第5章 第3話 だから僕らは踏み出す その7
包囲網が完成するよりも早く、くのりは警備を突破して二人とは別の建物へと潜入していた。
そのまま敷地の外まで逃亡する事も不可能ではなかったが、それでは二人の援護ができない。
そもそも、くのりが二人に先んじてあの建物を抜け出せたのは、向こうに警備の目が集中していたからだ。
問題なく二人も脱出できていれば良かったが、生憎とそう上手くは行かなかった。
危険を冒してでも内部に留まり、戦力を分散させるための陽動をしなければならない。
神無城うてながついていれば、こちらが考え付かないような方法で脱出するだろうが、やはり陽動はあった方がいいだろう。
そのためにくのりがやって来たのは、エージェント用の装備が保管されている建物だった。
ここにあるのは、特定のエージェント用に調整されたものではなく、誰にでも扱えるように作られたものばかりだ。
実戦配備されているものに性能は劣るが、今の状況なら装備があるだけでありがたい。
戦闘用のスーツに手早く着替え、使えそうな武器を見繕う。
スーツとの同調率は低いが、防弾防刃性能に限って言えば十分と言える。
今の状態でどこまで動けるかはわからないが、気休めにはなるとくのりは自分を納得させた。
一通り準備を終えたくのりは、うてなから受け取った端末に情報を入力していく。
自分が逃亡中に用意しておいたいくつかの潜伏先と、利用可能な施設の場所。
他にも移動に使える手段や抜け道、役立ちそうな情報なども、まとめて送信した。
落ち合う予定の廃工場で直接渡しても良かったが、この先はなにが起こるかわからない。
龍二ともう一度会うという意思は変わらないし、こんな場所で死ぬつもりもない。
もう一つとして、彼との約束を破ったりはしたくない。
夏休みに行こうと言っていた花火大会や夏祭り。
最後の文化祭を楽しもうという言葉。
他にも、数え出したらキリがない。
だからなにがあろうと、会いに行く。
とは言え、うてなに送った情報は出し惜しむようなものでもない。
「こういう癖は、抜けないものね」
端末をポーチにしまい、保管室を後にする。
打てる手は打っておくというのは、エージェントとして刻まれた習性のようなものだ。
保険をかけるようなやり方は、自分の弱気を目の当たりにするようで癪に障るが、仕方がないとくのりは静かに息を吐いた。
そうだ。死ぬつもりはさらさらないが、どうなるかはわからない。
その事実から目を逸らす事に、意味はないのだ。
「……それにしても、まだ少し信じられないな」
たとえ施設から脱出できたとしても、組織の追跡からどれだけ逃げ続けられるというのか。
冷静に考えるまでもなく、無茶がすぎる。
エージェントとして判断するのなら、行動に移す前に却下していただろう。
どれだけ無茶なのかは、きっと龍二も、神無城うてなもわかっている。
だが、それでもやると決めたのだ。
あの安藤龍二が、自分のために。
どうしてそれを喜ばずにいられると言うのか。
こうしている今も、頬が緩んでしまうほどに嬉しい。
「時間は、どれくらいあるだろ……」
装備と一緒に入手した薬を飲み下し、くのりは目を閉じる。
自分の身体がどんな状態かは、よくわかっている。
今飲んだ薬も、気休めにしかならない。
「……知ってる、だろうなぁ」
くのりに残された時間があとどれほどなのかを、きっと龍二も知っている。
正確にはわからずとも、断片的に見える情報からそう長くはないと、悟っているはずだ。
それでも、生きようと言ってくれた。
一緒に行こうと、最後まで共に生きようと。
それ以上に望む事は……ないとは言えないが、かつての自分を思えば、十分すぎる。
全身を巡る血が沸騰するような多幸感。
プロポーズのようだと茶化してしまったが、そうでもしないと平静を保てなかった。
彼にはきっと、わからないだろう。
あの言葉がどれほど、逢沢くのりという少女を満たすものだったのか。
それに加えて、あのプレゼント。
こんな状況じゃなければ、なにをしていたかわからない。
ほんの僅かな時間、手にしたあの髪留め。
手放したくなどなかった。
すぐにでも髪につけ、似合うかどうかを訊いてみたかった。
どれほどそんな瞬間を望んでいただろうか。
「まだ、受け取れないよ」
あの場でそうしてしまったら、自分はもうダメになるだろうと直感した。
満ち足りて、動けなくなる。
それは本当に、幸せな気持ちになれるだろう。
だが、同時に失ってしまう。
生きるという執着を、手放してしまいそうになる。
くのりの手は小さく、そのどちらかしか掴んでいられない。
だから選んだ。
今はまだ受け取れないと、生きるために。
約束が、必要だったのだ。
