第4章 第4話 to Die for その4
博士の視線は決して鋭くもなく、敵意や悪意に満ちていたわけでもない。
なのに龍二は、博士の凝視に喉の渇きを覚える。
無意識とも言える領域で、博士という人物が異質であると感じ取っていた。
「くのりを、どうするつもりですか?」
気を抜けば怯んでしまいそうな膝に力を込め、龍二は博士を真っ直ぐに見る。
「龍二、今は――」
間に入ろうと踏み出した深月の肩を博士が掴む。立ち止まった深月は博士を振り返り、なにかを言おうと口を開いた。
「私が話す」
「…………はい」
静かな口調ながらも、有無を言わせぬ力のある言葉に、深月は頷く。
あっさりと従った深月の様子に、龍二は僅かながら驚いていた。
それだけでその女性が特別なのだと理解する。
うてなも足を止めたまま、博士の言葉を待っていた。奏を抱えたままだが、どうしても聞いておく必要があると感じていたのだ。
逢沢くのりを捕える切り札が、一体なんなのかを。
「こうして会うのは初めてだな、安藤龍二君」
白衣のポケットに両手を入れながら、博士は微笑を浮かべる。
龍二は答えず、ただジッと博士を見ていた。
「私についての説明は……今は不要か。君も興味はないだろう?」
その言葉にも、龍二は沈黙で答える。興味はあるが、今優先すべき事ではなかった。
博士はそれを不快に思う事もなく、むしろ楽しげに頷いて話を進める。
「さて、逢沢くのりをどうするのか、という君の質問だが……逃亡者の居場所が判明しているのなら、やる事は一つだと思わないか?」
回りくどい言い方に、龍二は焦りにも似た苛立ちを覚える。
龍二自身、はっきりとそれを自覚しているわけではないが、彼女の言葉、声色、その節々に試すような気配がある。
だからなのか、自然と龍二の視線が鋭くなる。
「君の質問に対する答えは単純だ。逢沢くのりはここで回収する。そのあとは、企業秘密とでも言ったところかな。いや、国家機密か」
博士の言葉は龍二に語り掛けるようでもあり、独り言のようでもあった。
まるで物を扱うような話し方に、龍二は不快感を覚える。
「か、彼女は、僕を助けにきてくれたんです」
「あぁ、君はいい餌になってくれたよ」
「餌って……どういう意味ですか?」
「そのまま、としか言いようがないな。逢沢くのりを誘い出す最も確実で簡単な方法は、君を使うことだ。我々としては、今回の件を利用しない手はなくてね。誘拐を企ててくれた彼らには、あとで花でも贈ろう」
微塵の悪意も嘲りもない言葉が、博士の異質さを浮き彫りにしていた。
横から眺めているうてなですら、不快そうに眉をひそめている。
表情を変えずにいるのは、深月だけだ。
「……誘い出すだけなら、もういいじゃないですか。今戦っているのは、あなたの部下かなにかってことでしょう? だったらやめさせて下さい」
「君には感謝しているが、それはできないな」
「どうしてですか!」
「投降を呼びかけたとして、君が知る逢沢くのりが従うと思うか?」
「…………それは」
無理だろう、と龍二はうな垂れる。
包囲され、どれほど不利な状況に陥ろうとも、くのりが投降するとは思えない。
ここでそうできるのなら、最初から行動を起こしはしなかっただろう。
「ならばこちらとしては、力づくで戻ってきて貰うしかない。まぁ、穏便に戻ってきて貰う手段がないわけではないが、ね」
龍二に向けられる博士の視線が、鈍い輝きを宿す。
「僕を、餌に……ですか」
拳を握り締めて答える龍二に、博士は薄っすらと笑みを浮かべて頷く。
「博士、それは――」
「大丈夫だよ。いくら私でも、そこまではしないさ。他に手段はいくらでもあるのだからね」
低く笑う博士の言葉に、深月は唇を引き結ぶ。
裏を返せば、最後の手段としてあり得るという事に他ならない。
安藤龍二を組織が人質にして、逢沢くのりを回収する。
博士なら本当にやるだろうと、深月はわかってしまう。
目的のためなら、手段など選ばないのがこの女性だ。
深月の表情を見ていたうてなも、それを理解する。一層深く眉間に皺を刻み、博士を睨みつける。
「……なら、僕をくのりのところへ連れて行って下さい。僕が説得します」
「ほう。自ら餌にでもなるつもりか?」
