第3章 第4話 SIGNAL その5

「右から回り込む!」

 うてなの声を合図に、龍二は逆サイドから飛び出して相手の背後を取る。

 初弾は外してしまうが、そのまま微調整して相手を背中から仕留めた。

「ナイス!」

 勝敗を決めたその一手に、うてなは満面の笑みを浮かべて手を上げる。

 龍二も楽しげに頬を緩ませ、掲げられたうてなの手を軽く叩いて応えた。

「……飽きないものね」

 二人の背後から部屋に入ってきた深月は、その様子に小さくため息を吐いた。

「お疲れー」

「お疲れ様、でいいのかな?」

 振り返る二人に軽く手を上げて応え、深月は鞄を空いているソファに置く。

 作戦基地の地上部分、そのリビングで龍二とうてながゲームに興じている状況に、深月はもう驚く事はなかった。

 最近ではもう、三日に一度はこうして龍二が来ている。

 ほとんどの場合、うてなが龍二を呼び出して付き合わせている。頻繁に呼びすぎだと思うが、許可が出てしまっている以上、あまり強く咎める事はできなかった。

 小言もすでに言い飽きてしまった深月は、冷蔵庫からペットボトルを取り出し、のどを潤す。

 二人は次のゲームが始まったらしく、リビングに並んでいる二つのディスプレイに向き直ってコントローラーを握っていた。

 龍二を誘ってよくゲームをするようになったうてなは、わざわざ龍二用のディスプレイとゲーム機を新たに購入したのだ。

 さすがに経費でとはうてなも言わず、自腹を切ったのだが、深月としては理解しがたい事だらけだった。

 その方が連携を取りやすいとうてなは言っていたが、ゲームをプレイしない深月には今一つ意味がわからなかった。

 二人の背中が良く見える椅子に座り、ゲームの状況に一喜一憂する様子を眺めながら、包帯の巻かれた右手に触れる。

 壁を叩き続けて傷を負うなど、バカげた事をしたと自嘲する。

 衝動に任せて振舞うのは、あれが初めてだった。

 なにをしているのだろうと冷静になれたのは、拳の痛みを感じなくなってからだ。

 応急手当を済ませ、念のため包帯を巻いてきたが、龍二には気づかれたくないと思い、二人からは見えない位置に右手を隠す。

 龍二のプレイミスを指摘するうてなの横顔は、実に楽しそうだ。

 ああいった顔も、随分と見せるようになった。

 あれがうてな本来の表情なのかもしれないと、外から見ている深月は思う。

 組織に保護されてからの十年、彼女との接点はほぼなかった。話をした事も、当然ない。

 すれ違ったりする程度の事なら、幾度かはあったが。

 あの頃と比べたら、まるで別人だ。

 別の世界に一人で放り出されたのだから、当然と言えば当然だ。

 龍二に対して気を許しているのは間違いない。

 護衛対象に過剰な肩入れをするのは本来、エージェントとして褒められたものではない。

 任務のため、最善の方法を選び続けるためには、個人的な感情は足枷になる。

 が、守ろうという強い感情がプラスに働く事もあるのではないかと、深月は最近思うようになっていた。

 エージェントの資質としてどちらが正しいのか、今は自信をもって答える事ができない。

 うてなに肩を小突かれて苦笑する龍二の横顔も、自然な表情に見える。

 自然で、無理のない笑顔。

 あの事件の直後は、あんな風に笑えてはいなかった。

 何度も泣いていたという報告も受けている。

 それほどまでに、逢沢くのりという存在は、安藤龍二にとって特別だったのだ。

 いや、今でもそれは変わらないのだろう。

 彼の笑顔には時折、痛みに耐えるようなノイズが混じる事がある。

 ふとした瞬間、何気ない日常のひとときに。

 それを見るたび、深月は不思議な感情を覚えていた。

 悪夢のような殺意ではなく、もっと眩しく、温かさを持ったなにか。

 適切な言葉を当て嵌められず、いつも持て余してしまう感情だった。

 深月は二人に悟られないように息を吐き、視線をテーブルに落とす。