自分だけを求めてくれる、安藤龍二と共に生きるためには。
「……龍二」
何度もそうしてきたように、愛しい名前を呟く。
自分の身体も状況も、冷静に見れば絶望的だろう。
だがそんなものは関係なくなるほどに、高揚している。
全身全霊で、生きるために血液が巡っている。
まだ生きていると、これ以上ないほどにくのりは実感していた。
薬の効きが悪いのか、動くだけで引き裂くような痛みに襲われる。
それを無視して、くのりは廊下を走った。
角から出てきた警備員を一撃で昏倒させ、近くの部屋に向けて発砲する。
倒れた警備員に対して実弾を撃ち込む気分には、なれなかった。
特になにかを狙ったわけではないが、今の銃声でこちらに気づくだろう。
じき、本格的な戦闘が始まる。
組織は――いや、博士はおそらく、自分に対してもうさほど興味を持っていない。
最後に話した時の口振りから、なんとなく察していた。
ならばあとは、どう処分するか、だけだ。
この機会に済ませようと思っても、おかしくはない。
「思い通りになってやる気は、ないけどね」
挑むように笑みを浮かべ、くのりは銃口を向けてくる警備員から身を隠す。
銃声が響き、弾丸が廊下を貫いていく。
くのりが予想した通り、相手はその気で来ている。
もう一度薬を口に放り込み、噛み砕く。
二人が脱出する時間と、ここから離れる時間。
それをここで、稼ぐ。
そして自分も、生きて脱出する。
龍二との約束を果たすために。
彼を、泣かせたりしないために。
「キスの続きも、しなきゃだし」
くのりは口元を綻ばせてそう呟き、廊下に響く銃声が止むのを待つ。
今廊下にいるのは、おそらく三人。
いずれも自動小銃を装備しているはずだ。
施設の中で当たり前のように発砲しているのなら、ここにはもう非戦闘員はいないのだろう。
自分の居場所は、ちゃんと追跡していてくれたようだ。
そうでなくては、陽動の意味がない。
調達しておいた装備の一つ――防弾に特化したジャケットを盾のように構え、銃声が止んだ瞬間にくのりは廊下に飛び出した。
そのまま一気に距離を詰める。
リロードを終えた警備員が発砲を再開するが、間に合ったのは一人だけだ。
くのりはすでに、間合いに入っている。
装填が間に合った一人に向けてジャケットを放り投げ、視界を奪う。くのり自身は床を這うように走り、警備員の足を払った。
宙に浮いた男の脇腹をガントレットで殴りつけ、壁まで吹き飛ばす。
残された二人は、咄嗟に武器を切り替えるという判断ができなかった。
ようやく装填を終えた銃を向けようとするが、遅すぎる。
旋回しながら放たれたくのりの蹴りが、銃を持つ腕をへし折った。
トリガーに掛かっていた指が引き金を引き、横にいたもう一人の警備員に銃弾を浴びせる。
太ももを撃たれただけで済んだのは、不幸中の幸いと言えるだろう。
くのりは眉一つ動かさず、二人の警備員を打撃で昏倒させた。
エージェントと違い、戦闘用のスーツを着用していないおかげで、そう苦労する事はなかった。
培ってきたエージェントとしての戦闘技術を、存分に振るえる相手だ。
念のため自動小銃を蹴り飛ばし、廊下を滑らせておく。
すぐに目覚めはしないだろうが、これも癖のようなものだった。
少しだけ乱れた呼吸を整え、くのりはまたすぐに走り出した。
途中で何度も、何人もの警備員を打ち倒す。
どうやら、各所で煙が上がっているらしい。
神無城うてなが用意していたものなのか、それもいい陽動になっていた。
「いや、そんな用意はしてないって言ってたっけ」
なら、別の誰かによるものかもしれないが、それは問題ではなかった。
煙に紛れる事で、敵の戦力を削ぎやすい。
この調子であれば、想定していたよりも楽に脱出できるかもしれない。
くのりにとっては、ただ好都合な事実。それがわかればいい。
そうくのりが思った瞬間だった。
「ま、そう簡単にはいかないか」
開けたフロアに出たくのりは、速度を緩めて歩く。
中央に佇むその人影は、くのりがやって来るのを待っていたのだろう。
くのりの登場にも微動だにせず、彼女はそこにいた。
「久しぶり……って感じじゃないか」
その少女を一瞬、別人だとくのりは錯覚してしまった。
最後に会ってからまだ半月と経っていないにも関わらず、彼女が纏う雰囲気はまるで違っている。
違いは、それだけではなかった。
「髪、切ったんだ」
初めて顔を合わせた時を髣髴とさせる……いや、あの時よりも少し短い。
くのりの言葉に、少女はなんら反応を見せない。
戦闘用のスーツに身を包んだ少女――久良屋深月はただ黙然と、色を失った双眸で、逢沢くのりを見据えていた。
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