第4章 第4話 to Die for その5

「丁度いい機会だ。私はね、君とも話してみたかった。現場からの報告だけでは、正しく君を評価できなくてね」

 くのりへと向けられていた博士の意識が、目の前の龍二へと注がれる。

 見えない縄で首を絞められるような感覚に襲われ、龍二は息を呑む。目を逸らさずに済んだのは、博士に対する敵愾心のようなものがあったからだ。

 博士が何者なのかを龍二は知らないが、話し方や雰囲気、その内容から組織の中枢にいる人物なのは察していた。

 それとは別に、この人なら知っているのではないかという思いもあった。

 逢沢くのりがどうなるのか。

 そして、安藤龍二が何者であるのかも。

「面白い目をする。私をそんな風に見てくれる相手は久しくいなくてな」

 指先まで舐め回すような視線に晒され、龍二は不快感に背中を震わせる。

「私に対するそれは……憎しみか嫌悪と言ったところか」

「……否定は、しません」

「君とは初対面のはずだが……私が憎いか? 逢沢くのりを捕獲しようとしている私が」

 それは無意識なのか、博士が口にする言葉は龍二だけではなく、うてなの神経も逆撫でする。

 文句の一つも言ってやりたいと口を開いたうてなは、龍二の表情を見て我慢した。

「正直、どう言えばいいかとか、わからないです。でも、理解できない。どうしてそんな風に言えるのか。あなたにとって彼女は――」

「答える質問は一つだけだ。次の言葉は慎重に選べ」

 まるで別人かと思うほど冷えきった硬質な声に、龍二は一瞬言葉を詰まらせる。が、すぐに口を開いた。

「……あなたにとって彼女は、なんなんですか?」

 怒りを露わにする龍二に、博士はにんまりと笑いかけて歩み寄る。

 気圧されたように後ずさりかけたが、龍二はどうにか踏み止まった。

 博士はそのままゆっくりと、龍二に近づいて行く。

「答える前に、ぜひ訊きておきたい。どうしてそこまで、逢沢くのりに拘る?」

 手を伸ばせば届く距離まで近づいた博士は、正面から龍二を見据える。意外にも、博士の身長は龍二とそう変わらなかった。龍二の感覚では、背が高いように見えていた。

「君にとって逢沢くのりとは、なんだ? 自分の正体を確かめるよりも重要なことか?」

「――っ、やっぱりあなたは……」

 知っているのだ、と確信する。

 龍二が何者なのか、なぜ狙われるのかを。

 博士は隠すつもりなどない。全てを知っていると、見透かしたような目が物語っている。

「君はきっと見たのだろう、あれを。あの映像が持ち出されたことには気づいていたが、面白そうだと思ってね、あえて見逃したんだ。しかし、こうも期待通りに動いてくれるとはね。捨て駒として見限るのは、少々早計だったかな。いや、それはないか」

 追い詰められたがゆえにあの少女はそうしたのだから、と博士は軽く顎をさすりながら満足げに頷く。

 龍二が見せられた映像の出所がどこなのかは、もはや明白だった。

「あれは――」

「答えるのは一つだけと言ったはずだ。君は、なにが知りたい?」

 選択を迫るように、博士が更に一歩踏み込む。

 眼前まで近づいた博士の雰囲気に呑まれそうになる。

「……くのりは、どうなるんですか」

 考えた時間は、ほんの数秒だった。

 今知りたい事は、彼女が何者かではない。自分が何者かでもない。

 大切な人が、これからどうなるのかだった。

「それでも逢沢くのりに拘る、か。実に面白い」

 龍二の答えが期待通りだったのかそうではないのか、他人には決して理解できないだろう。

 博士は噛み締めるように頷き、大きく開いた目で龍二を見る。

「まずは聞かせてくれ。どうしてそこまで逢沢くのりを気にする? 君とって彼女はなんだ?」

「僕にとってくのりは、特別で……大切な、人だ」

 改めてそう口にするのは、さすがにまだ気恥ずかしい。龍二の頬が微かに朱を帯びる。だが、迷ったり臆したりはしていなかった。

 博士は表情を僅かも変えず、龍二の瞳を覗き込むように凝視する。

「つまり、性欲の対象として見ているのか?」

「――せっ、ち、ちがっ、そんなつもりで言ってるんじゃないっ」

「恥じることはない。君くらいの年頃であればごく普通の感情だろう。それとも、微塵も思ったことがないと言い切れるのか? 逢沢くのりを性的な対象として、一度も見たことがないと」

「それ、は……」

 ない、などと言えるほど、龍二も無欲ではなかった。

 逢沢くのりに向ける好意の中には、そういう感情も少なからずある。

 彼女に触れたいとも思えば、キスをしたいとも思う。

 教室や放課後で一緒に過ごす中で、何度見惚れたかもわからない。

 性的な対象として見ているかどうかで言うのなら、頷くしかなかった。

「当然、と言ったところか。それは良かった」

「な、なにが!」

「君にも性欲があるのだな、と。参考になる」

 淡々と答える博士の様子に、龍二は混乱する一方だった。

 浮世離れしているとは思っていたが、そんな言葉では生温いとすら感じる。

「だが、それは逢沢くのりだけが対象なのか? 男子高校生というものは、猿のようなものだろう? 性欲を満たす相手が欲しいだけであれば、逢沢くのりに拘る必要はないはずだ。代わりなら、こちらでいくらでも用意できるぞ?」

