第3章 第3話 Eazy Time その4
「必要な処置は済ませたけど、ちゃんと病院で診て貰ってね?」
「はい。ありがとうございました」
ベッドのカーテンが開き、養護教諭と深月が出てくる。
保健室の椅子に座って待っていた龍二と奏は、すぐに立ち上がった。
「久良屋さん、大丈夫……って訊くのもヘンだけど、大丈夫?」
「えぇ。傷自体は浅かったようで助かったわ」
心配して声を掛ける龍二に、深月は微笑を浮かべて答える。彼女の右腕は手首から肘にかけて包帯が巻いてあった。
その傷はもちろん、先ほど降り注いだガラスの破片によって負ったものだ。
傷を負った深月本人は大丈夫だと言い張ったが、さすがに出血している状態をそのままにはしておけない。
すぐ保健室へと向かい、こうして治療を受けたのだ。
途中でガラスを割ってしまった生徒たちも合流し、謝罪して行った。
事を大きくしたくはないという深月の言葉で、彼らには一度戻って貰っている。
ガラスが割れたのは、本当に事故だった。
午後の演劇で使用する大道具を運んでいる最中にバランスを崩し、それがガラスにぶつかってしまったそうだ。
龍二たちは運悪く、その真下で休憩していたのだ。
とは言え、彼らの話が全て真実とは限らない。
もしくは、彼らの知らない第三者の意思が介入し、事故が引き起こされた可能性も捨てきれない。
その調査はひとまず後回しにして、深月は二人と一緒に保健室を後にする。
「まだ休んでた方がいいんじゃないの?」
「大丈夫です。本当に見た目ほど、酷い傷ではないので」
心配する奏に柔らかく答え、深月は軽く怪我をした腕を上げてみせる。指を動かすと痛みはあるが、開発部謹製の鎮痛剤があれば、それも感じずに済む。
もちろん、激しい運動や戦闘をするのは難しいが、いざとなればどうとでもなるだろうと、深月は考えていた。
「大丈夫ならいいんだけど。でも、今度ちゃんと、親御さんにご挨拶に伺わないと。私たちを庇って怪我しちゃったんだから」
「庇ったわけでは。音にビックリして、龍二君に抱きつこうとして、ただ勢いあまってしまっただけなので」
「え、えぇ? そんなこと、ある?」
「あったんです」
あまりにも強引な言い訳にさすがの奏も訝しむが、深月は平然とその嘘を張り通す。
これ以上ないほどに断言されては、奏としても追及はしにくかった。
「ですから、親への挨拶も必要ありません。忙しくて都合をつけるのも難しいと思いますので」
「ならせめて、電話でも」
「それも都合をつけるのが。本当に気にしないで下さい」
これもきっぱりと拒まれた奏は、渋々ながら引き下がる。食い下がりすぎるのも、失礼にあたると考えたのだろう。
「私のほうこそ、すみませんでした。倒れたとき、お姉さんに怪我を負わせてしまって」
「え? こんなの怪我のうちに入らないよ。お料理で失敗するときより全然大したことないし、ね?」
「あ、うん。最初の頃はよくやらかしてたもんね」
龍二はそう言って、奏が料理をし始めた春先を思い出す。最初の一ヶ月ほどは、奏の指をいくつもの絆創膏が彩っていたものだが、今ではもうそんな事はなくなっていた。
過去のやらかしを笑い話に出されたのが不服なのか、奏の頬が若干引きつる。当然、龍二は気づかない。
龍二への小言は呑み込み、奏は改めて深月へと顔を向けて頭を軽く下げる。
「とにかく、ありがとう。おかげで私も龍君も、大けがをせずに済んだわ」
「頭を上げてください。本当に大したことではないですし。それよりも、飲み物が服にかからなかったのは不幸中の幸いでした」
「服のことなんて、それこそ大したことじゃないわ。傷が残ったら大変なのは、久良屋さんのほうなんだし。保健室で言われた通り、すぐ病院に行ったほうがいいんじゃない?」
「気にするようなことじゃないですから。怪我をしたのが龍二やお姉さんじゃなくて良かったです」
冗談でもなんでもなくそう言い切る深月に、戸惑いを浮かべていた奏の顔が真剣みを帯びる。
「全然、なに一つ、これっぽっちも良くなんてないでしょう?」
突然の事に深月は驚き、思わず龍二を見る。それは龍二にとっても同じだった。
「助けてくれたことには本当に感謝しています。偶然であれなんであれ、久良屋さんのおかげで私と龍君は無事でした」
その口調は、奏が怒ったりしている時に出てくる癖のようなものだった。それを証明するように、今の奏は厳しい表情を浮かべ、まるで説教でもしているかのように、腰に手を当てていた。
