第5章 第2話 坂を転がるような生き方で その3
「……気持ち悪い」
途切れていた意識を取り戻したくのりは、天井を見上げたまま悪態を吐く。
気分が悪いのは、機械式の首輪から注入された薬剤のせいだ。
この首輪がある限り、くのりに自由はない。スイッチ一つで即座に昏倒させられてしまう。
上体を起こそうとして、左右の手足をベッドに拘束されている事に気づき、頬を歪める。
「ただの面会に、ちょっと大げさすぎない?」
「私もそう思うが、他の人間が許してくれなくてな」
くのりの悪態に答えたのは、ベッドから少し離れた椅子に腰かけている人物――博士だった。
お決まりの白衣を見に纏い、タブレットを片手にくのりを観察している。
博士がタブレットを操作すると同時に、くのりを拘束しているベッドが移動し、その角度を変える。ベッドはそのまま、ほぼ垂直になる。
くのりの姿は、まるで壁に貼り付けにされているかのようだった。
「君と二人で話すなら、これが最低条件だとうるさいんだ。過保護な部下を持つと余計な苦労をさせられる」
博士の軽口をくのりは無視し、忌々しげに凝視する。
途切れ途切れの意識では、何日経過したのかもわからない。
そのあたりの情報や痕跡を残していないのは、さすがと言えた。
「怪我の治りが思ったよりも早い。まさか、もう手足を動かせるようになっているとはな。君の回復力はまだ衰えていないようだ」
だからこそ、ここまで厳重に拘束する必要があるというのだろう。
博士の言う通り、拘束具を取り付けた程度であったのなら、この場で飛び掛かるくらいはできた。
すぐに首輪から薬剤が注入され、昏倒するだけだとわかっていても、くのりは実行しただろう。
ほんの僅かでも、博士を脅かせるのなら、迷いなどない。
「その回復力もそうだが、戦闘力も素晴らしいの一言に尽きる」
タブレットに表示したデータを眺めながら、博士は感嘆の吐息を漏らす。
あの夜の戦闘は、急遽設置したカメラやドローンを駆使して撮影してあった。
全てを撮影できていたわけではないが、収められた映像だけで十分なほど、くのりの戦闘力は圧倒的だった。
「よくもこんな状態で、あの数を殺しきったものだ」
くのりはあの戦闘で負った怪我もあるが、それ以前の問題として、体内に爆弾を抱えていたようなものだ。
組織の補助もなく、数ヶ月の逃亡生活を続けた代償。
日常生活にも支障をきたすレベルのダメージを負った状態で、くのりはあの夜を戦い抜いた。
改めてその事実をデータと共に理解した博士は、満足すると共に惜しいとすら思う。
「君は本当に最高傑作だよ、逢沢くのり」
心からの称賛に、くのりは不愉快だと鼻を鳴らす。
自分の存在が博士を喜ばせているかと思うだけで、気分を害するのだ。
いっそ自害でもしてしまえば、と考えなかったわけではない。
だがそれは、できないのだ。
龍二のためにも、それをしてはならない。
彼が捕らわれているから、だけではない。
彼を想うのなら、自ら死を選んではならないのだ。
「……最後のあいつは、なに?」
生きる意志を奥底に隠し、くのりは博士に問いかける。
場を繋ぐつもりはないが、あの存在に興味はあった。
「面白いサンプルが手に入ったんだ。丁度試してみたいこともあったのでな、手慰みに作ってみたのさ。面白い出し物だっただろう?」
「どこが」
あれを面白いなどと言えるのは、お前くらいのものだとくのりは吐き捨てる。
実際にどんなサンプルから作り出された存在なのかはわからないが、悪趣味なのは間違いない。
生理的に感じる嫌悪に近かった。
あれは、生命の冒涜そのもの。
博士や組織に倫理などといったものは期待していないし、もとよりありはしないが、それを差し引いてもあれは不快な存在だった。
「調整不足ではあったが、おかげでいいデータが取れた。君の功績だよ」
