第4章 第4話 to Die for その1

「なに、今の?」

 龍二たちを追う素振りは一切みせず、一人残ったくのりを少女は嘲笑う。

 静観していた少女は、その間ずっと、逢沢くのりに視線を注いでいた。

 まるで憧れの人物を見つめるかのように、情熱的と勘違いしてしまいそうな視線で。

 しかしそれも、くのりと龍二がキスをするまでだった。

「まさか、キスも知らないの?」

 嘲り返すくのりは、熱の残滓を感じていた。

 夜の風で痛いほど冷え切っていた耳が、今は火傷しそうなほどに熱い。

 唇から伝わった龍二の吐息が、身体の奥まで染み込んでいるようだった。

「滑稽すぎて気持ち悪い」

 その姿に、少女は唾を吐きかける。

 憎々しげに頬を歪ませ、嘲りすら忘れてしまうほどの暗い感情を見せる。

 組織に拘束されている間、逢沢くのりについて耳にした情報があった。

 逢沢くのりが組織を裏切った理由は、ある男を愛したからだと。

 到底信じられる話ではなかった。

 だが、それが真実だと突きつけられ、少女は声を上げて笑った。

 自分はそのために、駒として利用されたのだと理解して、狂うほどに笑うしかなかった。

 そしてたった今、まざまざと見せつけられた。

 湧いてくる感情を、少女自身も理解できない。

 持て余した感情が、少女を支配する。

「あんななにもない男のために……どうかしてる」

「わからないでしょうね、あなたには」

 風になびく髪を手で押さえつけ、くのりは鼻を鳴らす。

「だからいつまでも人形なのよ、あなたたちは」

 先ほどのような嘲りはなく、淡々と事実を告げる。

「自分だけが特別なつもり? 言っておくけど、私はもう、お前と同等……いや、それ以上なの。この手で殺した人数は、お前を上回っているんだから」

 それが誇りだと言わんばかりに、少女は口角を吊り上げた。

 ナイフを引き抜き、刀身に残る血の匂いを確かめて頬を染める。

 誘拐犯のリーダーだった男を殺害した時の感触が、今もまだ鮮明に残っていた。

 もはや、誰かを殺害する事に躊躇など抱かない。

 組織が求めたエージェントとして、自分は完成された存在なのだと確信していた。

「顔を見ればわかる。ずいぶんと面白い表情をするようになったじゃない」

 くのりはさして興味がないと言うように、軽く肩を竦めて目を細める。

「当然でしょ。お前が知っていた頃の私じゃないんだから」

 称賛されたと思った少女は、自尊心が満たされる恍惚に酔う。

「本当に滑稽なのは、そっちね」

 くのりはそれを、嘲笑う。

 これ以上ないほどの皮肉を込めたそれに、少女の笑みがひび割れる。

 一瞬にして怒気を膨れ上がらせる少女に、くのりはこれ見よがしにため息をついて見せ、手招きする。

「そろそろ始めよっか。悪いけど、彼氏を待たせてるの」

 挑発としか受け取りようのない言葉だが、そこにはくのりの本心が込められていた。

 彼が、待っている。

 遅くなればなるほど、心配させてしまう。

 だから、下らない話はもういいと表情を消した。

 まるで仮面を被るように、感情を綺麗に内側へと折りたたみ、外していたグローブを装着する。

 待機状態だったガントレットが起動し、グローブを覆うようにスライドした。

 道中で回収しておいた拳銃には、まだ手を伸ばさない。

 これからくのりが相手にするのは、目の前の少女だけではない。

 他にも数名、もしかしたら十人近いエージェントを相手にする事になる。

 少女はまだ、動く気配を見せない。

 僅かに俯かせた表情は、夜の影に隠れて見えなくなっていた。

 ただ鋭く暗い眼光だけが、前髪の隙間から覗いている。

 くのりはそれすら嘲笑うように鼻を鳴らし、一歩下がった。

 直後、頭上から奇襲をかけてきた男の拳が地面を砕く。いや、男というには若い。くのりと同じ年頃の少年だ。

 装備しているのは、肘から拳までを覆う硬質な装甲――ガントレットだ。

