第3章 エピローグ
身体に染み込むような熱いシャワーを止め、逢沢くのりは浴室のドアを開ける。
広がる湯気に紛れるようして、小綺麗な脱衣所へ裸のまま出た。
白い肌をいくつもの水滴が滑り落ちて、見た目だけは高級感のある床に彼女の足跡を残す。
くのりが今いるのは、繁華街から少し外れた路地にある、悪趣味な名前の小さなホテルだ。
本来であれば男女が揃って利用する、いわゆるラブホテルと呼ばれる施設になる。
組織に追われる身である彼女が休める場所は限られている。こういった施設は、身を隠しているくのりにとって都合が良く、これまでも利用していた。
龍二を誘って来る機会があれば面白かったのにと、一人で頬を緩めながらタオルで濡れた髪を拭く。
荒々しく動かしていた手を止め、くのりは湯気で曇った無駄に大きな鏡を拭く。
そこに映る見慣れた自身の顔を見てから、視線を少し下げる。
鎖骨より少しだけ下の、健康的に膨らんだ乳房との間にある傷痕を見ながら、手を伸ばして触れてみる。
その傷を負ったのは、数ヶ月前の嵐の夜だった。
神無城うてなと戦い、手も足も出ず、完膚なきまでに負けたあの夜。
戦いを終わらせたのは、応援に駆け付けた別のエージェントが放った銃弾だった。
完全に不意打ちで銃撃されたくのりは、荒れ狂う海にそのまま飲み込まれた。
あの状況から生還できたのだから、この程度の傷は安い代償と言える。
嵐の海に落ちたくのりは、その時点で意識を失っていた。助かったのは、本当にただの偶然としか言いようがなく、それはもはや奇跡と呼べる領域だ。
「どうせなら、もっと気が利いたときに起きて欲しかったけど」
自嘲するように言いながら、初めて負った決定的な傷を撫でる。
生傷の絶えない生き方を強いられてきたが、身体に傷が残ったのはこれが初めてだ。
染み一つないくのりの身体に、唯一刻まれた醜い傷痕。
まっとうな治療を受けられる状況ではなかったのだから、この程度ですんで儲けものだと考えるべきだ。
そもそも、傷痕が残ったからといって、気にする必要などない。
ただ、彼には見せたくないと思ってしまう自分に、くのりは苦笑する。
本当に、呆れるほどエージェントらしからぬ思考だ。
あの夜、くのりが意識を取り戻した場所は、あそこから少し離れた海岸だった。
人気のない場所に打ち上げられていたくのりは、痛みで目を覚ました。
銃弾を受けた胸元は当然として、全身のあらゆる箇所が悲鳴を上げそうなほどに痛かった。
神無城うてなに受けたダメージとは別に、打ち上げられるまでどこかにぶつかったりしたのだろう。足を骨折していなかったのは、不幸中の幸いだった。
九死に一生を得たと理解したくのりは、少なからず強靭な肉体を与えられていた事に、初めて感謝した。
そうでなければ、間違いなく死んでいただろう。
奇跡的に打ち上げられていたとしても、意識を取り戻す事などできなかったはずだ。
どうにか歩く事ができたくのりは、まず傷を癒すために時間を費やした。
いくつもの薬局や病院から少しずつ必要な物を集め、自分でできる範囲の応急手当てをした。
あらかじめ用意していた逃走手段は使えず、緊急用に準備しておいた隠れ家や道具も使えなかった。
すぐ組織に生存していると気づかれては、体勢を立て直す事もできなくなる。
組織に気づかれず治療を済ませるのは非常に苦労し、結果として傷痕は残る事になったのだ。
政府と浅からぬ繋がりを持つ組織の目を掻い潜るには、非合法な集団に頼る必要があった。
ひたすらに面倒でじれったいだけの日々だったが、二ヶ月ほどで動けるまでには快復できた。
安全を考えるのなら、そのまますぐに国外へ一度脱出するべきだったが、くのりは危険を冒して、龍二に会いに行った。
それがあの、文化祭の前日の再会。
たった数分とはいえ、龍二を一人きりにするのは苦労したが、その甲斐は十分すぎるほどにあった。
くのりが生きていると知って安堵し、嗚咽を漏らした龍二の姿が、今でも目に焼き付いている。
いつも通りに振舞う事が難しくなるほどに、彼は喜んでくれた。
その顔が、どうしても見たかったのだ。
あの夜、銃撃されて波に呑まれた直後、確かに聞こえた。
届くはずのない、彼の悲痛な叫び声が。
だから、会いに行った。
彼を悲しませたまま逃げる事など、どうしてもできなかった。
そこで終わってしまう危険があったとしても、もう一度彼に会っておきたかった。
会って、なにも変わらない笑顔で、いつものように冗談を言って、笑わせたかった。
自分は生きていると、伝えたかったのだ。
その甲斐があったかどうかは、彼の顔が物語っていた。
去り際に悪戯じみたキスをしたのは、完全に予定外。
そんな余裕など全然なかったのだが、ダメだった。
彼の顔を見て、声を聞いて、触れたら我慢できなかった。
もしかしたら、それっきり会えないかもしれないとわかっていたから。
もう一度、キスをしたかった。
その後は、予定通りに国外へ一度出て、海外にある組織の関連施設に潜入を繰り返した。