「あなたがどう思うかは知りません。餌でもなんでもいい。くのりが無事でいられるなら」
組織に回収される事がなにを意味するのか、龍二は正確に知っているわけではない。
わかっているのは、くのりがそれを望んでいないという事だけだ。
それでも龍二は、あの場所で戦い、くのりが傷つく事を望んではいなかった。
くのりが戦ってる相手は、嗤いながら人を殺していた。そんな相手が何人もいて、くのりは一人で戦っている。
どうしてそれを、見過ごせるというのか。
組織に捕まるという結末が同じなら、せめて傷つかず、無事にそうなって欲しいと、龍二は願う。
それに、戦いを一時的にでもやめさせる事ができれば、くのりが脱出する隙を作れるかもしれない。
「お願いします。僕に説得させて下さい」
龍二は一歩前に踏み出し、博士に懇願する。
不気味とすら思える視線に怯む事なく、真っ直ぐに受け止める。
感心したように博士は頷き、
「断る」
短く、しかしこれ以上ないほどの力を込めて断言した。
戦いをやめさせるつもりなどない、と。
「ど、どうしてですか! くのりが戦っている相手は、人を殺すような相手なんですよ? も、もしくのりが死んだりしたら、意味がないはずだ!」
「あの程度の失敗作が束になったところで、逢沢くのりを殺せはしないさ」
あまりにも予想外な答えに、龍二は絶句する。
捕まえるために差し向けたと言っておきながら、まるで失敗するとわかっているかのようだ。
「もちろん、何事にも例外、万が一ということはあり得る」
「――だったら!」
「その時はその時で、興味深いデータが取れるさ」
「…………なんなんだ。あんた、なにを言ってるんだ?」
目の前にいる女性の不気味さに、龍二は後ずさりそうになる。
「言っていなかったな。これはね、逢沢くのりというエージェントの最終テストなんだよ」
博士はさも愉快だと言いたげに、満面の笑みを浮かべる。
そこにはやはり、悪意はない。
純粋とすら言えるほどの無邪気さすら感じさせる。
「はるかに不利な状況下において、同等の訓練を受けてきた大勢を相手にどこまでやれるのか。逢沢くのりの潜在能力がどれほどのものか、実のところ私も測りかねていてね。今回のようなテストができるとは、正直思っていなかったんだ」
ポケットから手を出した博士は、そう言いながら龍二を指し示す。
「君のおかげだよ、安藤龍二」
「…………僕の、おかげ?」
「あぁ、勘違いするな。君が誘拐されたから、ということではなくてね。同じような状況なら、いくらでも用意はできる。君のおかげだと言ったのは、逢沢くのりに執着を持たせてくれた点に関してだよ」
博士の言葉に熱が宿り始めている事に、深月は目を伏せる。饒舌になるにつれ、その声は狂気を孕む。
博士のそれは、他人を不安にさせるのだ。
「エージェントとして訓練された者は、任務の達成を至上とする。そういう意味でも、逢沢くのりは最高のエージェントだった。そんな彼女が君に執着し、結果として生にも執着している。そうしろと命じられたわけでもなく、だ」
「そんなの、なにが特別なんだ。誰かを好きになるとか、死にたくないとか、当たり前のことじゃないか」
「エージェントでなければ、な」
上気し始めた頬に触れ、博士は遠く、施設がある方を見つめる。
「組織から離反するエージェントは、過去にも例がある。だが、逢沢くのりのような例はただの一度もない。ましてや理由が……ふふっ……恋をしたから、などと」
「あ、あんたは――っ」
「いや、すまない。バカにしているわけではないよ。ただ、どうしても信じられなくてね。私が回収に拘っているのも、実のところそれが理由なんだ。逢沢くのりとはじっくりと話をしたいのさ、私はね」
不思議な事に、それが本心からくる言葉だとわかってしまう。
ゾッとするような狂気を漏らしながらも、博士は正気なのだ。
「君がいなければ、こうはならなかった。だから感謝しているんだよ、安藤龍二」
この人とは絶対に分かり合えないと、龍二は絶望的な気分で悟る。
噛み合うはずがない。
博士はどこまでいっても、逢沢くのりを観察対象、モルモットとしか見ていないのだから。
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