第3章 第2話 夢か幻、あるいは その3
「うーん、思ってたイメージと違うな」
出店用の看板を見下ろした龍二は、腕を組んで唸った。
放課後の教室には龍二の他に、数人のクラスメイトが残っている。机を全て教室の前の方へと押しやり、宣伝用の看板や出店の外装作りに励んでいた。
励んでいるとは言っても、ダラダラと会話をしながら片手間にやっているだけで、そこに真剣さはあまりない。
三年生のこの時期にやる気のある生徒は、大体が所属していた部活動の方でそのやる気を発揮している。
とりあえず形になれば良いという方針なので、龍二もあまり気にしてはいない。
とは言え、自分が担当する部分については頑張ろうと思っていた。
三年目という事もあるが、なんだかんだでこういった作業が苦ではなく、どちらかと言えば好きなのだろう。
ただし、お世辞にもセンスがあるとは言えないので、こうして首を捻っているのだ。
「上から別の色を被せて誤魔化せるかな……」
誰にともなく呟き、再び座り込んで刷毛を手に取る。
「龍二」
「うん? あぁ、久良屋さん」
名前を呼んで駆け寄って来たのは、放課後になってから姿が見えなかった久良屋深月だった。走ってきたのか、薄っすらと額に汗を掻いている。
「なに? 問題でも起きた?」
「起きたと言えば、そうね」
そう言って深月は龍二の隣に屈み、声を潜める。
「どうしてあなたが一人でいるの?」
「いや、他にもクラスメイトが……って、そういう意味じゃないか」
「当然でしょう。うてなはどうしたの?」
「家庭科室で、有志のみんなと試作品を開発中」
楽しげな龍二の言葉に、深月の視線が鋭くなる。
「なにを考えているのかしら……まったく」
「やっぱりスタンダードなソース味だけじゃダメだって言い出してさ。まずは塩焼きそばだ、とかなんとか。他にもいろいろ考えてるみたいだよ」
「そこまでバリエーションを増やす必要があるの?」
「正直、予算とか手間を考えるとないかな。あと味見というか毒見が怖い。楽しみにしておけって得意げに言ってたし」
「あいつ……任務を忘れているんじゃないの」
深月は呆れたようにため息をつき、眉間を揉み解す。苦労が絶えないなと他人事のように龍二は笑うが、半眼の濁った視線を向けられて気まずそうに目を逸らした。
「えっと、よ、よくわかったね。うてなが一緒じゃないって」
「校内でも詳細な位置情報がわかるように、新しい警備システムを設置していたの。まさか、起動してすぐ活用することになるとは思っていなかったわ」
「あ、もしかして最近、放課後になると見かけなくなるのって……」
「えぇ。文化祭に備えて、警備システムを強化しているの。それで忙しいから、あなたの護衛は任せていたのだけど……まったく」
家庭科室にいるうてなを睨みつけるように、深月は視線を教室の天井へと向ける。
あとでまた小言を言われるのは確定しているだろうが、少しでもフォローをしておこうと龍二は話しかける。
「ごめん。僕が大丈夫だからって言っちゃって。ほら、教室には他にも人がいるし」
ここ数週間、差し迫った危険はない。少しくらいなら大丈夫だろうと思ったのだ。
それにいざとなれば、すぐに駆け付けられる距離だ。だから問題はないと、龍二は考えていた。
「あなたがそれでは困るわ」
その油断が命取りになる場合もあると、深月は知っている。
だからこそ、厳しい表情で龍二を見た。
「ただでさえ人の出入りが激しくなっているのだから、気を抜いてはダメよ。顔認証システムを導入してはいるけど、全てをカバーできるわけではないのだから」
肩が触れるほど距離を縮めた深月は、今まで以上に声を潜める。
あまりにも近いその距離に、龍二は思わず生唾を飲み込んだ。
「それに、うてなが一緒にいる前提で私も別行動を取っているの。場合によっては、別の任務で学校を離れていることだってあるのよ」
「え? そ、そうだったの?」
「軽い雑用のような任務よ。だから一人でも問題はないの。けれど、あなた自身の危険度が下がったわけではないわ。私としても悩ましいところだけど、本部の指示では従うしかない。でも、そうできるのはうてながあなたの側にいるからよ。わかるでしょう?」
「……う、うん」
他の任務がどんなものなのか興味はあるが、今はそれを訊ける状況ではない。
