第4章 第3話 彼女の選択 その2

 頭部を覆っていた布が外され、龍二はようやく視界を取り戻す。

 そのまま有無を言わせず、両手を後ろで縛られたまま、薄暗い部屋の椅子に座らせられた。

 車に乗せられている間にどれくらいの時間が経過したのか、龍二にはわからない。一時間程度にも思えるが、数時間が経過したようにも感じていた。

 途中で別の車に乗り換えさせられたので、どれくらい遠くに連れて来られたのかも、さっぱりだった。

「お前たちは外の警備に回れ」

 龍二の前に立った金髪の男は英語でそう言って、軽く手を振る。

 素直に従う男たちの様子を見て、この壮年の男がリーダー格なのだろうと龍二もすぐ理解した。

 ネイティブな英語でなにを言ったのかが聞き取れず、龍二の中で不安が膨れ上がる。

 見た目もそうだが、こうして実際に英語で指示を出す姿を見ると、委縮してしまう。

 深月やうてなとも違う、日常からかけ離れた異質な存在に戸惑うのは、仕方のない事だった。

「ね、姉さんは無事なのか?」

 それでも龍二は、ありったけの勇気をかき集めて男を見上げた。

 自身の事よりも、まず最初に確かめなければならない、大切なことだ。

 リーダーの男は龍二の日本語を聞き取れず、僅かに顔をしかめる。不快や敵意ではなく、誘拐された少年が自分からなにかを言った事に、少なからず驚きがあったのだ。

 だが、すぐに思い直す。

 目の前の少年が情報通りのターゲットであれば、組織のプロジェクトに関わる重要な人物なのだ。

 詳細なデータはないが、エージェント並みの戦闘力を有しているからこそ、どこか余裕があるのかもしれない。

 むしろ、その程度の能力は備えていると想定して対応するべきだ。

 なにもないただの子供が、専用の護衛までつけられているはずがないのだから。

 あるいは、存在そのものに価値があるのかもしれない。

 どちらにせよ、確かめなければならない。

 リーダーの主観では、ただの子供にしか見えない少年が、何者なのかを。

「ターゲットで間違いはないか?」

 彼は龍二から視線は逸らさず、僅かに顔を後方へと向けた。

「えぇ、間違いない。そいつがターゲットの安藤龍二よ」

 それに応える声は、部屋の奥から聞こえてきた。しかしなぜか英語ではなく、日本語だ。

 どこか愉快な色を含ませたその声に、龍二はハッとする。

 今の声は、電話越しに龍二を脅してきた少女のものだ。

 同時に、なにかが脳裏を掠める。

 彼女の声はどこか別の場所で、聞いた事があるような気がする。

「…………まさか」

 嫌な予感と共に、記憶が呼び起こされる。

「写真とはイメージが違うだろうけど、ね」

 その記憶に間違いがないと証明するように、少女は姿を現す。

 龍二を見下ろす視線は、暗い感情を灯していた。

「き、君は……ど、どうしてここに」

 混乱しながらも少女を認識した龍二は、唾を飲み込む。

 狼狽する様子を楽しげに見ながら、少女は手を伸ばして龍二の頬を撫でる。

「あなたとこうして会うのは、これで三度目ね。椅子に縛られるのはもう慣れた?」

 笑えない冗談だが、少女が言う通り、彼女と会うのはこれが三度目だ。

 夏休み前に二度、会っている。

 奇しくも状況は、その時とほぼ同じだ。

「捕まってるはずじゃ……」

 信じられないと首を振る龍二に、少女は意味深な笑みを浮かべてみせる。

 ゾッとするほど冷たく不気味な笑みに、龍二は強烈な悪寒を覚えた。

 彼女は、逢沢くのりに協力し、龍二を二度にわたって誘拐したあの時の少女だった。

 うてなに打ち倒され、組織に拘束されたはずの少女が、目の前にいる。

 予想だにしなかった少女の登場に、龍二の思考はかき乱されてしまう。

 捕まっているはずの少女が、また自分の誘拐に関わっている。

 いくつもの『なぜ』が脳内を駆け巡り、ぶつかり合う。

 その様子が愉快だとばかりに頬を歪め、少女はリーダーの男に英語で耳打ちする。

 リーダーの男は少女の言葉に頷き、主導権を譲るように一歩引いて壁に背中を預けた。

「君が姉さんを……そ、そうだ。姉さんを解放しろ!」

 どうにか混乱から立ち直った龍二は、最初にやるべき事を思い出した。

 電話をしてきたのが彼女ならば、あの写真を送って来たのもきっと彼女だ。

 なら、奏を誘拐して拘束したのも、彼女のはずだと思い至ったのだ。

「そんな約束はしてなかったと思うけど?」

「ふざけるな! 目的は僕だろう? だったらもう姉さんは必要ないはずだ」

「本当にそう思う? 使い道はまだあると思うけどなぁ、誘拐犯的には、さ?」

「姉さんには手を出すな!」

