第3章 第2話 夢か幻、あるいは その4

 ノックの音に気付いた龍二は、返事をしながら上半身を起こした。

「龍君、今ちょっといい?」

 ドアを開けて顔を覗かせたのは、安藤奏だった。

「いいよ」

 直前まで読んでいた小説にしおりを挟み、枕元に置いて奏に向き直る。

 後ろ手にドアを閉めて部屋に入ってきた奏は、いつも龍二が座っている椅子に腰かけた。龍二がベッドに座っているときは、そこが奏の定位置だ。

「で、なに?」

「そろそろだよね、文化祭」

「……そう、だね」

 極力避けていた話題をあっさりと切り出され、龍二は若干鼻白んだ。

 現実的に避けられるわけはないのだが、できれば避けたかったというのが本音だ。

 この状況で奏が次になにを言うのかは、もはやわかりきっている。

「今年も楽しみにしてるね」

「……やっぱり、来るの?」

「当然。行かない理由がないでしょ」

「でもほら、姉さんも大学生になったことだし」

 無駄とは知りつつも、どこかに回避する道はないかと龍二は足掻いてみる。

「うん。だから今年は龍君も、うちの学祭に来てね」

「予定が空いてたら、うん。考えておくよ」

 奏の誘いには曖昧に答えておく。予定がどうなるかという問題もあるが、護衛である二人の意見を聞かない事には答えようがなかった。

「お姉ちゃんはちゃーんと予定を空けておいたから。今年も案内、よろしくね」

 心底楽しみにしているのがわかってしまうだけに、龍二としては頷くしかない。

 過去二年、奏は欠かさず文化祭に顔を出しているが、そのたびに他の男子生徒からいろいろと訊かれる。

 大学生になった奏を彼らの前に連れて行くのは、想像しただけで龍二の頭を悩ませる。

 龍二が渋る原因はただそれだけなので、強くは拒めない。

「今年はなにをするの?」

「えっとね、焼きそば」

 外装や看板のほうはほぼ出来上がっている。残っている問題は当日のローテンションと調理の練度、加えてメニューの決定だ。

 メニューに関しては、うてなを筆頭とするやる気を出しすぎているメンバーの説得が悩みの種だった。

「そっか、楽しみにしておくね。あ、でも青のりは少な目にしてくれると助かるかなぁ」

「参考にさせて貰うよ」

「うん、よろしく」

 そう言って微笑みながら、奏は眩しそうに目を細める。

「なに?」

「ううん、なんでもない」

 どう考えてもなんでもないわけがないのだが、奏がそう言うのであれば龍二としては納得するしかない。

「それにしても、焼きそばかぁ。それじゃあ今年は龍君、女装とかしないんだねー」

「――――っ!」

 消してしまいたい過去をさらりとほじくり返された龍二は、思わず吹き出してしまった。

「ちょっと姉さん、その話はあの――」

「あれにはホント、びっくりした。龍君、なかなか詳細教えてくれなかったもんねー」

「だ、だからあれはみんなが悪ノリした結果で!」

「意外って言ったらなんだけど、結構似合ってたよね。龍君の新しい一面を見た気分で、お姉ちゃん感動したなぁ」

 顔を真っ赤にして慌てふためく龍二に構わず、奏は一年前の文化祭に思いを馳せる。

 ただの思い出話を二人でするのなら、龍二もここまで焦りはしない。

 問題は、今この瞬間、この部屋を監視している人間がいるという事だ。

 当然そんな事を知らない奏は携帯を取り出し、更なる爆弾を投下する。

「ほらほら、あの時の写真」

「消してなかったの⁉」

「当然だよ。龍君の女装姿なんて、もう二度と見られないかもしれないのに」

「見なくていいんだよ! 今すぐ消そう!」

「うーん、私が消しても意味ないと思うよ? お母さんとお父さんも保存してるし」

「なんでさぁ⁉」

 一年越しに知らされた驚愕の事実に、龍二は思わず立ち上がって叫んだ。

 そんな反応を楽しむように、奏は携帯に保存されている他の写真を見せる。

「こんなのとか、こんなのも」

「いつの間に……」

「っていうか、龍君は全然残してないの?」

「僕は写真とか、別に撮らないから」

「えー、もったいない。残しておきたくならないの?」

「と言われても……ぁ」

 次々とスライドしていく写真の中に、ある少女の姿を龍二は見つけて、小さく息を漏らした。龍二の様子に気づいた奏も、すぐに理解してやや目を伏せる。

「ごめんね。うっかりしてた」

「謝るようなことじゃないよ」

 彼女が写真に紛れ込んでいたとしても、おかしくはないのだ。

 そしてふと、龍二は納得する。

 彼女――逢沢くのりは写真を撮ることも写ることも、あまり積極的にするタイプではなかった。

 今にして思えば、あまり写らないようにしていたのだろう。

 普通にしていたように思えても、やはりそういったところはエージェントだったのだ。

「写真、送る?」

「……いや、いいよ」

「わかった。気が変わったら、いつでも言って」

「うん。でもできればあの写真は消して欲しいかな」

「それは、できません」

 今なら受け入れてくれるのでないかという期待を、奏は満面の笑みで拒む。