 本部で博士から聞かされた話を思い返しながら、考える。

 逢沢くのりの生存がほぼ間違いない事を、彼に話すべきか否か。

 博士は任せると言っていたが、いっそ命じられた方が楽だったと、今は思う。

 逢沢くのりの捕縛という任務の達成だけを考えるのなら、彼に協力を仰ぐべきなのは間違いない。

 だが、だからと言ってその決断を容易に下せるほど、深月は無感情ではなかった。

「っと、そろそろ帰らないと」

「もうそんな時間か。んじゃ、また今度だな」

「ほどほどに頼むよ。僕、これでも受験生なんだから」

「前向きに検討させて頂きます」

「それ、検討しないやつ」

 困った顔でやれやれと肩を落としてみせるが、龍二も満更ではないのは見ていればわかる。

「それじゃあ、帰るから。しょっちゅう来ちゃってごめんね」

 ゲーム機をきちんと片づけた龍二は、そう言って深月に声をかける。

「いえ、あなたに責任はないわ。ほどほどに、という意見には賛同するけど」

 龍二からは見えない位置に右手を移動させ、深月は立ち上がる。

「今日は私が送るわ」

「わかった。お願いするよ」

 そう遠い距離ではないと遠慮していた龍二も、今はすっかり慣れていた。

 わざわざそこまでしなくても、と言っても深月とうてなが引き下がる事はないと、さすがの龍二も理解し、素直に受け入れるようにしたのだ。

 護衛される事に慣れた、とも言える。

「そういうわけだから、夕食の手配は任せるわね」

「任された」

 親指を立てて答えるうてな横目に見た深月は、龍二を連れ立って安藤家へと向かった。


「戻ったわ」

「おかえり。出前頼んだけど、混んでるから三十分くらいかかるってさ」

「そう」

 安藤家に龍二を送り届けて戻った深月は、うてなの言葉に頷きながら、向かい合うようにソファへ座る。

「……なに?」

 深月の表情からなにかを感じ取ったうてなが、怪訝な顔で尋ねる。

「逢沢くのり」

 簡潔に告げられた名前を耳にしたうてなは、深月の表情と声色からまさかと目を見開く。

「……確認、されたってこと?」

「まだ可能性の話ではあるけど、そうと見てほぼ間違いはないでしょうね」

 肯定する深月の言葉に、うてなは口元に手を当て、視線を落とす。

 逢沢くのりが生きているとすれば、それは確かに驚きだ。

 あの嵐の夜に、あれだけのダメージを受け、最後は銃弾を受けて海に落ちた。

 その状況から生き延びたとすれば、驚異的な生命力だと言える。

 あるいは、奇跡か。

 だが、うてなの脳裏に浮かんだのは、全く違うものだった。

「……あいつには、話すの?」

 口元に手を当てたまま、うてなは視線を上げて深月に問う。どうしても浮かんでしまうのは、安藤龍二の顔だ。

「まだ可能性の話だから、伏せておくべきでしょう」

「……だよね」

 深月と意見が一致していた事に、うてなは安堵した。

 もし本当に生存しているとして、龍二がそれを知ればきっと喜ぶだろう。

 恋を知らないうてなでも、龍二にとって逢沢くのりがどれほど特別な存在なのかはわかる。

 彼女の生存を誰よりも望んでいたのは、間違いなく安藤龍二だ。

 その可能性があるというだけでも、教えてやりたいという気持ちは、うてなの中にある。

 けれど、それはできないのだ。

「居場所がわかったら、捕まえるってことだよね、たぶん」

「放っておくわけにはいかないでしょう」

「当然だよなぁ」

 うてなはソファに倒れ込み、天井を見上げる。

 いくらうてなが龍二の気持ちを優先してやりたいと考えても、どうにもならない。

 逢沢くのりが組織にとって裏切り者である以上、穏便な解決方法はないに等しく、その結果がどうなるにせよ、安藤龍二にとって喜ばしいものにはなり得ない。

「私としては、彼には知られずに終わらせるのが、一番だと思う」

「仮に捕まえても、教えないってこと?」

「えぇ」