 あからさまな安い挑発だが、今の龍二は冷静に受け止める事などできずに声を荒げる。

 龍二は激しい後悔と共に、自分だけではなく、奏を巻き込んだ犯人に対する強い怒りも覚えていた。

 目の前にそれを実行した相手がいては、冷静になどなれない。

「もう手遅れかもね。ほら、よくあるものなんでしょ? 映画とかでさぁ、誘拐された女が――」

「――お、お前っ!」

 火に油を注ぐような少女の下卑た声に、龍二は椅子から立ち上がろうとする。

 その額に、少女は無言で銃口を突きつけた。

 まるでいつかの夜の再現だった。

 違うのは、龍二が少女に対して確かな敵意を向けているという点だ。

「怯えないんだ。少しはらしくなってきたって感じ?」

「なんの、話だよ……」

 銃口を突きつけられても怯えず、それどころか牙を剥きそうな龍二に対し、少女はますます楽しげに唇を歪ませる。

「あなたが言ったのよ? 誘拐のセオリーを忘れるのが悪いって。だから勉強したの」

「姉さんは、無事なんだろうな?」

「さぁ、どうかしら? なんなら、監視カメラの映像でも確かめてみる? もしかしたら今頃ちょうどよく――」

「――うっ、ぐぅっ!」

 激昂して叫ぼうとした龍二の口に、少女は銃口を押し込んで黙らせる。額に突きつけられるよりも確かな死が、咥内に広がっていた。

 それでも龍二は、一切怯む事無く少女を睨みつける。

 怒りに沸騰した思考が、突きつけられた絶対的な暴力を塗り潰していた。

 少女の笑みは、すでに狂気を孕みつつある。

 龍二が怒り狂うほど、それは少女にとって上質な媚薬の如く作用する。

「そこまでだ」

 反発する龍二の喉へと銃口を押し込もうとした少女に、壁際の男が冷や水のような声をかける。

「遊びがすぎる。余計なことはするな」

「……わかってる」

 少女は肩に触れそうだった男の手を打ち払い、引き下がるように銃をホルスターにしまった。

 銃から解放された龍二は荒い息を吐きながら、男を見上げる。彼の目は感情の色を見せる事はなく、静かに龍二を見据えていた。

「女は、無事だ。危害は加えていない」

 部分的にしか聞き取れなかった龍二は、訝しげに眉を顰める。

「無事だって言ったのよ」

 彼の背中から顔を覗かせ、少女は嘲るように鼻を鳴らした。先ほどのやり取りはただの冗談だとでも言いたげに。

 龍二はようやく、自分がからかわれていたのだと理解する。それでも彼女に対する怒りは、まだ腹の奥で煮えたぎっていた。

 リーダーの男は懐から取り出した端末で、誰かに連絡を取る。

 最低限の言葉で連絡を済ませ、龍二の顔を改めて観察する。手元に手繰り寄せたタブレットの情報と見比べ、目を細めた。

 確かに人違いではないようだが、やはり目の前の少年がターゲットであるとは、にわかに信じられない。

 情報から感じ取れる空気とは、なにかが違っているのだ。

 背後でコンピューターを操作している少女に顔を向ける。

 その視線に気づいた少女は、改めて間違いはないと頷いてみせた。

 男はまだ納得がいかないと言いたげだったが、少女がそう言うのなら受け入れるしかないとため息を吐く。

 腑に落ちない点はあるが、ターゲットと実際に会った事があるのは彼女だけだ。

 その彼女が間違いないというのなら、そうなのだろうと納得するしかない。

「来たか」

 男は開いたドアを確認して頷くと、龍二が座っている椅子を半回転させる。

「ね、姉さん!」

 その先にいた奏の姿を見て、龍二は思わず声を上げた。

 見張りをしていた男が、リーダーの連絡を受けてこの部屋まで連れてきたのだ。

「りゅ、龍君……?」

 極度の恐怖と緊張に憔悴していた奏は、龍二の姿を認識して、掠れた声を漏らす。

 夢か幻覚を見ているのかと思い、首を傾げる。

 それも当然だった。奏にとって、このような場所に龍二がいるとは、微塵も想像できない事態なのだから。

「あぁ、良かった。無事だったんだ……本当に、姉さん……」

「わ、私……龍君? 本当に、龍君なの?」

「そうだよ、僕だ。もう大丈夫だよ、姉さん」

 少しずつ実感を得て潤んでいく奏の目を、真っ直ぐに見つめる。

 縛られた状態ではなんの説得力もないとわかっていながら、龍二はそう言わずにはいられなかった。

 今この状況で奏の拠り所になれるのは、自分しかいないのだと、精一杯強がる。

「龍君……わたし……どうして……ここは……」

「大丈夫だ。なにも心配しなくていいよ。姉さんはもう、大丈夫だから」

「大丈夫? でも……なに? どういうこと?」

「それは……」

 当たり前の疑問を投げかけられ、思わず言葉に詰まってしまう。

 どこからどう説明すればいいのかなど、考えてもいなかった。