ろくな装備も伝手もない状態だったが、伊達に特別視されるほどのエージェントだったわけではない。
安藤龍二が直接かかわらなければ、今でも逢沢くのりは優秀なエージェントなのだ。
もちろん、行動を起こせば起こすほど、組織に生存を察知される可能性は高くなる。
が、その段階までくればもうあまり気にする必要はなかった。当然、気付かれないに越したことはないが。
ただ隠れているだけでは、なにも得られない。
くのりに残された時間は、あと半年足らず。
くのり自身の時間もそうだが、安藤龍二の件もある。
彼のためにも、どうにかしなければならなかった。
どうにかできる可能性があるのかどうかを、ひたすらに探っていた。
だが、結論は一つ。
打つ手はなく、残された時間は変わらない。
できる事などなにもなく、ただその時が来るのを待つだけ。
その事実に辿り着いた時、くのりは絶望も落胆もしなかった。
きっとそうなのだろうとどこかで思いながら、それでも足掻いていただけなのだ。
「でもまだ……あの女なら」
くのりがこの国に戻って来たのは、諦めたからではない。
ただ一つ……いや、ただ一人、なにかができる可能性を持つ人物が、この国にいるからだ。
組織の中心であり、全ての元凶ともいうべき女性。
博士と呼ばれるあの女性だけが、解決策を知っているかもしれない。
そう、それでも結局は『かもしれない』だけだ。
だが、可能性はある。
全てを仕組んでいるのは、あの女なのだから、とくのりは鏡を睨みつける。
国内に戻って来たくのりは、過去に自分が遂行した任務について調べた。
そこにはもちろん、任務として殺害したターゲットたちの情報もある。
なぜ彼らがターゲットに選ばれたのかがわかれば、新しいなにかが見えてくるかもしれないと考えたからだ。
しかし、組織との繋がりを示すような情報は一つも出て来なかった。
どのターゲットも、組織とはなんら関係のない人物ばかりだ。
敵対する組織に関わりがあるわけでもない。
有益な情報など一つもないかに見えたが、そこにくのりは違和感を覚えた。
繋がりがなさすぎる事が、逆に不自然だと思えた。
だから一つの仮説を思いついたのだ。
組織がどこからか依頼を受け、殺人を肩代わりしたのではないかと。
彼らが殺害される事で利益を得る組織や人物。
それらを調べていくうちに、仮定は確信へと変わっていった。
ではなぜ、組織は殺人の肩代わりなどというリスキーな依頼を引き受けたのか。
それは依頼主の弱みを握るためだろう。
共犯者、共犯組織と言ってもいい。
エージェントとしての性能をテストするついでに、組織としての発言力を盤石なものとする絶好の機会。
くのりをはじめとする数名のエージェントは、そのためのコマにされたのだ。
今更その事に文句を言おうとは思わない。
くのりたちは最初から、不純な動機で生み出された存在なのだから。
けれど、くのりは胸の奥に燻る、新しい感情に気づいた。
自身がターゲットとして殺害した人物の情報を集めていく中で、徐々に積もっていった感情だった。
彼らには、人生や家族があった。
今でも悲しみにくれている遺族の姿を、遠目に確認もした。
そこまでする必要などなかったはずだが、くのりはそうしてしまった。
知らなければいけないと、感じたからだ。
命と一緒に奪ってしまったものを、くのりは初めて知った。
自分の事ばかりで、考える事すら放棄していた真実を知った。
知らないままでいたほうが楽だったのだろうと、今でも思う事はある。
だが、知ってしまった。
無視する事は、できない。
かつては存在すらしていなかった感情が渦巻き、罪を意識する。
しかし、ならばどうすればいいかなど、くのりにはわからなかった。
過去の事件は全て事故、あるいは犯人がすでに捕まり、裁かれている。
くのりが償うべき罪は、法的にはすでになくなってしまっていた。
それ以前に、組織のエージェントであるくのりに法は適用されない。
存在すら、組織の後ろ盾がなければ認められないのだ。
まるで幽霊のようだと、くのりは自嘲する。
だとしても、意識してしまった事実と感情が、呪いのように纏わりついていた。
くのりはそれを振り払う事はせず、温もりを失い始めた身体に新しいタオルを巻いて脱衣所を出た。
滑稽なほど煌びやかな部屋に戻り、くのりはベッドに倒れ込む。
日本に戻ってきて、今日で一週間。
組織にはもう、生存していると悟られただろう。
可能な限り手は打っているが、それももはや限界だ。
行動を察知される事を覚悟の上で、くのりは戻って来たのだ。
このまま逃げ回っているだけでは、なにも解決しない事は明白だった。
どう行動を起こすにせよ、ここでなければ意味がない。
これから先、どんな結果が待っているのかを考えれば、それでも逃げ出したほうが楽かもしれない。
「……龍二」
愛しい少年の名を呟きながら、横にした身体を抱き締める。
弱気な考えが浮かぶたび、くのりはそうしてきた。
彼を想えば、笑えるほど力が湧いてくる。
――君は、何者なの?
