第4章 第4話 to Die for その3
ナイフのぶつかり合う音が、夜の空気を震わせた。
殺意を迸らせる少女は、くのりに先んじて刃を走らせる。
くのりはそれを踊るように受け流し、あるいは弾く。
目に見えそうなほどに濃厚な殺意を向けられても、くのりはいささかも表情を変えず、冷たい微笑を浮かべていた。
その余裕ぶった表情が、少女の殺意を一層強く駆り立てる。
暴風さながらに振るわれるナイフを、くのりは身を屈めてかわし、足を払う。
罵倒しながら仰向けに倒れた少女は、すぐさま横に転がる。
足払いから流れるような動作で、くのりが踵を叩きつけてきたからだ。
一瞬でも遅れていれば、少女の顔はブーツによって粉砕されていただろう。
転がる事で生まれた数歩分の距離を、不可視のダーツが貫く。少女が起き上がりながら、くのりめがけて射出したものだ。
今度は、くのりが大きく横に飛び退いてそれを回避した。紙一重でかわすには、数が多いと判断したのだ。
空を貫くダーツは連続して五本放たれていた。少しずつ横に弾道がずれたそれは、くのりの影を射貫いていく。
大袈裟な回避だったが、くのりはそうするしかなかった。
着地した足が、くのりの意思に反して滑る。思わず片膝をついたくのりは、小さく舌打ちをして腕を交差させる。
視界に捉えていたわけではない。このタイミングと隙を逃すはずがないと思い、咄嗟に防御したのだ。
直後、交差させたガントレットの上から蹴り飛ばされる。
衝撃に合わせて大きく後ろに跳躍したくのりは、お返しとばかりにガントレットからワイヤーを射出する。
チャンスと見て追撃しようとしていた少女は、思わぬ反撃を跳んで回避しようとした。だが、軌道を読んで回避したわけではない。
くのりの狙いは最初から、少女が手にしているナイフだった。
弾丸さながらの勢いで射出されたワイヤーの衝撃に、ナイフが弾かれる。
無事に着地したくのりはその結果に、不敵な笑みを浮かべた。その笑みは、内心の焦りや疲労を隠すためでもあった。
連戦による疲れと、以前からある不調が現れ始めていた。
少女がそれに気づいているかどうかは、くのりにはわからない。
だが、先ほどの着地で見せた隙は誤魔化せない。
相手にも疲労を悟られているという前提で、攻めに転じる。
ワイヤーを引き戻しながら、ナイフを投擲する。本来の使い方とは異なるが、すでに切れ味は鈍くなりつつある。
肝心な場面で使用できなくなる可能性がある武器を、いつまでも使用するのは愚策だ。
まるで自分の事のようだと自嘲しつつ、身を低くして少女に接近する。
顔を狙って投擲されたナイフを弾き飛ばした少女の視界に、くのりが肉薄する。
少女の反応は良かった。咄嗟に蹴り上げた膝が、くのりの腹部を捉える。
衝撃に身体が僅かに浮いたが、くのりは止まらずにガントレットで少女を殴りつけた。
横合いからの打撃を同じガントレットで防ぐが、威力は殺しきれない。
少女の上半身が、流れる。
その瞬間にくのりは突進し、少女の身体を倉庫の外壁に叩きつけた。
壁がひび割れるほどの衝撃も、スーツのおかげで大したダメージにはならない。
くのりは構わず、拳を打ち込む。頬を掠めた拳は、背後の壁に穴をあけた。
死を連想させる一撃にも、少女は怯まない。右腕を突き上げてくのりの顎を狙う。
難なくそれをかわしながら、くのりはガントレットのワイヤーを引き出し、少女の首に巻き付ける。
少女は首とワイヤーの間に、ギリギリで片腕を割り込ませた。
残された左腕で反撃を試みるが、あっさりと受け止められ、その腕も拘束される。
両腕を拘束され、背後には壁がある。
絶体絶命とも言える状況に立たされた少女は、眉間にしわを寄せてくのりを睨みつけた。
くのりはそれを正面から受け止めるように、額がぶつかりそうな距離まで顔を近づける。
少女とは対照的に、薄っすらと笑みすら浮かべていた。
「ねぇ、殺す前に訊いておきたいことがあるんだけどさ」
「もう勝ったつもり?」
友人にでも語り掛けるようなくのりの口調に、少女は忌々しげに唇を歪める。
呆れたように鼻を鳴らしたくのりは、声のトーンを下げて少女に問いかける。
「――彼に、なにをしたの?」
冷たいナイフを押し当てられるような声に、少女は一瞬、死を確信した。が、すぐに錯覚だと理解し、憤怒を滾らせる。
言葉一つに怯えた、自身に対する怒りだった。
「答えなさい。彼を拘束している間に、なにかしたのでしょう?」
先ほどまで浮かべていた氷の微笑が、熱に溶かされて消失した。
奥底に秘めた怒りによる熱は、くのりのほうがはるかに上回る。
遠目にも、龍二の様子がおかしいのは見て取れた。
実際に顔を合わせて話したのは、わずか数分。
それでも、くのりにはわかった。
龍二が精神的に衰弱していた事と、血に汚れた衣服。軽く拭ってはあったが、唇には血の味も残っていた。