 龍二の気持ちを考えれば、それが一番無難だと、深月は考える。

 生きていると知れば、一時の喜びは得られるだろう。

 けれどそれは、新たな悲しみと傷を彼に負わせるだけだ。

 逢沢くのりに会う事など、許されない。

 そもそも、捕縛する過程でなにが起こるかわからないのだ。

 逢沢くのりが命を落とす可能性も、ないとは言い切れない。

「知らないでいるほうが幸せでいられる……彼のためよ」

 嫌なものから目を逸らすように、深月は視線を部屋の隅へと向けて呟く。

「彼はもう十分、悲しんだ。これ以上は、必要ないでしょう」

「……それはまぁ、わかるけど」

 深月の言葉に頷きつつも、うてなは納得できずにいた。

 知らない方が幸せという深月の意見も、確かにわかる。

 これ以上辛い思いをしなくてもいいという意見にも、賛同できる。

 龍二が十分すぎるほど悲しんだのは、うてなもわかっている。

 それはなにも、逢沢くのりへの感情だけではない。

 魔術師と戦ったあの夜、うてなの前で自分が何者なのかもわからないと、今にも泣きそうな声で告白した龍二の顔は、今でもはっきりと思い出せる。

 あの時龍二は、それでも頑張ってみるとうてなに言ったのだ。

 自分すらわからない恐怖に怯えながらも、懸命に笑顔を浮かべて。

 前を向き、歩こうとする意志があった。

 かつてうてなが憧れた、物語の主人公のように。

 うてなはその時、思った。

 特筆するような能力はなく、勉学に優れているわけでもない。

 希少な魔力を持っているという点はあるものの、本人にとってはなんの意味もない。

 本当に平凡すぎる少年ではあるけれど、自分で考え、選び、行動しようとしている。

 安藤龍二は、自らの意思で生きようとしていた。

 他人と比べるようなものではない。

 それは一つの強さなのだと、うてなは感じた。

 間違っても本人に面と向かって言ったりはしないが、その姿に憧れを重ねてしまった。

 だからこそ、逢沢くのりの生存を知らせず、何事もなかったかのようにしてしまうのは、嫌だと感じてしまうのだ。

 もう悲しむ必要はないと、その権利すら奪い取るような気がしてしまう。

 もちろん、悲しませたいわけではない。

 だが、勝手になにもなかった事にしてしまうのは、なにかが違う気がする。

 うてなはソファに寝そべりながら、視線を深月へと向ける。

 彼女もまた、黙したまま目を伏せていた。

 うてなが納得していないのは、深月にもわかっている。

 なぜ納得できないのかも、わかるつもりではいる。

 感情を優先する傾向にあるうてなは、龍二の気持ちに寄り添う思考をするだろう。

 そうしてやりたいという感情を、理解はできる。

 しかし、深月は違う。

 これは任務なのだ。

 龍二にこれ以上傷ついたりして欲しくないという感情に、嘘はない。

 けれどそれ以上に、任務を達成する事が優先される。

 もし必要に迫られたのなら、逢沢くのりの生存を彼に伝える選択肢も、深月の中にはあるのだ。

 葛藤がない、とは言えない。

 冷徹になりきれないのはエージェントとして失格だと思うが、生まれてしまった感情を完全に捨て去る事は、難しかった。

 だがそれでも、最終的には任務が最優先だ。

 与えられた任務は、安藤龍二の護衛。

 そして、逢沢くのりの捕縛。

 安藤龍二の感情に配慮する事は、任務には入っていない。

 深月とうてなは、テーブル一つを隔てたまま、それぞれに考える。

 任務を優先するのか、感情を優先するのか。

 その時になるまで、おそらく結論は出ないだろう。

 今、確かな事は一つだけ。

 結果がどうなるとしても、これだけは間違いないだろうと、深月は静かに息を吐く。

 ――穏やかな時間は終わり、そう遠くない未来、また誰かの血と涙が、流れる。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る