「使い捨ての玩具にしては、上出来だったかもね」
「それでも君には敵わなかった。次があれば、また結果は違ってくるかもしれないがな」
あれで終わりではないとでも言いたげな博士に、くのりは顔を顰める。
もう一度あれと戦って勝てるかは、正直わからない。
あの時、身体はすでに限界を超えていた。
データを見た博士も、それはわかっている。
それでもくのりが戦えた原因を考え、一つの答えに辿り着いた。
「安藤龍二。それが君の原動力というわけだ」
その名前を口にした瞬間、二人の空気が変化する。
博士は狂気を孕んだ双眸を輝かせ、くのりは不敵に、誇るように笑う。
「愛のなせる業よ」
自虐でも冗談でもなく、くのりは本気でそう言い放った。
限界を超えて戦えたのは、安藤龍二への愛があったからだと。
まだ死ねないという意思、彼ともう一度キスをしたいという希望。
それがくのりを生かしたのだ。
「愛、か。私には理解できないものだな」
戯言と嘲り笑う事なく、博士は肩を竦めて苦笑する。
純粋に理解し得ないと、自ら認めているのだ。
「いい歳してそれがわからないなら、もっと勉強することあったんじゃない?」
「生憎と、興味がないことは勉強しない性質でね」
「そういう顔してる。でも、一回くらいありそうなもんだけどね」
「性欲を満たすための行為なら、経験はあるが?」
「…………嘘でしょ?」
「性行為がもたらすものがどんなものかは、興味を抱いた時期があってね。実験を兼ねて、何度か試したことはある。もちろん、実在する人間を相手に、だ」
恥ずかしげもなく語る博士に、くのりは若干鼻白む。
まさか、この女が性行為を経験しているとは思ってもみなかった。
実験の一環だと言われれば、なるほど、実にやりそうなタイプだと納得はできるが。
「そんなに意外か?」
「当然でしょ」
ハッキリと断言するくのりにも、博士はそうかと頷くだけだ。不快に感じている様子は、微塵もない。
「そういう君は、経験がないようだな。安藤龍二と交わりたいとは思わなかったのか?」
「そういうのは、付き合ってからするものでしょ。私たち、その前に邪魔されてるんで」
「なら機会を与えてやろう。特別に彼と会えるように計らってもいい。もちろん、観察はさせて貰うが」
「絶対にイヤ」
「そうか。残念だな」
一切の嫌味も含みもなく、博士は肩を竦める。
突拍子もないバカげた事を言い出すのは知っていても、いざ言われるとなると多少は面喰ってしまう。
一瞬でも心拍数が上がってしまった事を、くのりは恥じた。
「男に抱かれたこともない君と、抱かれたことのある私。どちらがより愛を理解していると思う?」
「あんたがどんな気持ちだったかなんて知らないから、どっちが正解かなんて知らない。私にわかるのは、私の気持ちだけ。私は龍二が好き。愛してる」
「不確かな感情を、よくぞそこまで、愛しているなどと言い切れるものだな」
これまでで一番強く断言するくのりに、博士は感心したように笑みを浮かべる。
くのりも自信に満ち溢れた顔で、笑う。
「私にとって、これ以上確かなことなんてない」
だから、愛していると言い切れるのだと。
清々しいまでの断言に、博士の双眸に宿る狂気が蠢く。
「君が感じているそれが愛だと、どうやって証明する?」
「それ、必要? 証明するとか、そんなのどうでもいい。他人に……ましてやあんたに認めて欲しいなんて思ってない」
くのりは下らないと笑い飛ばすように鼻を鳴らす。
「私が彼を好きだと感じて、愛していると胸が高鳴って、それを彼が知ってくれて、キスをしてくれた。それでいい。それだけで十分なの」
「憧れによる思い込みや、暗示の類だとは思わなかったのか? 君も知っているだろう? 私たちならば、それすら可能だと」
それが揺さぶりのためのはったりではないと、くのりは知っている。
