第4章 第3話 彼女の選択 その8
逢沢くのりは身を隠す事なく、むしろ存在感を際立たせるような堂々とした足取りで歩いてくる。
煙幕はすべて、風に押し流される。
呆然と見つめる龍二の視線に気づくが、意外にも表情は変わらなかった。
熱っぽい吐息で唇を濡らしながら、少女は上体を逸らすように背後を見る。
武器も手にせず、くのりは少女の横を通り過ぎようとする。
まるで、彼女の存在を気にも留めていないと言わんばかりだ。
視界にすら入っていないと思えるほど、僅かも視線を向けない。
「逢沢くのりっ」
通り過ぎようとするくのりの名前を呼び、少女はその肩に手を伸ばす。
だが、歩みを止めたくのりの視線を受け、手を止めた。
いや、その眼光に手が止まった。
「――あんたの相手は、後でしてあげる」
だから大人しくしていろと、無機質な視線が物語る。
感情の読めない平坦な声色だが、逆らえないと思わせる迫力を秘めていた。
少なくとも、彼女はその言葉に従うように、引きつった顔で一歩下がった。
それを見届ける事すらなく、くのりは龍二たちの下へ進む。
「あんた、今までなにしてたのよ」
「あいつらが動くのを待ってたの。さっきのスナイパーは排除してきたから、安心して」
「……もっと早くできなかったわけ? おかげで撃たれそうになったんですけど?」
「こっちの動きを悟られたくなかったの。そこは大目に見てよ」
くのりはそう言ってうてなの肩を叩き、少女を警戒するよう目配せする。言われるまでもないと、うてなは鼻を鳴らして応えた。
「奏さんは、どうしたの?」
「いろいろと面倒だったから、眠って貰ったわ」
「……まぁ、無事ならいいけど」
乱暴な深月の説明に、くのりは思わず苦笑する。互いに説明している場合ではないとわかっているが、今の説明はあまりにもひどすぎた。それを口にしたのがうてなであれば、くのりも苦笑したりしなかっただろう。
深月もそれがわかっているのか、自身の説明を恥じるように視線を逸らした。
そして、驚きすぎて口を半開きにしている龍二と目が合う。
当然と言えば、当然の反応だ。
くのりは逃亡者であり、深月とうてなはある意味、追跡者だ。
その三人が当たり前のように会話をし、一緒にいるのだ。
この場にくのりがいるのは当たり前だと、受け入れている。
龍二にとってそれは、あり得ない光景だった。
「……ど、どうなってるの? どうしてくのりが、ここに?」
「一時的に協力しているの」
「く、久良屋さんたちと、くのりが?」
「えぇ。情報を提供してくれたのも、彼女よ」
深月の話が本当かどうかを確かめるように、龍二は視線を上げる。
くのりは柔らかな笑みを浮かべ、静かに頷いた。
「龍二と奏さんを助けるのに、手が足りなくて」
「僕と、姉さんのために……で、でも、それじゃあくのりは――」
「私がそう決めたの」
それがくのりにとってどれほど危険な事なのかは、龍二でもわかる。
組織のエージェントに接触するだけでなく、共に行動するなど、逃亡者としては愚の骨頂だ。
身を隠し続けてきたくのりが、自分のためにリスクを冒して行動を起こした。
その事実に、龍二は苦しさを覚える。
どこかで僅かでも嬉しいと感じてしまう自分も、嫌だった。
悲痛な表情を浮かべる龍二に、くのりは肩を竦めて笑いかける。
なにも気にする必要はないと、優しく語り掛けるように。
「くのり――」
立ち上がった龍二の唇に人差し指を当て、くのりは続く言葉を封じる。
今は時間がないと、優しく諭した。
自身を納得させるように、龍二は小さく頷く。
「ここは私が受け持つ。あなたたちは予定通り脱出して」
「だ、ダメだよ! なに言ってるのさ!」
一度は納得して黙った龍二だったが、くのりの発言にすぐさま抗議の声を上げた。
その反応の早さにくのりは思わず吹き出す。
「わ、笑うとこじゃないよ! ここに残るなんて、それじゃあ囮になるようなものじゃないか」
「そのつもりで言ってるの。さすがにわかるでしょ?」
「わかるから反対してるんだよ。囮だなんてそんな……そんなこと……」
くのりの登場で忘れかけていた現実を思い出し、龍二は表情を曇らせる。
自分がなにかを言える立場ではないと、よくわかっていた。
感情だけで反対している自分が、どれほど幼稚で愚かなのかも、わかる。
悔しさに拳を握る龍二を、くのりは穏やかな目で見ていた。
「奏さんもいるんだから、龍二は逃げないと」
「だったらくのりも一緒に……」
「あいつの相手は、誰かがしないといけないでしょ」
その誰かを選ぶ事など、龍二にはできない。
選択肢に入る事すら許されないほどに非力な自分を、龍二はかつてないほど情けなく思う。
