行動する。

 エージェントという名の人形だ。

 それを憐れに思うのは、久良屋深月が少なくとも一度は、意思を持って行動した事を知っているからだった。

 一度でも意思を持ったのなら、もう人形には戻れない。

 だが深月は、人形であろうとしている。

 手に入れたはずの自分を捨て、久良屋深月というエージェントであろうと。

 逢沢くのりだからこそ、それを憐れんでしまう。

「久良屋は龍二に協力、しなかったんだ」

「――――」

 世間話のようにこぼれたその言葉に、深月は僅かも揺らがなかった。

 全身が凍り付いているかのように、微動だにしない。

「もしかして、知ってた?」

 見透かしたように目を細めたくのりに答える声は、やはりない。

 その代わり、豪風のような一撃がくのりを襲った。

 ガントレットに覆われた深月の拳が、テーブルを粉砕する。

 ひらりとそれをかわしたくのりは、仕方がないと言いたげに頬を歪めて構える。

 無表情なまま繰り出される深月の連撃を、ガントレットで防ぎつつかわせるものはかわしていく。

 まだ完治していない左腕で防ぐたび激痛に襲われるが、表情には出さず耐えた。

 くのりが左半身に怪我を負っているのは、深月も当然把握している。

 迷う事なくその弱点を攻められるが、くのりに焦りはなかった。

「久良屋は、そっちを選んだのね」

 重く鋭い打撃を捌きつつ、お返しとばかりに拳を打ち込みながら言葉をぶつける。

 返ってくるものは、氷塊の如き打撃ばかりだった。

 戦いの最中、くのりは深月を見据えていた。

 こんな風に戦う相手を見るのは、初めての事だ。

 自分でも不思議なものだと思いながら、奇妙な感覚の中で戦う。

 あの夜から今日まで、深月になにがあったのかをくのりは知らない。

 わかるのは、彼女が選んだという事実だけだ。

 安藤龍二の救出には手を貸さず、こうして今、くのりの道を阻んでいる。

 彼女の様子を見ていれば、それが彼女自身の意思ではない事は明白だった。

 深月はただ、命じられたのだろう。

 龍二たちの追跡ではなく、逢沢くのりを捕縛しろ、と。

 自らの意思を放棄し、組織の指示に従う。

 その選択が正しいかどうかは、くのりにもわからない。

 感じるものは、ただ一つ。

 エージェントという呪縛から逃れられなかった深月を、くのりは哀しげに見つめた。

「今の久良屋を見てると、三年前の自分を思い出すよ」

 龍二と出会い、恋をしているのだと自覚する以前の自分。

 いや、他のエージェントも似たようなものだった。

 自分を自覚できない、意思を持たない双眸。

 任務を遂行する事だけが全てでありながら、達成感すら抱かない。

 役割を果たした、ただそれだけ。

 だが久良屋深月は、他のエージェントとは違っていると、くのりは感じていた。

「普通の生活も悪くないって、思わない?」

「――――っ」

 ほんの僅かな隙間から、抉り込むような囁きだった。

 その言葉は深月の心臓を貫き、感情という血を滲ませる。

 そして見せた刹那の隙を、くのりは見逃さなかった。

 渾身を込めた一撃が深月の腹部に突き刺さり、炸裂した爆薬によってその身体を吹き飛ばす。。

 叩きつけられた衝撃に壁が砕け、深月は膝をついた。

 スーツが衝撃を吸収していなければ、内臓をやられていてもおかしくはない一撃だった。

 とは言え、ダメージがないわけではなかった。膝をついてしまったのが、その証拠だ。

 ようやく一撃を与えられた事に、くのりは笑みを浮かべる。

「思った通り」

 久良屋深月は、かつての自分と似ている。

 が、決定的な違いがある。

 どれだけ閉ざし、塗り固めたとしても消えてはいない。

 色のない双眸の奥底で揺れている感情が、くのりにはわかる。

 彼女だからこそ、わかるのだ。

 それが久良屋深月の迷いである、と。

 本人ですら気づいていない、あるいは気づかないようにしているものだ。

 安藤龍二や神無城うてなと共に過ごした時間。

 二人と経験したなんでもないような日常。

 どこにでもあるような当たり前を、久良屋深月は知ってしまった。

「そんなもの、なければもっと楽だったのにね」

 完全に捨て去るか、あるいは大切だなどと思わなければ楽だっただろうと、くのりは思う。

 深月は結局、中途半端なまま、捨てる事も守る事もできずにいるのだろう。

 そんな状態で人形になど、戻れるはずがない。

「認めたら? あのままずっと普通に――」

「違う!」

 引き裂くような叫びと共に、深月は小型のナイフを引き抜き、投擲した。

 芸術的とも言える無駄のない動作で放たれたそれは、寸分違わずくのりの喉へと吸い込まれていく。

