第5章 第2話 坂を転がるような生き方で その2
本部を訪れていた深月は、曲がり角から出てきた人物に気づいて立ち止まった。
相手も深月に気づいて立ち止まる。
「撤収は終わったのか?」
「はい。今日はその報告に」
「そうか」
さして興味もなさそうに、博士は頷く。
深月が本部を訪れたのは、作戦基地の撤収が終えた報告をするためだ。
これで本当に、安藤龍二の護衛任務は終了した事になる。
「報告書は提出済みですが、口頭でも必要でしょうか?」
「この後の予定は?」
「いくつか事務作業はありますが……」
「なら少し、話をしよう。報告がてらに付き合え」
表情からは読み取れないが、なんだか機嫌が良さそうに見える。
いつもより少しだけ、声が弾んでいるような気がした。
返事も聞かずに歩き出す博士の背中を見ながら、深月は内心訝しんでいた。
博士の部屋に連れて来られた深月は、中央のテーブルを囲むソファに座り、出されたコーヒーに口をつける。
特に考える事もなく、少量のガムシロップとミルクを加えていた。
数ヶ月で味覚が変わったとは思わないが、そういう習慣が身についてしまったのだろうと、深くは考えないようにした。
そんな深月の様子は気にも留めず、博士は対面に座って報告書に目を通していた。
わざわざ印刷したのは、博士の趣味だ。
博士が報告書を読み終えるまで、深月は黙って待つ。
それはいつもの事なので、特に手持ち無沙汰だと感じる事もない。
時間にしておよそ五分。
ざっと目を通した博士は、報告書をテーブルに置き、まだ温かいコーヒーを口に含む。
「まずは、長い間ご苦労だった、と言っておこう」
労うような言葉にどう答えればいいかわからず、深月は沈黙を返す。
今回の報告をするにあたって、一つだけ気がかりとも言えるものがあった。
逢沢くのりを捕えるという、博士から直々に受けた任務。
深月は結局、なに一つとして必要な手段を取らなかった。
重要度の説明を受けていたにも関わらず、だ。
普通に考えれば、なにかしらの叱責があってもおかしくない。
にも関わらず、博士は今日に至るまで、なにも言ってはこなかった。
「気がかりある、という顔だな」
こういう目敏さが、博士を苦手とする人が多い理由だ。
エージェントとして感情を表に出さない訓練をしていても、博士には見抜かれる事が多い。
博士にしかわからない、ごく僅かななにかがあるのかもしれない。
「……逢沢くのりの捕縛について」
隠しても無駄だと知っている深月は、素直にそう告げる。
「あぁ、なにも行動しなかったことについてか」
「はい。それどころか、一時的とは言え、協力関係を結びました。本部には報告もせず……」
「それが必要だと判断したから、だろう?」
「そうですが……」
「なら構わないだろう。結果的に、君はどちらの任務も達成したのだから」
安藤龍二の救出と、逢沢くのりを生きたまま捕える事。
確かに、深月たちの行動によってそれは達成された。
だからそれで問題ないと言ってしまうのは、組織としてどうかと思ってしまう。
博士が構わないというのなら、それが全てだとわかっていても。
黙ったまま視線を少し下に向けて考えている深月を、博士はコーヒーを味わいながら楽しげに眺めていた。
深月に言った通り、博士としてはなにも問題はない。
咎めるつもりも、叱責するつもりもない。
博士は捕らえろと命じ、深月はなにもしなかった。
それが深月の出した答えなのだろうと、納得すらしている。
逢沢くのりを生きたまま捕える。博士にとって重要なのはその一点だ。結果的にそうなったのだから、問題などない。
そしてもう一つ、あの命令で博士が関心を抱いていたのは、深月がどうするかだ。
結果ではく、過程にこそ意味がある。
深月には到底理解できない思考だ。
「ところで、神無城うてなはどうしている? 報告に来るのなら、彼女も同伴するものだろう?」
「有休をとると言って、音信不通です」
「有休ときたか」
「すみません」
「君が謝る必要はないさ。それに彼女は組織の一員ではない。フリーランスのようなものだからな」
だからこそ、有休などというものはないのだが、と博士は笑う。
ただそれだけなら、深月も笑っただろう。博士とは違い、呆れを多分に含んだものにはなるだろうが。
「神無城うてなが自由に行動するのは、まぁ仕方ない。連絡くらいは取れるようにしておいて欲しいものだがな」
博士は笑って言うが、対する深月は黙り込んでしまう。
うてなが音信不通である理由に、心当たりがあるからだ。
「また浮かない顔をしているな。話してみろ」
「……彼女とは少し、意見の対立があって」
「なんだ、喧嘩でもしたのか?」
「……そうと言えるかも、しれません」
冗談半分で言った博士だったが、深月の沈んだ声に目を輝かせる。
まさか、本当にそうだとは思ってもみなかったのだ。
二人が喧嘩をしたという事も、久良屋深月がそれを気にしている事も、興味深い。
「理由は?」
「仕事のやり方について、彼女には納得できない部分があったようで」
「君が安藤龍二を撃ったことか」
「……はい」
目を伏せたまま肯定する深月に、博士はなるほどと頷く。
確かに神無城うてなの性格を考えれば、深月の行動に異を唱えるだろう。
特に驚くような事ではない。
博士の関心は、久良屋深月がその事で負い目を感じているという点だった。
彼女が真にエージェントであるのなら、そんな必要はない。