気を失っている奏を見つめて、龍二は歯を食いしばる。
くのりの言う通りなのだ。自分だけならともかく、これ以上奏を危険な目にも怖い目にも遭わせたくない。
「そういうわけだから、二人をよろしくね」
「いくらあなたでも無謀よ。三人で戦うほうが確実でしょう?」
深月の答えに、くのりは虚を突かれたように目を見開く。僅かも想定していなかった言葉だった。
驚いているのは、うてなも同じだ。まさか深月がそんな事を言うとは思っていなかった。
そして誰よりも驚いているのは、深月本人だった。
なぜ自分がそんな事を言ってしまったのか、わからない。
無謀だと思ったのは確かだが、だからと言って三人で戦うという選択肢はあり得ない。
今この場で、誰の安全を最優先にするのかは明白だ。
そのためには、すぐにでも龍二と奏を脱出させなければならない。
戦うだけなら三人でやるのが最善だが、守りながらとなると確実とは言えなくなる。
相手の正確な数も把握できてはいないのだ。
二人の安全を優先するのなら、選択肢は一つしかない。
「そっちの役目は、龍二を守ること、でしょ?」
くのりの声は、どこか楽しげに弾んでいた。予想外すぎた深月の言葉が、面白くて仕方がないのだ。
「戦うのは、私の役目。予定通り、任せてくれて構わない」
軽く腰に手を当て、くのりは不敵に笑ってみせる。
「それに、言ったでしょ。これは私の不始末だって」
だから自分が残って戦う以外の選択肢などないのだと、くのりは断定する。
深月は彼女に反対する言葉を持たなかった。
うてなも同じだ。
いざ戦うとなれば後れを取るとは思わないが、絶対に二人を傷つけず守り切れるとは言えない。圧倒的な戦闘力があればなんとかなる問題ではないと、痛感している。
「本当に、それしかないの?」
「うん。あいつはたぶん、殺す気で来てるから」
くのりはそう言って、暗い視線を注ぎ続けている少女を一瞥する。
以前とは雰囲気が違うと、一目でわかった。
彼女はもう、人を殺せるエージェントだと。
くのりが言わんとする事を誰よりも理解できているのは、龍二だった。
目の前で繰り広げられた惨劇は、今もまだ脳裏に焼き付いて離れない。
さっきだってそうだ。
くのりが現れなければ、本気で撃っていただろう。
なにも起こらなかった指を鳴らす合図は、くのりがスナイパーを排除していたからそうなったに過ぎない。
本来であれば、あの場で血が流れていたのだ。
「あいつだけじゃない。他にもまだ隠れてるやつらがいる。そいつらは全員、あいつと同じ。殺す気で来る相手に対して、あなたたちを守りながらじゃ戦えない。三人だとしても、ね」
龍二の目を見て語る言葉は、同時に深月とうてなに向けたものでもある。
この場で誰よりも冷静に状況を把握し、判断しているのは、逢沢くのりだ。
「やるなら、こっちもその気でやらないと、殺される」
装備一つとっても不利なのだ。
一人ずつ制圧しながら戦えるような相手ではない。
戦うのなら、殺さなくてはならない。
「それができるのは、私だけ」
僅かに目を細めて笑みを浮かべるくのりに、龍二は口を開く。が、言葉がみつからない。
彼女のそれは、人を殺すという宣言に他ならない。
そうしなければ切り抜けられないのだと、すでに決断している目だった。
強く、揺るぎない双眸。
龍二は彼女のそんな目に、憧れすら抱く。
だが今は、その強さが哀しい。
くのりはここに来るまで、すでにそのための準備をしてきた。
倒した兵士から銃と実弾もいくつか回収してある。
深月もうてなも、黙ったまま認めるしかない。
この状況であっても、自分たちには人を殺せないと。
「大丈夫。私だけなら、適当なところで逃げることだってできるし」
言うほど簡単な事ではないのは、素人である龍二でもわかる。
それでもくのりは、余裕だと証明するように笑ってみせる。
その表情が穏やかであるほど、龍二は感情をかき乱される。
まるで、人を殺すのは自分の役目だと受け入れているようで。
「あなたが助かるのなら、それでいいの。だから、逃げて」
今はこの方法しかないと諭すように、くのりは龍二の震える肩に手を乗せる。
「……君が、自分を犠牲にする必要なんて、どこにもないじゃないか」
わかっているが、龍二は込み上げてくる感情を抑え切れなかった。
肩に触れたくのりの手を握り、声を絞り出す。
「僕を助けにきて……囮に、なるとか……なんでそんな簡単に、言えるんだ」
震える指先をそっと握り返し、くのりは微笑む。
「じゃあ、奏さんを危険な目に遭わせてもいいの? よくないでしょ?」
くのりの言葉に、龍二は唇を噛む。役に立てない、決断する事すらできない無力さに打ちひしがれる。