 いや、考えないようにしていた。

 自分が狙われていることは、秘密にしておきたい。

 ましてや奏は、自分のせいで巻き込まれたのだとは、知られたくはなかった。

「説明はあとでするよ。でも、もう大丈夫」

 とにかく今は、奏が無事で良かったと胸を撫でおろす。

 見たところ、危害を加えられたような形跡はない。

 精神的な疲れは見て取れるが、そんなものは当然だ。

 わけもわからず誘拐されていたのだから、疲れないはずがない。

 奏の無事を確認できた事で、龍二も多少冷静さを取り戻していた。

 一番懸念していた事は、これでなくなった。

 あとはこの後、どうなるかだ。

「さっきも言ったけど、もういいだろう? 姉さんだけでも解放してくれ」

「だからそんな約束はしてないでしょ」

「お願いだよ。僕がいればそれで十分だろう? 姉さんは関係ないんだ」

「でも、顔見られちゃってるしなぁ」

「あんたは……っ」

 彼女と話してはダメだとわかっていても、交渉できそうな相手は他にいない。

 再燃して込み上げてくる怒りを、龍二は必死に押し殺そうと唇を噛む。

「龍君、どういうことなの? この人たち、知ってるの?」

 背中にかけられた不安げな奏の声に、龍二は声を詰まらせる。

 目の前でこんな話をすれば、疑問に思うのは当然だ。

「知りたいってさ。どうする?」

 龍二の葛藤を見透かしたように、少女が歪な笑みを浮かべて首を傾ける。

 隠したままではいられないとわかっているのに、まだ迷いが残っていた。

 奏が誘拐されたと知った時とは、また違う恐怖を覚える。

 別の意味で、奏という大切な人を失ってしまう予感が、龍二の胸を刺す。

 だが、このままでは助けられない。

 そう、わかっているのに、声が出なかった。

「君たちに、従う。だからお願いだよ……姉さんだけは、すぐに解放してくれ」

 人質になどしなくとも従うと、龍二は頭を下げる。

 縛られた状態では満足にできないが、今できる事はそうやって恭順の意を示す事くらいしかない。

 言葉は通じなくとも、リーダーの男にもそれは伝わる。

 龍二が安藤奏の身を案じ、彼女のためならば自身の事などどうでもいいと思っている事は。

 拭いきれないこの任務への不快感を押し殺し、リーダーの男は思案する。

 仮にこの場で解放したとしても、この少年は従うだろう。

 少なくとも国外に脱出するまでは、そうするはずだ。

 そうしなければ、再び安藤奏の身に危険が及ぶという事くらいは、理解できているだろう。

 安藤奏を拘束したまま移動するリスクとそれを比べ、どうすべきかを考える。

「結論を出す前に、面白いもの、見せてあげる」

 この場にそぐわない明るい声で、少女がコンピューターを操作する。

 ブラックアウトしていた部屋の大型モニターが起動した。

「なんのつもりだ?」

「あなたも知りたがってたでしょ? こいつの……安藤龍二が何者なのかって」

 それを見せてあげる、と少女は嗤う。

 リーダーの男は僅かに眉を上げ、少女とモニターを見比べる。

 無駄に時間を消費している場合ではないが、確かに興味がある。

 本当に安藤龍二がターゲットなのかという、確証が欲しくもあった。

 言葉ではなく、確かななにかが。

 それを見せてくれると言うのなら、無駄な時間ではないだろうと判断し、頷く。

「前は、そう……僕は僕だって言ったわね?」

「……それ以外に、なにがあるんだ」

 少女は言葉では応えず、顔を手で覆いながら肩を揺らす。指の隙間から覗く目が、喜色に煌めいていた。

 彼女がなにを見せようとしているのかはわからないが、龍二自身も興味はあった。

 自分が何者なのか。

 それはずっと考えてきた事なのだ。

 狙われる理由、くのりが言った寿命。

 その答えが、僅かでもわかるのなら。

 龍二はチラリと、背後の奏を見る。

 理解できない事だらけの状況に、奏は迷子のようだった。

 だが、龍二にはどうする事もできない。

 奏を外に出すよう言っても、聞き入れられるわけがない。

 それに、目の届かない場所に連れて行かれたら、また不安になるだけだ。

 なにより、一緒にいるほうが、絶対にいい。

 もうすぐ……もしからしたらこの瞬間にも、彼女たちが助けに来てくれるかもしれないのだから。

 奏が無事でいられる事を優先し、龍二は恐怖を噛み殺す。

 自分がなにを恐れているのかも、よくわからないまま。

「――これが、あなたよ」

 少女の指が軽やかにキーボードを叩き、その映像を大型モニターに映し出した。

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