エージェントが命じられた事を実行したにすぎないのだから。
だが、それが深月の精神になにかしらの影響を与えている。
博士が心を躍らせるのは、ある意味当然と言えた。
「関係を修復するべきでしょうか?」
「任務が継続中であればその必要もあるだろうが、すでに終了している。君たちがまた組む可能性も、今のところない」
「では、このままでも構わないと?」
「私に決めて欲しいのか?」
試すような博士の言葉に、深月は声を詰まらせた。
知らず知らずのうちに、この程度の判断を博士に委ねようとしていたのかと、自身に驚く。
思っている以上に、うてなとの関係がこじれている事に動揺しているのだろうか、と焦りにも似たものを覚える。
黙って考え込む深月に構わず、博士は空になったカップを手に立ち上がる。
そして新たにコーヒーを淹れ、戻る。
その間、深月はずっと考えていた。
戻って来た博士がソファに座った事に気づき、顔を上げる。
「結論はでたか?」
「……話し合う機会は、設けようと思います」
深月にとって、今はそう言うのが精一杯だった。
もう一度、今度は落ち着いて話そうと思う。
そうすれば……なにが、どうなるというのだろうか、と心のどこかで思いながらも。
「問題は解決……とはいかないようだな。まだ他にも?」
博士の言葉に、ずっと気になっている事を訊いてしまおうと、深月は決心する。
うてなとの事とは別に、確かめたい事は他にもある。
「彼女……逢沢くのりは、どうなるのですか?」
「もう少し具体的に」
コーヒーの匂いを楽しみながら、博士は深月を流し見る。わかっていて、あえて言わせようとしているのだと、深月にもわかる。
「……博士はあの夜、彼女に先がないと。それに、彼では逢沢くのりを生かし続けられないとも……」
「言葉通りの意味だ。回収して検査をしてみたが、実に酷い状態だった。よくぞここまで耐えたものだと感心したよ」
逢沢くのりはもう長くは生きられないと、博士は笑みを浮かべて断言する。
死を悼むような感情は欠片もなく、検査で得られた情報に満足すらしていた。
「あの場で起こった戦闘が原因なのですか?」
「症状の進行を早める一因にはなっただろうが、誤差の範囲だろうな。それでもまぁ、大人しく戻ってきていれば、春は越えられただろうがね」
世間話をするように語る博士に、深月は吐き気を覚える。
今に始まった事でもないし、博士はそういう人間だと理解していたはずだった。
だが、かつてないほど強い吐き気に、深月は一度目を閉じる。
心を落ち着かせようと、静かに息を吸って吐く。
「逢沢くのりは以前、一年も生きられないと言っていました」
それは龍二を巡る最初の事件の時だ。
うてなとくのりが戦っている最中、彼女は確かにそう言った。直接対峙していたわけではないが、その一部始終は深月も見聞きしていた。
あの言葉の意味が、ようやく見えてきた気がする。
夏頃から一年未満。
博士が言った、春を越えられただろうという言葉。
「彼女はそこまでしか生きられないと、決まっていたのですか?」
「そうだ。逢沢くのりに与えられた時間は、およそ十八年と決まっている」
エージェントに対し、本来なら隠しておくべき情報を、博士はいとも簡単に認めた。
知る必要はないと、どこかで言われると思っていた深月は、逆に戸惑いすら覚える。
しかし、そこまで訊いてしまったら止まれない。
喉の奥を締め付けるような吐き気に耐えつつ、質問を続ける。
「それ、は……エージェントである私たちも、ですか?」
自分たちにも定められた寿命があるのか、と。
「その心配は不要だ」
死の宣告は、なされなかった。
ある意味覚悟を持ってした質問だったが、拍子抜けするほどあっさりと博士は否定する。
「君たち……少なくとも、君と逢沢くのりは生い立ちが異なる。君は逢沢くのりのように短命ではないよ」
事故や病気、大怪我をしなければね、と博士は冷ややかに笑う。
想定していた最悪の答えではなかったが、だからと言って心が安らぐような事は微塵もない。
依然として、深月は吐き気に襲われたままだ。
そんな深月の様子に気づいていないのか、博士は声に熱を宿らせて語る。
「逢沢くのりは、それまでとは別のコンセプト、手法を用いて育成したエージェントなのさ。肉体的な強度も含めて、従来のエージェントよりも優れた資質を与えられている。君も彼女と戦った経験がある。実力差は感じただろう?」
口を開けば耐えられなくなりそうで、深月は小さく頷いて答える。
博士の言う通り、実際にくのりと戦ったからよくわかる。彼女はあらゆる面で、深月の上を行くエージェントだった。
殺人を実行できるか否かの差、それだけではないと感じるほどに。
「彼女はいわば、次世代の試作品でね。先天的にも、後天的にも手を加えた個体だ。今回得られたデータは非常に有用なものだよ。これでまた一つ、先に進める」
これからの実験に思いを馳せる博士を、深月は揺れる双眸で見つめる。
「彼女が試作品なら、私たちは……私は、なんなのですか?」
「――なにか、思い出したか?」
鋭く突き刺すような博士の言葉に、深月は息を詰まらせる。
直前まで熱を持っていた博士の声が、冷え切った刃のように深月の胸を貫いた。
「…………思い、出す?」
それは、酷く不安になる言葉だった。
博士は言った。
なにかを思い出したのか、と。
「……私は」
なにかを、忘れているのだろうか?