「そ、そういう問題じゃない! 誰でもいいとか、そんなわけないじゃないか」

「つまり、過程が必要ということか。時間の共有、その先にある恋愛、それらの結果として身体を求める」

 目を閉じ、思考の中で博士はシミュレートする。独り言のような呟きに、龍二だけでなく、うてなも絶句していた。

「わかった。恋愛を体験したいというのであれば、それも叶えよう」

「なにもわかってない! 大体、なにを言ってるんですか? 代わりを用意するとか、叶えるとか」

「そのままの意味だが? あぁ、今すぐと言うのであれば、そうだな。私で良ければ、相手になってやるぞ? 手っ取り早く経験したいというのなら、そこにある車を使えばいい。広さは十分確保できる」

「ちょ、ちょっと待って下さい!」

「わかっている。もちろん君さえ良ければ、だよ。別に私は君の身体に興味は……ないとは言わないが、今は望んでいない」

「だからそうじゃなくて――」

「あぁ、冗談だ」

「だ、だから僕は…………」

 一方的に話を進めようとする博士に対し、どうにか止めようとしていた龍二は声を失う。

 紛れ込ませるようにして博士が口にした言葉に気づき、理解した。

 自分は、からかわれていたのだと。

 今までとは違う憤激に拳を震わせ、顔を赤くする。

 対する博士は、相変わらず龍二を凝視していた。

 反応を楽しむでもなく、ただひたすらに観察するように。

「少し話を戻そう」

 そして何事もなかったかのように、話し始める。

「逢沢くのりの代わりを用意するという話だが」

「――――だからそういう話じゃないって」

 そこまでしか戻らないのかと言いたくなる気持ちをグッと堪え、龍二は口を開く。

「彼女――久良屋深月が相手をするというのなら、どうだ?」

 だが、次の言葉に再び絶句した。

 理解を拒もうとして思考が停止する。

 目の前に立つ女性がなにを言っているのか、わからなくなる。

 博士は構わず、後方で待機している深月を紹介するように、半身を引いて手を向ける。

「君がそれを望むのなら、彼女は拒まない」

「そ、そんなわけ――っ」

 ない、と言おうとした龍二の視界に深月の姿が映り、言葉を詰まらせる。

 微笑を浮かべた博士が示す先に佇む深月は、穏やかな目で龍二を見ていた。

 深月の意思を無視した博士の言葉に憤るでもなく、不快感を示すでもなく、なんでもない事のように、龍二の視線を受け止めていた。

 うてなが深月に声を掛けようとするが、彼女はそれを手で制した。

 たったそれだけで、龍二もうてなも理解してしまう。

 龍二が本当に望めば、深月は受け入れるのだと。

 任務であり、命令であるのなら従うと。

「ふざけるな! なんなんだっ、なんだと思ってるんだよ!」

 龍二の声が、夜の森に響く。怒りをぶつける対象は、博士ただ一人だ。

「さっきからそんな……いくらエージェントだからって、そんな命令が許されてたまるか! 彼女は……久良屋さんだって、意思を持った人間なんだぞ? それをあんたは……どうかしてる!」

 感情に任せた龍二の罵倒に、博士の感情は僅かも揺らがない。ただ静かに、龍二が吐き出す言葉と感情を待っているようだった。

「久良屋さんのことも……くのりことも……あの、女の子のことも……彼女たちをなんだと思ってるんだ!」

「エージェントはエージェントだよ。それ以外の何者でもない」

「だ、だとしても、ひとりの人間なんだぞ? それをまるで、自分の所有物かなにかみたいに」

「あぁ、その通りだ。わかっているじゃないか」

 もう何度目になるかわからない。

 さも当然のように紡がれる、理解を拒みたくなる言葉。

 悟ったはずの絶望はまだ入り口で、まだまだ見えない底があると龍二は知る。

「だから逢沢くのりの処遇も、私が決める。君が口を差し挟む余地などないよ」

 なにを喚こうが意味はないと、博士は龍二の言葉を握り潰す。

 空気が軋むように、温度が下がる。だがそれは、龍二の錯覚だ。理解できない相手に対して、底知れぬ恐怖を覚えていた。

「私に言わせれば、君こそ不思議でならない。まさかとは思うが、君は今、自分が安全だとでも思っているのか?」

 そう言った瞬間、博士の双眸が鋭さを増した。射貫くような、悪意を忍ばせた視線だ。

「自分で言うのは馬鹿げているが、私は組織に不可欠な人間でね。君のように敵意を向けてくる存在がいると、周囲が黙っていないんだ。今がまさにそうだ。待機を命じているからこそ、君はまだ拘束されていないだけなんだよ。必要とあれば、次の瞬間には君を拘束できる。抵抗するのは、君の自由だがね」