 奇襲による初撃をかわされた少年は、僅かの停滞も見せずに次の行動へと移る。

 身体ごと横に跳び、くのりへ肩からぶつかっていく。

 自分よりも二回りは大きい少年の体当たりを、くのりは身体を回転させて受け流す。

 そのまま回転した勢いを乗せた肘を後頭部に叩き込まれた少年は、思わずたたらを踏んだ。脳を揺さぶられ、回避も防御もできない。

 そこにくのりは、ガントレットで覆われた拳を打ち込んだ。

 上から下へと突き抜ける衝撃に、少年は顔から地面に叩きつけられる。彼の意識はそこで飛んだ。

 くのりは躊躇なく、少年の頸骨を踏み抜き、命まで奪い去る。

 表情には、僅かな変化もない。

 弾かれたように地面を蹴り、腰のホルスターから引き抜いた銃を後方へと向ける。空中にいる状態で狙いを定め、着地する前にトリガーを二度引いた。

 初弾は数センチずれた壁に着弾するが、次弾は壁から半身を乗り出している敵の肩に食い込んだ。

 銃弾を受けた敵はそれでも怯む事なく、くのりの着地を狙ってトリガーを引く。くのりの拳銃に対し、敵が使用しているのは自動小銃だ。

 リズミカルに撃ち込まれる銃弾を転がるように回避し、くのりは物陰に身を隠す。

 当たるはずのない射撃は、それでもやむ事はなかった。弾倉が空になるまで、断続的に撃ち込まれる。

 なぜそんな事をしているのかと言えば、当然くのりを移動させないためだ。

 頭に叩き込んである図面に、把握できている敵の配置を照らし合わせる。

 身を隠している場所を狙えるポイントを導き出し、別の敵が来るであろう方向にくのりは銃口を向けて発砲する。

 立て続けに四発。いずれも空気を貫いただけだ。

 が、飛び出そうとしていた敵の気配を、くのりは確かに感じ取っていた。死角になっている壁の向こうに、間違いなく敵はいる。

 くのりはその壁へ手榴弾を投擲する。もちろん、敵から奪った本物だ。

 結果を確かめる事はせず、爆発音と同時に物陰から飛び出す。

 自動小銃を持つ敵めがけて猛然と詰め寄りながら、弾倉に残った弾を全て牽制に使う。

 相手がリロード中なのはわかっていた。だからこそ飛び出したのだ。

 弾倉が空になった銃を手にしたまま、相手が隠れている角へと滑り込む。

 くのりの行動を把握していたのだろう。相手は自動小銃ではなく、ナイフを構えていた。

 首筋を狙って横薙ぎに走る切っ先を、くのりは身を屈めてかわした。

 互いに戦闘用のスーツを着用している。ナイフで致命傷を与えようとすれば、自然と首より上になる。

 流れる毛先が数ミリ、斬り飛ばされた。

 くのりは握り締めた拳銃を掬い上げるように振るう。グリップの底が相手――髪を切り揃えた少女の顎に当たった。

 跳ね上がる少女の顎と、がら空きになる喉。

 くのりは左手でその喉を掴み、スタングローブを起動させる。出力は最大だ。

 閃光の中で少女が痙攣し、全身の力が抜ける。

 リミッターを外したスタングローブの威力は致命傷になり得るが、辛うじて絶命は免れていた。

 気絶して倒れそうな少女の頭部を両手で挟み、くのりは力任せに半回転させる。

 嫌な音を立てて、少女は倒れた。立ち上がる事は、二度とない。

 くのりはそのまま身を潜め、空になった弾倉を交換する。

 自動小銃を手にしようかとも考えたが、弾倉まで回収している余裕はない。

 次の敵はすでに、行動を開始している。

 左右から挟み込むような斬撃を、前に転がってくのりはかわした。僅かでも反応が遅れていれば、頭部を切断されていただろう。

 冷や汗一つ掻く事なく、くのりは涼しい顔で身を起こし、銃弾を放つ。

 腕を交差させて頭部を守る敵に、銃弾は弾かれてしまう。

 無駄と知りながらも、くのりは残弾を一人に集中させて全て撃ち尽くす。貫通はしなくとも、この近距離ならそれなりの衝撃を与えられる。

 七発の弾丸を連続して撃ち込まれた敵の動きが鈍る。くのりはその間に、もう一人の敵へ向けて残弾のなくなった拳銃を投げつける。