あまりにも不自然な訊き方だ。
博士のそれは、深月がなにかを忘れていると断言するも同然だった。
が、深月はなにも思い当たらない。
いや、あるとすればそれは……。
混乱する思考が、久良屋深月という輪郭をぼやけさせる。
「私は……人間、ですか?」
そして口をついて出た言葉に、深月自身が困惑する。
当たり前すぎて、なにをどう確かめたいのかすらわからない質問。
博士はそんな問いかけに、ただ黙って笑みを浮かべる。
答えは深月の内側にあるとでも言いたげに、安藤龍二や逢沢くのりに向ける目で。
自分がただの観察対象であると自覚させられるような、不安に陥る双眸だ。
急激に喉の渇きを覚え、痛みに掻き毟ってしまいたくなる。
「安心しろ。君はれっきとした人間だよ、久良屋深月」
そんな博士の言葉ですら、救いのように思えてしまう。深月が縋れるものは、それしかない。
「とは言え、当然ただの人間というわけでもないがね」
「それは、どういう……」
雲間に見えた光が、一瞬で遮られるような感覚に、深月の声が掠れる。
「君は、組織が今の形になる前に生まれた人間だ。もちろん、逢沢くのりもそうだ」
答えという救いを求める深月を無視し、博士は昔を懐かしむようにソファへ身を預ける。
「神無城うてなが現れて十年。その前と後では、なにもかもが違っている」
微かに頬を緩め、一度は無視した深月へ細めた視線を向ける。その瞳に宿っているのは、奇妙な温かさだ。
「君が生まれた時、私はまだ十代だった。その頃からある研究に携わっていたんだよ、私はね」
深月を見る博士の目が、また色を変える。より熱を宿し、当時の感情を反芻するかのように。
「君は、母親の胎内にいる間に調整を受けている世代だ。優れた資質を持つように、とね」
博士の唇から紡がれる言葉は、深月の思考を滑らせる。自分の生い立ちを聞かされているのだという事実を、上手く認識できない。
あるのはただ、強烈な不快感。
気が付けば深月は立ち上がり、部屋を出て行こうとしていた。
「久良屋深月」
その背中に投げかけられた声に、深月は反射的に振り返る。
そして、座ったまま放り投げられた小さな物体を両手で受け止めた。
「今回の任務における特別報酬、とでも思えばいい」
深月の手にあるのは、組織内部でしか使われていない小型の記録媒体だった。
顔を上げた深月を、博士の楽しげな笑みが出迎える。
「君に関するいくつかのデータと、あの夜、安藤龍二が捕らわれている間に見せられた記録映像が入っている。君の認証キーで閲覧できるようにしておいた。興味があるなら、見ておくといい」
龍二が見せられた映像という言葉が、深月の意識を刺激した。
龍二と奏を救出した際の、異様な光景と怯え方。
その原因となるなにかが、手のひらに収まっていると博士は言った。
それがなんであるかを知りたいと、深月は思う。
「は、博士……私は」
突然立ち上がって退出した事を詫びようと口を開くが、博士は構わないと手を振る。
「また、話をしよう。それを見たあとなら、きっと話も弾む」
「……なにが、あるんですか?」
「彼が何者なのか……そして君が何者なのか。そこに答えがある」
博士の言葉は理解できる。
どれほど重要なデータが入っているのかも、わかる。
だが、なぜそれを自分に今与えるのかが、わからない。
動けずにいる深月に対し、博士はもう視線を向けてはいなかった。
これ以上話す事はないと、表情の見えない横顔が語っている。
「…………失礼、します」
深月は小さくそう言って、部屋を出て行った。
ドアは微かな音を立てて閉じ、静寂が部屋に訪れる。
満足げにコーヒーを口にする博士のポケットで、携帯が鳴動した。
「おっと、そうだったな。わかっている、すぐ行く」
部下から準備ができたという連絡を受けた博士は、高揚した気分を落ち着かせるように息を吐き、邪悪とも思える笑みを浮かべて、ソファから立ち上がった。
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