くのりが正体を明かした時、龍二はそう問いかけてきた。
悲しみを宿した瞳で、懸命に向き合おうとするような、真っ直ぐな視線だった。
「逢沢くのり、だよ……」
あの時と同じように、くのりはひとり呟く。
彼は誤魔化されたと思っただろう。それは当然だ。
逢沢くのりという名前を、どんな気持ちで口にしたのか、彼にはわからない。
それがどんな意味と価値を持つのかは、おそらくくのり自身にしか、わからない。
最初からその名前を与えられていたわけではない。
訓練と任務をこなしていく日々の中で、ある時、博士と呼ばれる女性に突然与えられた名前だった。
名前と言うのは、正確ではない。
個体を識別するための、新しいコードネームだ。
逢沢くのりという名前の意味すら、ただの戯れを含んだ記号。
それが『A』であっても『B』であっても、違いなどない。
個体名を授けられるのは一部のエージェントに限られ、中にはそれを誇りと思い、目指す者もいた。
だが、彼女にとってはどうでもいい事だった。
任務をこなす上で名前を必要とする場面は、ただの一度もなかったからだ。
高校生として潜入する時になって、初めて有効利用できたが、当然、愛着など湧くはずがない。
逢沢くのりと名乗って潜入し、生活するようになっても、心底どうでもいい記号だった。
それが変わったのは彼――安藤龍二が、呼んでくれたからだ。
最初はそう、『逢沢さん』と呼ばれていた。
少しずつ話すようになって、自然と一緒にいる時間が増えていって、そしてある時から、『くのり』と呼んでくれるようになった。
「ま、呼ばせたのは私だけど」
他愛のない会話の流れで、彼に強要したのだ。
自分も龍二と呼ぶからそうしろと。
あの時の彼の顔は、よく覚えている。
真っ赤な顔で、落ち着きがなく、視線をそこかしこに動かしながら、掠れるような声で呼んでくれた。
決定的に変わったとすれば、あの瞬間だろう。
安藤龍二が名前を呼んでくれたあの時から、くのりにとってそれは記号ではなく、大切な名前になったのだ。
彼の声で紡がれる自分の名前が、たまらなく愛おしい。
戯れにつけられたはずの記号が、かけがえのない宝物になった。
彼がその名前に、意味と価値をくれた。
彼が呼んでくれる時にだけ、価値を持つ名前だ。
「私は、貰ってばっかりだ……」
彼がくれたものは、他にもたくさんある。
それらは全て、かたちあるものではない。
想い出と呼ばれる記憶と、いくつもの感情。
そのどれもこれもが、眩しくて、愛おしい。
中でもひと際輝きを放つ想い出は、やはり最初の文化祭の、看板づくりをしていた時だ。
好きだと、恋をしているのだと自覚してしまった、あの瞬間。
自分の鼓動を感じたのは、あの時が初めてだった。
一度として意識した事などなかった。
心臓がそこにあると自覚し、同時になにかを感じている自分の中心だと、理解した。
「――――っ、くっ」
胸を焼くような痛みと共に込み上げてきたそれに、くのりは身を捩って口元を押さえた。
ベッドから転がり落ちたくのりは、床でのたうつようにして何度も咳込む。
ようやく収まった発作に息を吐き、くのりは口元を押さえていた手を見る。
「……上等」
鮮血に染まった自分の手を見て微笑んだくのりは、血と共に吐き出された弱音を握り締める。
残された時間は、思ったよりもきっと短い。
定期的な検査のたびに与えられていた薬がなくなって、すでに二ヶ月以上が経過している。
おそらくは、あれがくのりたちの身体を管理しているものなのだろう。
逃亡したエージェントがどうなるのかは、よくわかった。
放っておけば、遠からず朽ち果てる。
それが嫌なら、組織の庇護下に戻るしかない。
しかしくのりは、それを選ぶつもりなどさらさらなかった。
あの嵐の夜に告げた通りだ。
――欲望のままに、生きるだけ。
そして最後は、彼のために、死んでやる。
その意思だけは、決して変えない。
「……まだ、生きてる」
自身の胸に手をあて、鼓動を感じる。
そうだ。ここにある鼓動は、間違いなく自分のもの。
モルモットであろうと、観察対象であろうと、組織の道具であろうと。
「だから、足掻ける……」
立ち上がった拍子に、身体に巻いていたバスタオルが滑り落ちる。
「――――私は、私だ」
決意を秘めた双眸を閉じ、くのりはそう呟いた。
自分自身を奮い立たせ、前に進んで、生きるために。
――秋が終わり、本格的な冬が来る。
師走を迎えた街は、年の瀬に向けて落ち着きがなくなっていく。
安藤龍二もまた、そんな街で、変わらない時間を過ごしていた。
――そして十二月のある日、なんの前触れもなく、安藤奏が姿を消した。
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