直接耳へと吹き込まれるような深月の声に、龍二の心拍数がどうしようもなく上がってしまっていた。
「だから、あなたも迂闊なことはしないで。うてなを甘やかすのも」
「わ、わかった。本当に、ごめん」
「……いえ、事前に言っておくべきだったわね。あの子にも、強く言い聞かせておくわ」
「えっと、ほどほどにしてあげて欲しい、かな。僕にも落ち度があるから」
龍二の言葉に深月は答えず、僅かに口元を緩めて見せる。それがどういう意味を持つのかを、龍二は考えない事にした。
「とにかく、なにもなくて安心したわ」
秘密の話はこれで終わりだというように、深月は寄せていた身体を離す。
緊張から解放された龍二は、看板に視線を落とす深月の横顔に、ふと影を見た。
「……久良屋さん、大丈夫? 疲れてない?」
「平気よ。どうしてそう思うの?」
「なんとなく、としか言えないけど」
「心配してくれるのは嬉しいけれど、問題ないわ」
そうか、としか言えない龍二に、深月は微笑んで立ち上がる。
「私のことはいいから、作業を続けて」
「あぁ、うん。そっちも」
「えぇ」
疲れを忘れさせるような優しい笑顔に頷き、深月は教室から立ち去ろうとする。
だが踵を返そうとしたままその場に留まり、刷毛を手に作業を再開する龍二の姿を見ていた。
「――――」
腰の後ろに手を回し、その無防備な首筋に引き抜いたナイフを突き立て、頸動脈を切断する。
一瞬の間をおいて鮮血が噴き出し、彼はなにが起きたのかもわからないまま倒れ込む。
その血を自ら浴びるように覆い被さり、逆手に持ったナイフを今度は心臓めがけて突き立てる。
何度も何度も、その命の最後の一片が吐き出されるまで。
「久良屋さん?」
「――――っ」
血塗れの少年に名前を呼ばれて、深月はハッとした。
「だ、大丈夫?」
「あ……ぁ」
違う。少年は――安藤龍二は血塗れになどなっていない。
ナイフで頸動脈を切断もされていない。
心臓にも、そんな形跡は見当たらない。
そもそも、押し倒されてすらいない。
現実などではなかったのだと、深月はようやく気付く。
ほんの一瞬、微睡んでしまっただけだ。
「えっと……」
困惑したように見上げてくる龍二は、立ち上がろうとしていた。
「ごめんなさい。急がなくてはいけないことを思い出して」
「そっか。呼び止めてごめん」
「……いえ。うてなには、すぐ戻るよう言っておくから」
「だったらいいよ。僕が休憩がてら、家庭科室に行くから」
「そう。えぇ、それが確実かもしれないわね。そうしてくれると助かるわ」
「うん。じゃあそういうことで」
「えぇ」
そこまでが彼女の限界だった。
足早に教室を出て、龍二の視界から外れた瞬間に、深月は全力で走り出す。
鮮明すぎるほどに残っている、悪夢の感触から逃れるように。
「はぁ、はぁ、はぁ……くっ」
屋上へと飛び出した深月は、僅かな段差に躓いて転びそうになる。ギリギリのところで壁に手をつき、どうにか転倒は免れた。
息を荒げたまま、スカートのポケットから小さなケースを取り出す。
手のひらに向けてそのケースを振ると、小さな白い錠剤が数個出てきた。
数が多いことなど気に留める余裕すらなく、それを全て口に放り込んで噛み砕いた。
全力疾走をしただけで、ここまで呼吸が乱れる事などない。
自分ですらわからない発作に苦しみ喘ぎながら、壁伝いによろよろと屋上を歩く。
原則立ち入り禁止となっている屋上は、幸いにも無人だった。
「うっ、くっ……はぁ、はぁ」
まだ荒い呼吸を空へと吐き出すように顎を上げる。
耳鳴りがするほどに早まる鼓動と上昇する体温に、制服の胸元を緩めた。
噴き出す汗の量に比例して、苦しさが薄れていくのがわかる。
その痺れるような甘い感覚に浸りながら、深月はぼんやりとした頭で自問自答する。
「殺したい理由なんて、ないのに……」
それだけは間違いないと言える言葉を、まるで縋るように呟く。
彼に――安藤龍二に対して殺意を抱く理由など、久良屋深月のどこを探しても見つからない。
見つかるわけがない。
それは深月に課せられた命令と正反対の事なのだから。
久良屋深月にとって安藤龍二は、守るべき対象である。
なのになぜ、あれほどまでに強烈な殺意を抱いてしまったのだろうか?