「でもだからと言って、あなたが傷ついてもいい理由なんて、どこにもありません。気にするようなことじゃないなんてことも、絶対にありません」
奏が言わんとしている事を理解した深月は、ますます困惑する。彼女にそんな事を言われるというのは、完全に想定外だった。
「私のことは心配しなくても――」
「心配するかしないかは、する側が決めることです」
反論をばっさりと断ち切り、包帯の巻かれた右手に奏はそっと触れる。
「少なくとも、私はあなたに怪我なんてして欲しくない。きっと龍君も同じ」
奏の言葉に視線を向けてくる深月に、龍二は黙って頷く。
奏が考えている以上に、龍二はそう思っていた。
守られてばかりの立場である事は、嫌というほどに自覚しながらも、そう思わずにはいられない。
「ごめんなさい。うるさいことを言ってるよね。でもね、自分は傷ついても大丈夫だとか、そんなことは言わないで」
軽く触れていた手を強く握り、奏は真っ直ぐに深月を見る。
正面から向けられる真剣な眼差しに、深月は一歩下がりそうになった。
「女の子だからとか、そういうことでもなくてね? もちろん、それもあるけど。でもね、忘れないで欲しいの。あなたが怪我をしたら、気にもするし心配もする人がいるって」
そう言って微笑みを向けられた深月は、龍二と奏を交互に見やり、小さく頷く。
「……すみません、でした」
「え? あ、いや、そんな風に謝られると困るんだけど……でも、うん。わかってくれたら、お姉さん嬉しい」
ようやく奏の手から解放された深月は、その温もりの名残を確かめるように、左手で右手に触れる。
不思議な感情が、心臓と脳で渦巻いていた。
そんな深月の様子を、龍二は優しい気持ちで眺める。
ごく当たり前の正論で深月を言いくるめた奏を、素直に凄いと思う。
あれほど真っ直ぐに言われては、おそらくうてなですら頷かざるを得ないだろう。
誇らしい気持ちが、龍二の胸を熱くする。
それと同時に、自分では同じように言えなかっただろうと、不甲斐なさも感じていた。
「それじゃあ、この後はどうしよっか?」
「あー、えっとね、ちょっと待って。そろそろ交代の時間だ」
あと五分ほどで、龍二と深月のローテーションが回ってくる。移動時間を考えても、今からどこかを見て回るのは不可能だった。
龍二は奏の顔をちらりと窺う。
この様子なら、奏も十分すぎるほど文化祭の空気は堪能できただろう。
だから問題になるのは、深月のほうだ。
「それなら、戻りましょう」
「って、ちょっと待った。まさか普通に店番する気?」
「そうだけど?」
「いやいやいや。怪我してるんだからさ、そこは休んでてよ」
「それではローテーションに穴が開くわ。ただでさえギリギリの人数で回すようにしているのだから、怪我くらいで抜けるわけには」
「いいんだよ。そこはほら、こっちでなんとかするから。伊達や酔狂で実行委員やってるわけじゃないの、僕も」
先ほどの奏に触発されたのか、龍二自身も驚くような強気の態度で出る。
「迷惑はかけられないと言っているの」
「その怪我じゃ調理は無理でしょ。利き腕だよね?」
「……確かに調理は厳しいかもしれないけど、それならそれで受け渡しくらいはできるわ」
「そこそこ盛大に出血したあとでなに言ってるのさ。貧血とかになったら困るでしょ」
「出血には慣れているから、この程度なら――」
「ななな、なに言ってるのさ!」
深月の意図を全力で勘違いした龍二は、顔を真っ赤にして声を上げる。
意味がわからず怪訝そうな深月の視線と、背後から半眼でねめつけている奏の視線に挟まれる。
「と、とにかく、久良屋さんはローテから外すから! 穴埋めくらい、僕がなんとでもする!」
「でも――」
「でもは禁止! あーもうっ、いいだろっ。こんな時くらいしか僕が役に立つチャンスないんだから、大人しく頼ってよ!」
思い返せば情けなさで落ち込みそうな事を言い切る龍二に、深月は一瞬虚を突かれたような顔をして、それから小さく笑った。
「……わかった。頼らせてもらうわ」
「よ、よし決まりだ」
渋々と言った感じは否めないが、深月は龍二の提案を受け入れて頷いた。
「……そういうわけなんで、久良屋さんには教室で休んで貰ってる」
深月と別れ、奏と共に屋台へと戻った龍二は、かいつまんでうてなに事情を説明した。
深月が怪我をしたと聞いて、うてなも一瞬表情を厳しくしたが、事件性はないらしいと言われて納得したように頷いた。
「事情はわかった。ま、それなら仕方ない。久良屋の分は、私が穴埋めするよ」
