第4章 第4話 to Die for その2
「大丈夫、誰もいない」
隠し通路から外に出たうてなは、中に残っている龍二たちに声をかける。
気配を消せるうてなが先行して、周囲に敵がいないかどうかを確かめて来たのだ。
この通路を知られていた場合の待ち伏せを警戒しての事だったが、その必要はなかった。
奏を背負った深月に続いて、龍二も外に出る。
後ろ髪を引かれるように、龍二は出てきた通路を振り返る。
「龍二、行くよ」
立ち止まっている龍二に気づいたうてなが、囁くように声を掛ける。
彼がなにを考えているのかは、うてなにもわかっている。だが、囮として残ったくのりの心配をしている余裕はない。
彼女が時間を稼いでくれている間に、少しでも遠くへ移動するのが今は最善だ。
たとえ追手が来る可能性が低いとしても、安全圏まで離れるべきという判断に変わりはない。
「…………」
微かに銃声が聞こえたような気がして、龍二は遠くに見える施設の壁を見る。
今この瞬間も、くのりは戦っているのだろう。
彼女の強さは知っているが、だからと言って心配にならないわけではない。
「龍二、急いで」
「……あぁ」
痺れを切らして袖を引っ張るうてなに頷き、龍二も歩き出す。
少し行った木々の間に、車が隠してあった。
「これって、あれだよね? 基地のガレージにあったやつ」
「そう。こいつで駆けつけてやったの。ほら、あんたは奏さんと後ろに乗って」
以前、一度だけ見せて貰った事のある車に、言われるまま龍二は乗り込む。
まだ気を失っている奏の上半身を抱き留め、決して広くはない後部座席に横たえる。
二人がギリギリ座れる程度しかない後部座席では、奏を膝枕するような形を取るしかなかった。
「しっかり押さえておくこと。飛ばすからね?」
「わかってる。でも、安全運転でお願いしたい」
過剰なスペックを与えられた車両だということを知っている龍二は、嫌な予感を覚えていた。
大船に乗った気でいろと言いたげなうてなの笑顔に、龍二は半ば諦めつつ覚悟を決める。
案の定、発進した車はお世辞にも乗り心地が良いとは言えなかった。
「今のところ、追手は確認できないわ。だから少し、速度を落としなさい」
「信号がないうちにかっ飛ばすほうが良くない?」
「彼が吐いたら、あなたが掃除をするのよね?」
「……龍二って、乗り物には強い系?」
「知らないけど……手加減はして欲しい、かな」
奏の身体が飛んでいかないようにしながら、龍二は複雑な表情で答えた。
今はまだいいが、このまま最後まで吐かずにいられる自信はなかった。
「軟弱と言うか貧弱と言うか……いたっ」
龍二の弱音を茶化そうとしたうてなの脇腹に、深月の裏拳が叩き込まれる。
じろりと半眼で睨む深月に肩を竦め、うてなは速度を緩めた。
そんないつもと変わらない二人のやり取りに、龍二はようやく呼吸ができた気がした。
重く、苦しい感情はまだ残っているが、救出された直後に比べれば大分落ち着きも取り戻し始めている。
だが、半分は麻痺しているようなものだった。
考えるべき事や沸き起こる感情が多すぎて、処理が追い付かない。
どこから手を付ければいいのか、わからないのだ。
「気分はどう?」
「……良くはないけど、なんとか」
「そう。駆け付けるのが遅くなって、ごめんなさい」
「そんなこと、ないよ。来てくれて良かった……ありがとう」
疲労を感じさせる顔でお礼を言う龍二に、二人は複雑な心境だった。
結果だけを見れば、救出は間に合ったと言えるだろう。
しかし、龍二や奏が受けた精神的なダメージがどれほどのものかは、まだわからない。
特に、血塗れで嗚咽を漏らす姿を見たうてなは、龍二の状態を心配していた。
あの部屋でなにがあってああなっていたのかは、未だ謎のままだ。
遅れて駆け付けた深月も、あの惨状を見たからわかる。
肉体的ではなく、精神的な傷を負わされたと考えるのが当然だった。
助け出したら言いたい事が山ほどあったが、さすがに今はそれを口にする気には、二人ともなれない。