 少年は反射的にナイフでそれを弾き、その一瞬でくのりの姿を見失った。

 突風は、左へと流れる。

 後ろから足を払われ、少年の身体が宙に浮く。曇天が、彼の視界いっぱいに広がった。

 そこへ、振り上げたくのりの踵が落ちてくる。

 開発部特製のブーツは少年の鼻骨を砕き、頭部を地面にめり込ませる。

 スーツによって強化された一撃は、容易く少年の命を刈り取った。

 くのりは一瞬だけ、息を吐く。

 銃撃で怯んでいた少年のナイフは、まさにその瞬間を狙っていたかのように、突き出される。

 右腕のガントレットで受け流したくのりは、そのまま少年の腕を絡めとってあり得ない方向に捻り上げる。

 苦鳴と共に鈍い音がして、腕の骨が折れた。

 少年の手からこぼれたナイフが地面に落ちるより早く、くのりはブーツでそれを蹴り上げる。彼の腕を解放し、宙に浮いたナイフを掴む。

 前のめりに倒れかけた少年が踏み止まった瞬間、背後からその首を掻き切る。

 声も出せず、切り裂かれた喉を押さえて崩れ落ちる少年には、見向きもしない。

 一分にも満たない攻防で、くのりは四人を殺害してみせた。

 途中で放り投げた手榴弾でダメージを負った敵はいるが、まだ生きている。

 迂闊にも姿を見せたその少女を、持っていたもう一つの拳銃で撃ち殺す。

 これで、五人だ。

 圧倒的な差を見せつけるように、くのりは俯いたまま佇んでいる少女を一瞥する。

 距離が空いたので、感情は読めない。だが、どうでもいい。

 もとより、少女の感情になど興味はなかった。

 残っている敵が何人かはわからないが、この程度ならばくのりの相手ではない。

 新たに姿を現した三つの影を睥睨し、ホルスターに銃を戻す。

 相手はいずれも近接戦を望んでいると、手にした武器から読み取れる。

 それに応戦するように、くのりは奪ったナイフを構える。

 敵の装備は、よく手に馴染む。

 当然だ。

 使用されている武器もスーツも、全て同じ規格なのだから。

 流れるように疾走してくる三つの影を視界に捉えつつ、くのりはナイフをひらめかせる。

 金属がぶつかり合う音が、闇に響く。

 三人の攻撃をガントレットとナイフで捌き、流れるような動きでかわす。

 難なくあしらうくのりの動きは、さながら踊っているかのようだった。

 敵を切り伏せ、返り血を浴びながらくのりは確信する。

 彼女たちの目的がなんであるのかを。

 襲い掛かってくるのはいずれもくのりと同じ年頃の少年少女ばかり。

 面識のある相手はあの少女だけだが、殺害した敵の中には、資料で顔を見た覚えのある者もいた。

 装備を確かめるまでもない。

 今戦っている少女たちは皆、組織のエージェントだ。

 と言っても、深月とは違うタイプのエージェント。

 恐らくは、自分と同じタイプだろうとくのりは考えていた。

 動きを見ればわかる。

 ただ、くのりとは決定的に違う部分がある。

 彼女たちはいずれも、失敗作として扱われた者たちだろう。

 固有の名前を与えられず、製造番号だけで判別される消耗品。

 人を殺した経験がある者は、もしかしたらあの少女だけなのかもしれない。

 殺意は確かにあるが、迷いが見られる。

 それは組織が求めているものではない。

「いや、求めているのはあいつだけか」

 上半身を逸らして切っ先をかわしたくのりは、そう呟きながら少年の顔に銃弾を浴びせた。

 二発の弾丸を受け、少年は倒れる。

 なんの目的で彼女たちが投入されたのかはわからないが、予想はできる。

 捨て駒か、それとも実戦形式の試験でもしているつもりか。

 不良品として処分されるのを待つだけの彼女たちにとっては、最後のチャンスなのかもしれない。

 薄々それを感じ取りながらも、くのりの指先は僅かも鈍らない。

 正面から膝を蹴りつけ、逆側へとへし折る。

 声を上げてよろめく少女の後頭部に銃口を突きつけ、トリガーを二度引く。