 淡々と話す博士の言葉に、周囲の空気が張り詰めていく。

 それらしい素振りを見せてはいないが、周囲を警戒するために配置された組織の人間は合図一つで、即座に隠している銃を龍二へ向けるだろう。

 博士が言う通り、龍二は自分がどういう立場なのかを、全く理解していなかった。

 龍二がこうしていられるのは、博士がそれを許しているからにすぎないのだと。

 不穏な空気の中で、うてなは煮え滾る感情を必死に抑えていた。

 この状況で唯一、うてなだけが博士の指示を無視する可能性がある。

 空気が張り詰めているのは、龍二を警戒してのことではない。深月を含めた全員が、うてなの行動を警戒しているのだ。

 ただ一人、博士だけがうてなを警戒する事なく、龍二に注目する。

「理解ができたところで、質問に答えよう。逢沢くのりがどうなるか、だったな」

 龍二の言葉を思い出し、僅かに口角を上げる。

「目的は一つだ。回収したのち、データを収集する。時間の許す限り、あらゆるデータをな。その後は……さて」

 試すような視線で、龍二を流し見る。

 それはまるで、くのりに残された時間がどれくらいあるのかを、龍二が知っていると見透かしているかのようだった。

 博士はあえて言葉にはせず、口元を歪めて見せる。

 龍二はただ黙って、拳を握り締めた。手のひらに爪が食い込み、痛みを覚える。だがそれ以上に、心臓が軋んでいた。

 その痛みに歪む表情が味わい深いとでも言いたげに、博士は満足そうに頷く。

「君がどれだけ望もうと、逢沢くのりに先はない。そんな相手に拘るのは、時間の無駄だと思わないか?」

「思うわけ、ないだろ……」

 くのりの死を宣言するような言葉に、龍二は顔を上げて博士を見る。

 敵意の類ではなく、それは熱を宿した感情だった。

「先はないとか、無駄だとか、あんたに言われる筋合いなんてない。勝手に決めつけないでくれ」

「だが事実だ。君では逢沢くのりを守れないし、生かし続けることもできない。できることなど、なにもない。それでも拘るのか?」

「だったら悪いのか?」

「良し悪しに興味はないが、面白い。逢沢くのりは君を騙し続けていた相手だ。君が知る逢沢くのりは、偽装されたものだ。無感情に人を殺せるエージェント、それが逢沢くのりの正体だと知っているだろう?」

「正体がどうだとか、そんなの、関係ない。なにを言われようと、僕はくのりが好きだ。好きだから、守りたいって思うんだ。それだけは、本当なんだ」

 自分自身すら見失いそうな中で、それでも龍二は断言した。

 くのりへの感情だけは、本物なのだと。

 博士の感情が、昂り始める。

 爛々と輝く双眸が、狂気に彩られていく。

 それは周囲の空気すら呑み込み、圧倒していた。

「実に興味深い話だ。日を改めて、君とはじっくり話そう。だが今夜は、ここまでだな」

 満足のいく答えが聞けたと笑みを浮かべ、博士は踵を返す。

「ま、待ってくれ! まだ話は……く、くのりはどうなるんだ!」

 少し歩いたところで足を止め、博士は顔だけを龍二へと向ける。

 そこには、とびっきりの悪意が潜んでいた。

「もしかしたら、この瞬間にも殺されているかもしれないな」

 だとしたら実に残念だと、嗤いながら博士は告げる。

「最初に言っただろう? 逢沢くのりを捕えるための切り札だ、と」

「…………それって」

 博士の言葉を思い出し、すれ違うように走って行った車両を思い出す。

 うてなが気にしていた、あの車両だ。

「あれは特別だ。テスト用の捨て駒とは違う。と言っても、急造品であることに変わりはない。手慰みに作った人形だがね」

 そう言って博士は、ねっとりとした視線をうてなへ向ける。

 ゾッとするような感覚と、すれ違う時に感じた悪寒を思い出し、うてなは眉を顰める。

 不吉な予感だけが、否応なく肥大していく。

「あれを相手に生き延びられるのか。そろそろ結果が出る頃なのでな。私は先に失礼するよ」

 後は任せると深月の肩を叩き、博士は車両に乗り込んだ。

「ま、待ってくれ! 僕も一緒に――――っ、ぁ」

 博士が乗る車両に駆け寄ろうとした龍二は、急激に意識が遠のく感覚に襲われる。

 膝の力が抜け、そのまま倒れ込む。

「…………くらや、さん」

 それを抱き留めた深月は、色のない表情をしていた。

 手にしている麻酔銃は、龍二に向けて放ったものだ。

「……久良屋、あんた」

 その様子を呆然と見つめていたうてなが、声を震わせる。

「…………ごめんなさい」

 薄れゆく意識の中、いつか聞いたその声を、龍二は思い出していた。

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