怪我をしている様子はなかったが、だからと言ってなにもなかったとは思えない。
誘拐した敵はおそらく、全員死亡しているだろう。
目の前の少女がどこまで関わっているかは知らないが、龍二はこの少女を見て怯えていた。
つまり、捕らわれている間に顔を合わせていた事になる。
「さぁ、答えなさい」
締め上げるようにワイヤーをゆっくりと引き戻し、くのりは囁くように問う。
首筋にワイヤーが食い込み、割り込ませた腕が少女の頬に触れる。
窒息させられる状況は辛うじて防いでいるが、それも時間の問題だ。
くのりがその気になれば、次の瞬間に少女は絶命している。
そう確信してしまえるだけの殺意が、くのりの双眸には宿っていた。
「わからせてやったのよ。自分が何者なのかってやつをね」
それでも少女は――いや、だからこそ少女は、歪んだ笑みを浮かべて答えた。
安藤龍二を傷つける事が、逢沢くのりに対する最高の一撃になると、理解していたからだ。
「傑作だったわよ。あの映像を見せられたあいつと、あいつが大切にしてた女の反応」
愉快だと唇を歪める少女に、くのりの表情は動かない。ただジッと、静かに見据えていた。
「あとはついでに、目の前でショーを見せてやった。わかるでしょ? 用済みになったやつをさ、スパッと切り殺してやったの。もうね、最高の悲鳴を聞かせてくれたわ」
熱っぽく語る少女の笑みが、どんどん引きつっていく。研ぎ澄まされた殺意が視線から伝わり、少女の喉を撫でていた。
「そうそう。おまけにね、あいつの口に切り飛ばした腕を捻じ込んでもみたのよ。血の味が恋しいだろうと思ってね。あぁ、せっかくだから、録画でもしておけば良かった? あんたも見たかったでしょ、あいつが泣きわめくところ」
数ヶ月の鬱憤を注ぎ込んだ、悪意が形を成したような笑みを浮かべる。
今度こそ殺されるかもしれないと思いながらも、少女は笑みを崩さない。
くのりの顔を歪めてやりたいという一心で、自分すら歪める。
しかしくのりは、激情に駆られて少女を殺すような事はしなかった。
それどころか、嘲るように鼻を鳴らして少女を解放する。
手を離し、ワイヤーも回収して数歩分の距離を取る。
「…………なんのつもり?」
想定していなかった行動を取るくのりを、少女は訝しむ。
「訊きたいことは訊けたから。解放してあげたのは、素直に答えてくれたお礼、とでも思って」
これでもかと見下すように顎を上げながら、チャンスを与えたのだとくのりは微笑む。
あのまま勝負を決める事は、くのりにとってなんら難しい事ではなかった。少女もそれは理解していただろう。
圧倒的な力の差が、二人にはある。
装備の面で言えば、少女のほうが上回っているだろう。
それでもくのりは、少女を圧倒する強さを持っていた。
技量でも精神面でも、比べるべくもない。
とは言え、普段のくのりなら相手にチャンスなど与えず、無慈悲に終わらせていただろう。
ではなぜそうしたのかと言えば、それは単純な理由だ。
龍二を傷つけた少女に対し、決して見せない奥底に、怒りを秘めていたからに他ならない。
ただ殺すつもりは、ない。
龍二が味わったであろう恐怖以上のそれを、彼女には味わわせる。
肉体と精神、その両方に刻み込んでやらないと気が済まないのだ。
少女の失敗は、悪意に任せて龍二を傷つけた事。
役割に徹していれば、もっと楽に逝けただろう。
少女も自身の失敗を、痛みと共に実感する。
絶え間なく繰り出される打撃と斬撃に、スーツの耐久性が損なわれていく。
衝撃を吸収しきれず、スーツの上からでもダメージを受け始める頃には、すでに自分がどんな攻撃を受けたのかもわからない状態だった。
僅かな隙間を縫うように繰り出された拳をかわすが、突き出たくのりの親指が少女の左目に触れ、押し潰す。
片目を失って上げそうになった悲鳴を噛み砕き、少女は残った右目でくのりを見る。
「あぁ、そうだ。どうせなら私も、あいつの目を潰してやれば良かった。それくらいならきっと許して――っ」
ガントレットから突き出たブレードが、少女の言葉を遮っていた。右頬を貫いたブレードは、そのまま左頬へと突き抜けている。
無造作に引き抜かれたブレードが、少女の顔を血で染め上げる。
氷のような無表情で、くのりはブレードに付着した血を振り払う。
痛みに耐えかねてよろめいた少女は、建物の外壁に寄り掛かってなんとか踏み止まる。
もはや、喋る事すら億劫だろう。
「……さすが……それで、こそだ……あいざわ、くのり」
それでも少女は、愉快だと言うかのように笑みを浮かべる。
「唯一の、完成体……あこがれた、エージェント……」
血塗れの頬に手を当て、うっとりと熱の籠った視線をくのりに注ぐ。
その熱は、恋に似ていた。
「あいざわ、くのり……わたしの……あぁ、そうだ。お前を殺して、名前を、もらうんだ」
朦朧とする意識の中で、少女は己の望みを思い出していた。