もはや誤魔化すことなどできない。
何度となく見ている悪夢の中で殺している少年は、安藤龍二だ。
そんなはずはないと目を背けてきたが、最初からわかっていた。
でもなにかの間違いだと、受け止めないようにしてきた。
だがつい数分前、誤魔化しようがないほどにはっきりと、悪夢と現実が繋がった。
悪夢の中から這い出してきた殺意に、思考を侵食された。
あの一瞬に見た光景は、実行していてもおかしくなかった。
安藤龍二の首を、切り裂いていたかもしれない。
そう考えただけで、吐き気が込み上げてくる。
「そんなわけ……ない」
嫌悪を抱けることに、深月は僅かながら安堵する。
嫌だと思えるのなら、大丈夫だ。
彼を殺したくないと思えているのなら、まだ。
壁伝いにフェンスまで辿り着いた深月は、そのまま地面に座り込む。
「――誰?」
ふとなにかの気配を感じて、深月は顔を上げた。
しかし、屋上には彼女以外、誰もいない。
けれど確かに感じたと、深月は周囲に視線を巡らせる。
だが、やはり結果は変わらない。
屋上にいるのは、深月だけだった。
「…………ふふっ」
そうして彼女は、力なく笑った。
自分自身の感覚すら信じられなくなってしまいそうで、笑うしかなかった。
あの怪我をして以来、おかしくなってしまった。
検査ではなにも問題はなかったはずだが、それはあくまで肉体的なものに限られる。
精神的なテストも受けて問題ないと診断されたのだが、間違っていたのかもしれない。
とにかく、これだけははっきりしていた。
なにかが、壊れかけている。
そうでなければ、説明がつかない。
物心ついた時から、組織の中でエージェントになるべく育てられてきた。
記憶にはないが、おそらくは生まれた時からそうだったのだろう。
生粋のエージェントとして、久良屋深月は育成されてきた。
その成果は十分にあったのだろう。
深月はあらゆる面で優れた結果を出し続けた。
特定の分野では深月以上に秀でた能力を発揮する者もいたが、総合的な能力は誰よりも優れ、安定していた。
だが、あのテストをパスする事ができなかった。
チャンスは数回与えられた。
が、結果は毎回、同じだった。
久良屋深月は、人を殺すことだけは、できなかったのだ。
だからと言って見限られたわけでは、なかったのだろう。
できるかできないか、組織はそれを知りたかっただけなのだ。
「その、はずなのに……」
どうしてこんなにも今、安藤龍二を殺したいという衝動に駆られてしまうのかが、わからなかった。
一時的なものなら、と楽観することさえできない。
日増しに色濃くなっていく悪夢と同じように、この衝動もまた、肥大化していく可能性がある。
「安藤、龍二……」
その名を呟きながら深月はフェンスに頭を預け、眼下のグラウンドを見下ろした。
放課後の喧騒が、いつも以上に遠く聞こえる。
ここはお前がいるべき場所ではないと、責められているような気がした。
「……間違いじゃ、ないか」
任務でなければ、決して立ち入る事のない世界だった。
だからなのかもしれないと、自嘲するように深月は薄く笑った。
「新しい味っていうのは、なかなか難しいものだねぇ」
家庭科室の片づけを済ませた龍二は、うてなや他のクラスメイトたちと一緒に教室へと戻って来た。