自然と会話は途切れてしまう。
話すべき事なら、いくらでもある。
特に、逢沢くのりの事については、龍二も知りたがっているはずだ。
それでも口にしないのは、怖いからなのかもしれないと、深月は流れる景色を見ながら考える。
一人で残って、今も戦っている逢沢くのり。
追手の気配が微塵もないのは、きっとそういう事なのだろう。
確証と言えるものはないが、深月は真相に気づきつつあった。
予感そのものは、もっと前の段階からあった。
あえて確証を得ようとしなかったのだ。
「……姉さんは、どれくらいで目を覚ますかな?」
「あと二時間は眠ったままのはずよ。それについても、謝罪するわ。宥めている時間がないと思って、私――」
「いいんだ。謝らなくて、いいよ……」
――悪いのは、僕だから。
そう続くような沈黙を吐息と共に漏らし、龍二は目を伏せる。
穏やかな寝息を立てている奏の表情は、まだ青ざめたままだ。
取り出したハンカチに水を含ませ、その顔に付着している血や汚れを拭い取る。
安堵と同時に、痛みが胸に染み込んでくる。
こんな風に接する事ができるのは、奏が眠っているからだ。
できる事なら、目を覚まして欲しい。
無事かどうかを確かめたい。
自分のせいでこんな危険な目に遭わせてしまった事を、謝罪したい。
だが、もし今この瞬間に目を覚ましたら、きっと奏は、悲鳴を上げるだろう。
眠っているこの瞬間だけが、龍二に残された唯一の救いなのだ。
あの部屋で見せられた、記憶にない殺戮。
奏に向けられた視線が、忘れられない。
奏はあの時、間違いなく恐怖していた。
安藤龍二という、不確かな存在に。
誰よりも龍二自身が、それを一番理解できてしまう。
龍二こそが、誰よりも龍二自身を恐怖しているのだから。
自分が何者かを知りたいと、ずっと思っていた。
知らなければならないと、考え続けてきた。
けれど今は、知るのが怖い。
あの映像がなんだったのかを確かめるのが、怖くて堪らない。
二人は、あの映像を知っているのだろうか?
訊いてみたい感情と、訊くのが怖い感情が混じり合い、言葉は塵のように消えてしまう。
道しるべをやっと見つけたはずなのに、踏み出す勇気は湧いてこない。
くのりの声が聞きたいと、無性に龍二は感じていた。
それが己の弱さだと痛いほど理解し、自身を恥じる。
安らかとも言える表情で眠る奏の、その右手首に巻かれたシュシュが目に留まる。
服と同様に、シュシュも血で汚れてしまっていた。
どこかで引っかけたのか、布地も破れてしまっている。
プレゼントしたあの日から、奏はずっとそれを身に着けていてくれた。
それが誇らしくもあり、嬉しくもあり、僅かに切なくもあった。
上着の内ポケットにある、小さな箱の感触を確かめる。
いつも持ち歩いている、くのりへのプレゼントだ。
次に会えるのがいつかわからないから、常に持ち歩くようにしていた。
さすがに、あの状況では渡せなかったが。
ごちゃまぜの感情に龍二が目を閉じた時、不意に車が減速し、止まった。
「……久良屋、あれって」
「確かめてくるから、あなたは待機していて」
深月はそう言って、助手席から降りる。
「うてな、どうしたの?」
「ちょっと、ね。危険はないと思うけど、あんたは一応、身を屈めてて」
「……わかった」
龍二は素直に頷き、奏を守るように上体を傾け、シートの陰に隠れる。
うてなはいつでも車を発進させられるように、ハンドルを握ったまま前方を見据えていた。
水を打ったような車内の空気に、龍二は喉の渇きを覚える。
一度安堵してしまったからだろう。また危険が迫っているのかと思うと、嫌な汗が噴き出そうになる。
静寂はおよそ一分。
うてなはなにも言わずに、車をゆっくりと前進させ始めた。
「……うてな?」
「大丈夫。どうやら、組織の連中が応援に来てくれたみたい」
今更すぎるけど、とうてなは愚痴をこぼす。
安全だと手で促すうてなに頷き、龍二は外が見えるように顔を覗かせる。
道路を封鎖するように複数の車両が並び、一見すると夜間工事でもしているかのように見える。