組織が研究している重要な項目の一つに、記憶に関するものが含まれている。
博士の言う通り、記憶の改ざんや擦り込み、暗示をかける事など造作もない事だろう。
「それこそ、どうでもいい」
全てを承知した上で、それでもくのりは笑顔を崩さない。
「私が信じるものは、ここにある揺るぎない鼓動だけ」
ベッドに張り付けられたまま、存在を示すように顔を上げ、胸を張る。
「たとえ思い込みや幻想だと言われても構わない。今ここで感じているものを、私は信じる」
他の誰でもなく、私が私を信じている。
笑いたければ笑えばいい。
滑稽だと嘲弄したければ、勝手にしろ。
私はもう、揺らがない。
この感情を恋と呼べないのなら、間違っているのは世界の方だ。
いや、正しいとか間違いとかすら、どうでもいい。
「私はこれしか知らないし、信じない。私が恋だと感じて、彼も恋だと想って応えてくれた。それ以外のことなんて……他人の意見なんて、ホントどうでもいい」
黙したまま、目を爛々と輝かせて聞き入っている博士を、くのりは真っ直ぐに見据える。
「あんたがなにを言おうが、彼の笑顔一つに敵わないのよ」
真実すら価値はないと、くのりは会心の笑みを浮かべた。
半ば独白とも言えるくのりの言葉に、博士の頬は紅潮していた。
熱を宿した吐息を漏らし、高揚を抑えるように低く笑う。
そこにあるのは、ただただ満たされたような独りよがりの歓喜だ。
言いたいことを言ってやったと、くのりも満足げな表情だった。
格好が格好でなければ、仲良く会話に花を咲かせていたようにすら見える。
「いや、実に面白い話を聞かせて貰った。やはり生かしておいて正解だったよ」
ひとしきり笑い終えた博士は、前髪を掻き上げてくのりに微笑みかける。
「その報酬……いや、お礼と言うべきか。一つだけ、質問に答えてやろう。なんでもいいぞ? 今の私は、非常に気分がいい」
深く椅子に腰かけて見据えてくる博士を、くのりは訝しがる。が、すぐに考えるのはやめた。
博士という人間を理解しようとするのは、無駄なことだ。
なんでも答えてくれると言うのなら、訊きたい事を訊けばいい。
そしてくのりが訊きたい事は、決まっている。
「……龍二の寿命を延ばす方法は、あるの?」
「ここでそれか。本当に面白いな、君もあの少年も」
数日前の夜を思い出し、博士は口元を歪める。
くのりは知らないのだ。
同じように質問を許され、安藤龍二がなにを知りたがったのかを。
「わけわかんない」
くのりは苛立ちを含んだ半眼で、博士を睨み付ける。
博士は気にも留めず、タブレットを手にして立ち上がり、拘束されているくのりに近づく。
「いやなに、先日、同じような話をする機会があってな。彼も同じように、君のことばかり気にしていたのでね」
面白いだろう、と博士はくのりの顔を覗き込む。
「……信じられない。あんたの言葉で、嬉しくなる日がくるなんて」
くのりはそう言って、隠し切れない嬉しさに頬を緩ませた。自制しようとするが、これは無理だと諦める。
それが聞けただけでも、この会話に意味があったと思えてしまうのだ。
博士も同様に、エージェントとしてあり得ない姿と感情を見せるくのりに興奮していた。
「……で? 実際どうなの? 薬とか手術で、なんとかなるの?」
「方法があるとしたら、君はどうする?」
質問に質問を返す卑怯さにうんざりするが、くのりの答えは決まっていた。
「それは龍二が決めること」
本当にそんな方法があるのかはわからない。
だがもしあるのなら、選ぶのは彼だ。
「楽しい時間だったよ、逢沢くのり」
話は済んだと監視カメラにサインを送り、博士はドアへと向かう。
くのりはその背中に目もくれず、首輪が起動して意識が途切れるまで、どこかに捕らわれている龍二を想った。
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