「じゃあ、楽しみにしてるから」

 最後にそう言って、奏は部屋を後にした。

 残された龍二は、困ったように頭を掻き、ベッドに倒れ込む。

 写真ではあったが、くのりの姿を目にするのは、あの事件以来だった。

 あまりにも不意打ちで、動揺を隠せなかった。

「まいったな……」

 まだ心臓の鼓動が、若干早い。

 落ち着かせるように、寝転がったまま深呼吸をする。

「うん?」

 机に置きっぱなしにしていた携帯が鳴動し、メッセージを受信した事を通知してきた。

「うてなから? なんだろう」

 再度起き上がって携帯を手に取った龍二は、アプリを起動してメッセージを確かめる。

 そしてその内容に、絶句を通り越して真顔になった。

「…………最悪だ、あいつ」

 携帯の画面にこれでもかと表示されているのは、紛れもなく先ほどの女装写真だった。

「ちょっと! なんでさ⁉」

 すぐにうてなへと抗議の電話をかける。

『ちょちょっとハッキングさせて頂きました』

 電話にでたうてなは、笑っている事を隠そうともせず答える。

「なんてことしてるんだよ!」

『いやいや、あんなの見せられたら貰うしかないでしょ。だって、だ、だって……女装ってあんた』

 電話越しにもわかる。腹を抱えて笑いながら、バシバシと机を叩いているのだろう。

 龍二はなんとも言い難い怒りに拳を震わせるしかなかった。

『でさ、なにが凄いってこれ、久良屋のツボに入ったみたいでさ。今横で、死ぬほど笑いそうなの堪えてるの』

「…………最悪だよ、ホント」

 うてなだけではなく、あの深月まで笑っているなんて、と龍二はうな垂れる。

 護衛のためとは言え、リアルタイムで監視されている事にここまで憤りと絶望を覚えたのは、これが初めてだった。

 まだ聞こえてくるうてなの笑い声に、龍二はただただ、消してくれと言うしかなかった。


「は、はぁ……あぁ、笑った。めっちゃ笑った」

 通話を終えたうてなは、目尻に溜まった涙を拭いながら携帯端末を机に置いた。

 しつこく画像の削除を求めていたが、どうするかは後で考える事にする。

 今はそれより、隣で蹲っている深月のほうだ。

「久良屋、大丈夫?」

「……ま、まだ……ちょっと……っ」

 呼吸が困難になるほど深月を笑わせた人間は、龍二が初めてではないだろうか。本人は不本意だろうが、ある意味では間違いなく偉業である。

 うてなはそんな風にほくそ笑みながら、どうにか立ち上がった深月の肩を軽く叩く。

「これ、本部にも送らないとね。貴重な資料だよ、うんうん」

「――――っ!」

 真面目な口調で頷くうてなの言葉に、深月はむせるように吹き出した。

 収まりかけていた笑いのツボを、再度刺激されてしまったらしい。

「なんなら、監視モニターの壁紙にでも――いたっ」

 ろくでもない事を言い出すうてなの肩を、もう喋るなとばかりに深月は強く叩いた。

 叩かれたうてなはますます楽しそうに笑い、ふと思いついて一度置いた携帯端末を手に取る。

 そしてそれを、堪え切れずに破顔している深月へ向け、シャッターを切った。

「久良屋もそんな風に笑うんだ。初めてみた」

「そ、それとこれとは関係がないでしょう。消しなさい」

 エージェントとして培った精神力を総動員し、深月はどうにか笑いを堪えてうてなに詰め寄る。

「いいじゃん。減るもんじゃないし」

 だがうてなはひらりとその手をかわし、撮ったばかりの写真を眺める。

「減るか減らないかではなくて。そんなものを保存して、なんの意味があるのよ」

 咳ばらいをしていつもの調子を取り戻した深月は、憮然とした目をうてなに向ける。

「んー、なんだろうねー」

 一定の距離を取ったまま、うてなは笑みを浮かべて首を傾げる。

「私もさ、写真を残すとか正直意味がわからなかったけど、なんだろうね」

 最近は少しわかるかもしれない、と携帯に保存されているいくつかの写真を見て呟く。

 そこにあるのは、クラスメイトたちと一緒に試作した焼きそばの数々だ。

 クラスメイトたちがすぐ写真に収める様子を見て、なんとなくうてなもそうしていた。

 焼きそばの写真だけではなく、なんとなく気が向いて撮ったものもある。

 どれもが他愛のない日常の一コマだった。

「こういうのが、普通の高校生なんだろうねぇ」

 うてなの姿はそんな日常と、そこに溶け込もうとしている自身の変化を楽しもうとしているように、深月の目に映る。

「楽しそうね」

「ん、まぁね」

 携帯を操作しながら、うてなはまた頬を緩めていた。おそらく、龍二とメッセージでなにかやり取りをしているのだろう。

 まるで、気の合う友人のように。

 そんなうてなの様子を、深月はジッと見つめていた。

 隔てた僅かな距離が、絶対的な距離であるように感じる。

 学生として潜入した時間は、間違いなく自分の方が長いはずなのに。

 自分だけが取り残されているような感覚に、深月は内心動揺していた。

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