実際、そこに立つ人影は作業着らしきものを着用し、ヘルメットなどもきちんと被っていた。武装しているようにも見えない。
が、作業をしている様子はなく、作業員の格好で立っている人影は周囲を警戒していた。
「龍二は待ってて」
車を道端に停車させたうてなは、そう言い残して外へ出て行く。そのまま夜道を眩しいくらいに照らす明かりへと駆け寄り、深月に合流した。
その場所には深月の他にもう一人、龍二が初めて見る人物がいる。
三十代半ばくらいの、白衣を身にまとった女性だ。
周辺を警戒している人影は、彼女を中心にしているように、龍二には見えた。
この寒空の中、ろくな防寒着もないまま深月と話していた女性は、視線を駆け寄ってきたうてなへと向け、
「――――っ」
そして、龍二へと流した。
その瞬間、龍二はなぜか息を呑んだ。
彼女の視線が向けられただけだというのに、車内の気温がぐんと下がったような気さえする。喉のあたりを締め付けるような感覚まであった。
龍二はなぜか目を逸らす事ができない。
切れ長の双眸がそうさせるのか、彼女の存在は際立って見える。
「…………笑った」
ほんの一瞬だった。気のせいと言われれば、そうかもしれないと思うほどの刹那。
白衣の女性の口元に、笑みが浮かんだような気がした。
その女性と話をしていた深月とうてなの視線が、車の方に向く。
いくつかの言葉を交わした後、うてなが一人で車の方に戻って来た。
「龍二、あっちの車に移動して。安全な場所まで、護送してくれるらしいから」
「ぼ、僕だけ?」
「まさか。奏さんも一緒。他の家族は組織が保護してるから、そっちと合流するって話でしょ、たぶん」
「保護って、じゃあ聡さんたちも?」
「心配ないよ。そっちは誘拐される前に保護できたから」
「そっか。良かった……」
聡と静恵が無事だと知った龍二は、深く息を吐いて肩の力を抜いた。
自分と奏の事ばかりで、二人の事にまで気が回っていなかったのだ。
跳ね上がった心拍数が、うてなの言葉で徐々に落ち着いていく。
「奏さんは私が運ぶから。あんたはついてきて」
「……わかった。任せるよ」
自分が運ぶよりもうてなに任せた方が安全だと、龍二は素直に引き下がる。
本当なら自分が運ぶと言いたいところだし、普段ならそう言っただろうが、今は言えなかった。
自分を恐れている奏に触れるのは、罪のような気がしてしまう。
一人になった龍二は車から降りて、その寒さに身を震わせた。
ふと夜空を見上げ、雲が薄れ始めている事に気づく。
「こら、ボケっとすんな」
「ごめん」
思わず立ち止まっていた龍二は、うてなの声に頷いて歩き出す。
その横を、一台の車が通りすぎていく。
向かう先は、龍二たちがやって来た方向――施設がある方だ。
黒塗りのバンタイプは、音もなく闇夜に溶け込んでいく。
龍二はそれを、目で追った。
なぜかはわからない。
なにか、気になってしまったのだ。
「…………なに、今の」
そしてそれは、うてなも同じだった。
奏を抱きかかえたまま、通り過ぎた車を睨むように見ていた。
「どうかした?」
「いや、なんだろう……背中と首筋に嫌な感じが……」
その感覚は、初めてではない。
施設に潜入する時にも感じたものだった。
違いがあるとすればそれは、あの時よりも鮮明で、不快だという点。
うてな自身もよくわからず、眉根を寄せたまま首を傾げる。
「久良屋、今の、なに?」
明かりの下で待機していた深月に近づきながら、うてなはすれ違った車を顎で指す。
「逢沢くのりを捕えるための切り札だよ」
答えたのは、深月ではない。
白衣の女性――組織の中心人物である博士だった。
「捕えるって、どういうことですか!」
そして誰よりも先に声を上げたのは、龍二だった。
博士は僅かほども驚かず、むしろ楽しげに笑みを浮かべ、
「言葉通りの意味さ」
射貫くように細めた目で、龍二を見た。
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