卑怯な言い方をしていると、くのりは自嘲する。
だが、今はこうやって言い聞かせるしかない。
「それでいいの。今は、龍二が決断する時じゃない」
「――僕はっ」
「でも、その時は来る。龍二が決めなくちゃいけない時が、必ず」
くのりの真っ直ぐな言葉が、龍二の鼓動を強くする。
大切な感情が込められた言葉が、静かに宿る。
「だから今は、私が決断するの。あなたのために……」
たとえそれが、人を殺す事だとしても。
愛おしげに握られた指から、決意と共に熱が伝わる。
偽らざる気持ちが、そこにはあった。
自分を犠牲にするのは、龍二のためだと。
今更隠すつもりなどない。
そのためだけに、くのりは生きている。
龍二もそれを、哀しいほどにわかってしまう。
「――――くのり」
だから龍二は、キスをした。
くのりの肩を抱き寄せ、顔を真っ赤にして、目を閉じたまま、押し付けるだけの不器用なキスだった。
「…………」
くのりは一瞬、なにが起きたのかを理解できずにいた。
別に初めてのキスではない。
誘拐した時も、文化祭の前日にもした。
けれど、龍二からキスをしたのは、初めてだった。
互いに好きだという気持ちは通じ合っていたし、くのりもそれを疑うつもりなどなかった。
が、龍二からキスをしてくれるような甲斐性があるとは、思っていなかった。
だから、驚いて理解が遅れる。
「――――っ」
理解した瞬間、感情が沸騰した。
龍二の頭部に腕を回し、押し付けられた唇を舌で押し退け、咥内へと潜り込ませる。
きつく閉じていた目を、龍二は見開く。
なにが起きているのかを、今度は龍二が理解できなかった。
しかしくのりは、龍二の理解を待つつもりなどない。
身を寄せて唇を啄みながら、潜り込ませた舌を龍二のそれに絡みつかせる。
甘い唾液と、僅かに血の味がする。
それすら構わず、くのりは龍二の咥内へと舌を伸ばした。
甘噛みし、絡めて、吸い付く。
咥内から全身へと広がる快感に、龍二はようやく応える。
不器用ながらも、くのりの舌に合わせて龍二も動かす。
互いの存在を確かめ合うような、濃厚なキスだった。
永遠にも感じられた時間は、およそ一分。
荒い呼吸と火照った視線を交わらせながら、静かに唇が離れる。
深月とうてなは、ただただ呆気に取られていた。
そんな二人の事など忘れてしまったかのように、龍二とくのりは見つめ合う。
大きすぎる鼓動が、耳に痛い。
肩で息をする龍二を、くのりは幸せに満ちた目で見つめる。
「……これは、癖になるかも」
咥内に残った龍二の唾液を味わうような、艶やかな声だった。
龍二は照れくさそうに頬を緩めるが、すぐに表情を引き締めて口を開く。
「僕のため、なんだよね……?」
「……うん」
なにが、などと確認する必要はない。
くのりがこれからやろうとしている事は、たった一つ。
「わかった。だったらそれは、僕のものだ」
龍二の声は、哀しみに彩られて揺れている。
だが、そこに込められた意思は、確かなものだ。
「君がこれからすること……人を傷つけて、殺すしかないのなら、それは全部、僕のせいだ」
「違う。龍二が背負うものじゃない。私の意思でやるだけだよ」
「でも、僕のためなんだろ? だったらそれは、僕の罪だ」
なにもできないと理解しているからこそ、龍二は退かない。
これだけは譲れないと、くのりを見つめる。
「僕のために、君はその手を汚すんだ。全部、僕のために……」
それでなにが変わるわけでもないという事も、理解している。
でも、今の龍二には、それしかないのだ。
「君の罪は、僕のものだ」
「龍二、ダメ。そんなこと私、望んでなんか――」
「うん。これは、僕の望みだ。君の罪を、僕が背負う。それくらいは、いいだろ?」
我がままを押し付け合うのはお互いさまだと、龍二は笑う。
振り回されてばかりの龍二が、初めて見せた反撃だった。
くのりは、困ったように笑う。
けれど、どこか嬉しそうに瞳を潤ませる。
「……仕方ない。じゃあ、龍二にあげる」
好きにすればいいと、くのりは龍二に背を向ける。
それを合図に、深月とうてなは動いた。
奏を抱き上げて深月が倉庫に入り、くのりとすれ違うようにして、うてなは龍二を肩に担ぐ。
「く、くのり!」
うてなに担がれた情けない格好で、龍二はその名を叫んだ。
「またね、龍二」
まるで、学校からの帰り道で別れる時のように、くのりは笑顔で手を振る。
まだなにか言いたげな龍二に構わず、うてなは倉庫のドアを閉めた。
背中に、哀しみを詰め込んだような龍二の声を聞きながら、脱出口へと飛び込んだ。
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