 くのりは咄嗟に半身を引き、それをかわす。喉の数ミリ先を、ナイフが切り裂いていた。

 感情に任せた投擲だったが、殺意は含まれていなかったように思う。

 ただ、もし命中していたら、くのりは生きていられなかっただろう。

「それで、いいの?」

「……私は、エージェントよ」

「久良屋深月でもある。違う?」

「どちらも、同じよ」

「違うでしょ」

「違わない……私は……あなたとは違う!」

「うん。それはそうでしょうね」

 手数で勝る深月に対し、くのりは的確に反撃を繰り出す。

 左足による攻撃はないと思っていた深月は、掬い上げるように顎を掠めていった蹴りにたたらを踏む。

 直後に膝が落ち、よろめいてしまった。

 すかさず打ち込まれたくのりの回し蹴りを受け、テーブルや椅子を弾き飛ばしながらフロアを転がった。

 頬に受けた蹴りで唇の中が切れ、血が滲む。

 すぐ立ち上がろうとするが、膝に力が入らなかった。

 意識が視界と共に揺れ、吐き気を覚える。

 どうして自分が倒れているのかが、わからない。

 事前の情報から、逢沢くのりの身体が限界なのは明白だった。

 あらゆる検査の結果、戦闘能力は万全な状態の三割にも満たないはずだ。

 おまけに左腕と左足に重大な怪我を負っている。

 現状における戦闘能力の差は、圧倒的なはずなのだ。

 久良屋深月が逢沢くのりに後れを取る要素は、ただの一つとしてない。

 その慢心が左足による攻撃を見落としていたというのなら、それは認めよう。

 だが、理解できない。

 どうして自分は逢沢くのりと戦い、倒れているのか。

 今の彼女を打ち倒す事は、そう難しくはない。

 そのはずなのに、なぜ……。

「それじゃ、私は行くから」

「…………待ち、なさい」

 追撃もせずに立ち去ろうとするくのりの背中に、深月は声を掛けた。

 震える手で放り込んだ薬を噛み砕き、加熱する意思を頼りに立ち上がる。

 そのままくのりが走り去っていれば、あるいは逃げられたかもしれない。

 だがくのりは立ち止まり、振り返った。

 飛翔した二本のナイフをガントレットで弾き、猛然と突進してきた深月の蹴りを受け止める。

「しつこいのは、エージェントの性かしらね」

 かつての自分を思い出したくのりは、自嘲の笑みを浮かべて深月の腕を絡めとろうとする。

 が、左腕の痛みに拘束が一瞬緩んでしまった。

 その隙をついて、深月がくのりの顎を打ち上げる。

 辛うじてくのりはかわしたが、すぐさま振り抜かれた肘の一撃はかわしきれなかった。

 こめかみを痛打されたくのりは距離を取り、不敵に鼻を鳴らす。

「顔はやめてくれる?」

 この後デートがあるの、と半ば本気でそう言い放った。

 それを戯言だと断じるように、深月は襲い掛かる。

 演舞の如き攻防を繰り返しながら、深月は他人事のように自分を俯瞰していた。

 くのりが立ち去ろうとしたあの瞬間に感じたものは、恐怖だった。

 それはこれまでに感じたどんなものよりもはっきりと、そして強烈な恐怖。

 自分だけが置いて行かれるという感覚。

 龍二やうてなと一緒に行く事もできず、エージェントとしても居場所を失うような気がしたのだ。

 自分は確かに、そこにいたはずなのに。

 あの作戦基地ですごした時間が、ずっと昔の事のように思える。

 逢沢くのりは、そこへ行こうとしているように思えた。

 自分の代わりに、あの二人の下へ。

 そう思った瞬間、感情が沸騰した。

 逢沢くのりを許せないと、強く感じた。

 だからまだ、戦っているのだ。

「救われないね、本当に」

 久良屋深月は迷子になっているのだと、くのりは気づいていた。

 なにも難しい事などない。

 神無城うてなのようにすれば良かったのだ。

 そうすれば、こんな憐れな苦しみ方をしなくて済んだだろう。

 深月のそれは、自分で自分を殺すような生き方だ。

 自分などというものを持たなければ、それも良かったのだろう。

 だがもう遅い。

 久良屋深月は、もう戻れない。

 髪を切り、なかった事にしようとしても。

「でもね、あんたに同情なんてしてやれない」

 込み上げてくる血を飲み下しながら、くのりは拳を握り締める。

 深月の迷いを理解はするが、だからと言って譲ってやるつもりはない。

 こんなところで負けるわけにも、捕まるわけにもいかないのだ。

「私には、理由があるの」

 そのためなら誰であろうと叩き伏せると、くのりは床を蹴った。

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