処分を待つだけだった自分に与えられた、最後にして唯一の機会。
与えられた役割は、呆れるほどに単純なもの。
「……お前を殺せば、私のものになる……お前の……その、逢沢くのりという名前が……」
自身の血で汚れた手を、ゆっくりとくのりに向ける。
攻撃するような意図はもはやなく、ただ憧れに手を伸ばすように。
「記号じみたものじゃない……本当の……人間みたいな、名前を……」
くのりはその手を、ただ冷然と眺めていた。
その姿こそが、少女にとっては目指すべきエージェントの姿に映る。
「叶うの……お前を殺せば、それが叶う……だから……だから私は……」
少女の汚れた手が、くのりの頬に伸びる。
まさに触れそうになった瞬間、くのりはその手を振り払った。
ガントレットから伸びたブレードが、少女の右腕をスーツごと切断する。切り飛ばされた少女の腕は、希望を断たれたように地面へ落ちて転がった。
少女は声を上げなかった。
もう、痛みすら感じていない。
ただ、夢の中を彷徨っているように呆ける。
「バカげた話ね」
嘲るでもなく、罵るでもなく、くのりは表情を緩めて肩を竦める。
少女の望みは、決して叶わない。
「ただ与えられただけの名前なんて、意味も価値もないのに」
そんな事もわからないかと思い、しかしすぐに自嘲する。
彼女がわからないのは、なにも不思議な事ではないのだ。
かつては、自分もそうだったのだから、とくのりは想いを馳せる。
逢沢くのりという名前が特別なのではない。
彼が――愛しい人が呼んでくれるから、意味を持ち、大切なものになる。
どう言葉を尽くそうと、彼女にはわからないだろう。
憐れみを覚えたくのりは、怒りすら忘れてしまう。
少女が誰かに唆され、利用されているのはわかっていた。
それを差し引いても、龍二を傷つけた事は許せないという気持ちに、変わりはない。
ただ、少女の姿にかつての自分が僅かに重なる。
なにかが違っていれば、自分もそうなっていたのかもしれないと思うと、不思議な感情が込み上げてくる。
そよ風一つで息絶えそうな少女に対し、くのりは再び殺意を灯す。
彼女に対して抱く感情には、興味がない。
お前は憐れだと、教えるつもりも、その必要もない。
彼女はここで、終わるのだから。
ゆらりと倒れ込んでくる少女とすれ違いながら、くのりは腕を一閃させる。
直後、弾かれたように少女の身体は踏み止まった。
切断された首が宙を舞い、その軌跡を追うように、夜空へ向けて血が噴き出す。
それはまるで、魂が咆哮を上げているようだった。
呪いじみた血の雨が、くのりに降り注ぐ。
「……これで、終わり」
静かに崩れ落ちる少女の死体に背を向けたまま、くのりはよろめいて壁に手をついた。
最後の一人を仕留めたと思った瞬間、無視し続けていた痛みが数倍になってくのりを襲う。
「――――っ、ぁ」
激しい痛みに咳込み、口元を手で押さえる。黒いグローブの隙間から、血がこぼれた。
顎を伝う血を拭い、くのりは弱々しく笑う。
かなり無茶をした自覚はあった。
限界があるとすれば、すでに通り過ぎている。
「時間、かけすぎたかな……」
もっと簡単に、もっと早く決着をつける事はできた。
怒りに任せて、余計な体力を消耗する選択をしてしまったと自嘲する。
だが、悪い気分ではなかった。
そこかしこに死体が横たわる場所にただ一人、くのりは立っている。
犯した罪の重さは感じない。
「……帰ろっと」
強く、龍二に会いたいと思う。
忘れられないようなキスをしてくれた。
なのにもう、したくなっている。
もう一度、キスをしたいと。
龍二の存在と温もりを感じたい。
再び吐き出した血の量は、先ほどよりも多かった。
今にも膝から崩れ落ちそうな感覚に、くのりは抗う。
倒れている暇はない。
またね、と言ったのだから。
彼はきっと、待っている。
その一心で、くのりは顔を上げた。
「――――っ!」
ゾクリとするような悪寒に跳び退く。
直後、立っていた場所が弾けた。
空間が爆ぜ割れるような衝撃に打たれて、くのりは地面を転がる。
辛うじて受け身を取って立ち上がったくのりは、視線を巡らせる。が、どこにも、誰も見当たらない。
確かに攻撃を受けた。今までの比ではないほどに強力な攻撃だった。それは綺麗に抉れた地面が証明している。
だが、その場所には誰もいない。気配すら、ない。
ならどこに、と考えたくのりは、導かれるように視線を上げる。
いつの間にか薄れていた雲間から、月が顔を覗かせていた。
歪に欠けた月の下に、それはいた。
屋上の端に立ち、くのりを見下ろしている。
ただ、その表情はわからない。
今にも消えてしまいそうな、幻かと思うほどに希薄な気配を纏った人影は、真っ白な仮面を被っていた。
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