小さくため息を吐いただけで、うてなは自らそう言った。
「いやいいって。僕がなんとかするから、うてなは休憩入りなよ」
うてなの言葉に驚いた龍二は、慌ててそう言った。もとより、うてなにそんな事を頼むつもりなどなかったからだ。
「全然疲れてないから平気だって」
「そうじゃなくて……まぁ、それも気になるけど、でもほら……楽しみに、してただろ?」
龍二にそう言われたうてなは、肩を竦めて鼻を鳴らす。
「そりゃあね。でもま、しゃーないでしょ。久良屋だって怪我したくてしたわけじゃないんだしさ」
「でも、だからってうてなが代わりにやらなくてもいいだろ。気にしないで楽しんできなよ」
「そうもいかないでしょ?」
「それは……」
周囲の目がある場所なので、うてなは『そうもいかない』理由を言葉にはしない。が、それだけで龍二には伝わった。
至極単純な事を失念していたと、龍二はため息を吐く。
常に深月かうてなが、龍二と行動を共にする。
それは護衛任務の大前提だ。
ここに戻る時も、深月はすぐ近くまでは一緒に来ていた。
龍二と奏は気づかなかったが、遠目にうてなとアイコンタクトを取り、それから教室に向かったのだ。
つい忘れていた、としか言いようがない。
「ね? だから、あんたは気にしなくてもいいよ」
そういうものなのだから、と諦めたようにうてなは笑って見せる。
それでも、と龍二はやはり考えてしまう。
今日という日を一番楽しみにしていたのは、他の誰でもなく、神無城うてなだと思うから。
生徒として通い始めてから、まだ一ヶ月足らずだが、うてなが楽しんでいるのは、誰の目にも明らかだった。
憧れとは程遠い学生生活だと言っていたが、その平穏を全力で満喫していた。
演技や偽装などではなく、心から楽しんでいた。
それを誰よりも近くで見続けてきたから、悔しい。
護衛として離れられないのなら、龍二も一緒にローテーションから外れればいいのだが、そうしてしまえるほど無責任にはなれない。
うてなだけが特別なのではないのだ。文化祭を楽しみにしているのは、他のクラスメイトたちも同じだ。
だからこそ龍二は、実行委員としてうてなのためだけに我がままを言うわけにはいかない。
「ねぇ龍君、私もお手伝い、させて貰っていいかな?」
「え?」
もやもやとした感情を抱いていた龍二は、奏の声に顔を上げる。
「久良屋さんに助けてもらった分の恩返し、みたいな? ダメかな?」
「ど、どうかな……」
学生以外に手伝って貰うというのは、学校側に知られたら問題になりそうな気がする。
提案としては、実に魅力的ではあるが。
「どう思う?」
「客寄せ効果は抜群だと思うけど……って、ちょっとごめん」
実にうてならしい意見を残し、彼女は携帯を取り出して少し離れる。
「……なに?」
『構わないわよ。彼の姿が見える位置で待機しているから、なにかあればこちらで対処するわ』
通話の相手は、もちろん深月だ。
「って言われてもさぁ。利き腕なんでしょ?」
『平気よ。最悪の場合、あなたが戻るまでの時間稼ぎができればいいのだから。そのくらいは、やってみせるわ』
「なに、負い目でも感じてんの?」
『どうとでも受け取りなさい。とにかく、あなたは休憩に入って、楽しんでくること。これは命令よ』
「……なにそれ」
妙な命令を下す深月に、うてなの口元が綻ぶ。
「本当にいいの?」
『えぇ。その代わり、ちゃんと、楽しんできなさい。あとから物足りなかったと愚痴らずにすむように。いい?』
「了解…………ありがと」
『…………』
最後の言葉はあまりにも小さく、もしかしたら深月には届いていなかったのかもしれない。
返事がないまま切れた電話をしばし眺め、うてなはポケットにそれを戻す。
「龍二、やっぱ私、休憩行ってくる」
「なに、どういう心境の変化? っていうか、本当に?」
「うん。問題ないってことみたいなんで、さ」
「……そっか。うん、良かった。思いっきり楽しんできてよ」
「うん。それじゃあお姉さん、あとお任せしますんで、よろしくお願いしまーす」
うてなは軽い調子で声を掛けながら、自身がつけていたエプロンと新しい調理帽を奏に渡す。
「はい、任されました」
「じゃあ、行ってきます」
隠し切れない嬉しさを誤魔化すようにして、うてなは人混みへと消えて行く。
その背中を見送った龍二は、気合を入れ直すように手を叩き、エプロンをつけて焼きそば作りに精を出した。
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