 横合いから放たれた少年の爪先に、左手のナイフが蹴り飛ばされてしまうが、くのりは眉一つ動かさなかった。

 片足で立っている少年に肩から突進し、バランスを崩させる。

 倒れ込んだ少年の顔をブーツで蹴りつけ、怯んだところに銃弾を浴びせた。

 空になった弾倉が、少年の頭部から広がる血だまりに落ちる。

 拳銃の弾倉を交換したくのりは、呼吸を整えて次の襲撃を警戒する。

 まだ敵は残っている。

 敵の正体が予想通りだった事に、くのりは安堵していた。

 組織のエージェントが相手なら、狙いは間違いなく自分だ。

 誘拐に加担していたかどうかはわからないが、この状況を利用している。

 なら、龍二たちの安全は確保できたと見ていいだろう。

 組織から派遣されたのであれば、隠し通路も把握しているはずだ。

 狙いが龍二であれば外で待ち伏せしている可能性もあるが、その心配は不要だろう。

 今回のターゲットは、逢沢くのりなのだから。

 誘拐された龍二の救出に増援を送らなかったのは、この状況を作り上げるためだと、くのりは半ば確信していた。

 もしかしたら、安藤奏が誘拐される事を知りながら容認していた可能性すらある。

 あの女――博士ならばやるだろう。

 逢沢くのりをおびき出すための、最高の餌として。

「とことん不愉快な女」

 不快感をこれでもかと込めた悪態を吐き、全力で物陰へと疾走する。

 僅かに遅れて地面を叩いたのは、屋上から放たれた銃弾だ。狙撃銃ではなく、自動小銃によるものだろうと、音で判断する。

 次々と屠られたエージェントを見て怖気づいたのだろう。

 脅威度は低いと判断したくのりは、屋上の敵を後回しにする。

 どうせ生き延びたところで、残された時間などないだろうに、と鼻で笑う。

 この戦いに投入されたのは、不良品の中でも期限が迫っている者だろう。

 敵の動きには、どこかキレがない。

 くのりが抱えている症状と同じか、それ以上に悪化しているはずだ。

 万全でないのは、体調だけではなく、精神的な部分も含まれている。

 生を諦め、死を受け入れている。

 ほぼ全員が足掻くつもりもなく、ただ命じられるままに戦っていた。

 そんな相手に、逢沢くのりを殺せる道理はない。

 この戦いを仕組んだ博士に対する不快感はあるが、心はずっと高揚している。

 安藤龍二とのキスと別れ際の一言が、くのりの拠り所になっていた。

 反吐が出るほどの状況で、何人もの返り血を浴びようとも、身体を満たす幸福は薄れない。

 他人の命を奪うその一瞬一瞬が、彼を守るためのものならば、構わない。

 殺すたびに、見えない傷は刻まれていく。

 彼女自身も気づかないほど奥底に、いくつも、幾重にも刻まれる。

 だが、今のくのりにとってそれは、生きるための活力とも言えるものだった。

 彼を守るために重ねる罪ならば、いくらでも構わない。

 けれど彼は、それを自分のものだと言った。

 彼女が重ねる罪を、彼が背負う。

 逢沢くのりはそれを、幸福だと感じていた。

 安藤龍二への想いが逢沢くのりを形作るものなら、犯した罪ですら、彼女を形作る一部となる。

 最後の一人を殺害したくのりは、少年の死体から手を離し、息を吐く。軽く汗を拭い、呼吸を整える。

「あなたたちじゃ、私を殺せない」

 総勢、十六名。

 屋上から射撃を行っていた少女は、途中で姿を消していた。逃げたのだろうが、待ち受ける結果に変わりはないと、くのりはあえて追おうとは思わなかった。

 悉くを殺害し尽くした逢沢くのりは、予備の弾倉がなくなった拳銃を足元に落とす。

「あなたにも、ね」

 飛翔してきた不可視のダーツをかわし、くのりは最後まで残っていた少女を見やる。

 彼女は、全員が殺されるのを待っていた。

 逢沢くのりは自分の手で殺すと、そう決めていたのだ。

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