作業の猶予時間はまだ残っていたが、先に材料が尽きたのだから仕方がない。
「今度の週末、良さげな焼きそば屋巡りとかどう?」
「焼きそば専門のお店ってあるのかな?」
「そこは調べとく。ってかあんた、顔色悪くない?」
「あれだけ食べれば、そりゃあね。誰かさんの胃袋がおかしいんだよ」
試食のしすぎでグッタリしているのは龍二だけではない。付き合わされた他のクラスメイトたちも同様だ。
食べている時は高めのテンションで乗り切れたが、時間の経過と共にかなりきているようだった。
「最近、大食いで稼げるんじゃないかと思うときがある」
今更思ったのかと、得意げなうてなを生暖かい目で見る。
「じゃあ、今日はこれで終わりにしよう」
教室で作業を続けていた生徒も、すでに後片付けをほぼ済ませていた。
残っているのは、龍二が作業の途中でとめていたものだけだ。
「机は僕たちで戻しておくから、みんなは上がっていいよ」
クラスメイトたちにそう言って、龍二は半端な状態の看板を眺める。
さすがに今から作業を再開する気にはなれないので、完成させるのはまた今度になる。
スケジュールにはまだ余裕があるので、手直しも含めてなんとかなるだろう。
一足先に帰っていくクラスメイトたちに挨拶をしつつ、龍二は道具を片付け始める。
その口元は、無自覚に綻んでいた。
文化祭の準備中だけにある、独特な放課後の空気。
かつての楽しかった記憶が、自然と蘇ってくる。
「…………あれ?」
そこである変化に気づいた。
中途半端に色の塗られた看板に変化はない。
違いは、別にある。
乱雑に並んだ道具の中に一つ、置いた覚えのない、しかし見覚えのある物が紛れていた。
「――――っ!」
龍二はそれを手に取ると、すぐに廊下へと飛び出した。
面倒くさそうに机を戻していたうてなが、驚いてその背中に声をかける。
「おいこら、急にどうした?」
廊下に出て辺りを見回す龍二の肩を、うてなが掴む。
「ちょっと」
「あ、あぁ……その、ごめん」
龍二が見回していた廊下には、他の生徒の姿はなかった。
これが文化祭数日前であれば、今とは違う賑わいを見せていただろう。
まだ日数的に余裕があるこの時期ならば、どこもこんなものだ。
「ごめんの意味がわからないけど、なに?」
「いや、その……誰かがジュース、差し入れてくれたのかなって」
そう言って龍二は、手にしたパックジュースに視線を落とす。
廊下に飛び出した理由は、そのパックジュースだった。
道具の中に紛れるようにしておいてあった、なんの変哲もないジュース。
だが龍二にとっては、特別な思い入れるのあるジュースだった。
「私の分は?」
「ない、と思うけど」
「なんて気が利くようで利かないやつだ」
自分の分がないとわかったうてなは、興味が失せたように教室へと戻る。
龍二はもう一度だけ廊下を見回し、一階の自販機で購入したであろうパックジュースに視線を落とした。
「ちょっと、あんたも片づけしなさいよ」
「あぁ、うん」
咎めるようなうてなの声に頷き、龍二も教室へと戻る。
まだ十分に冷えているパックジュースにストローを刺し、その甘ったるい独特な味を堪能しながら、後片付けを再開する。
口の中に広がるストロベリーミルクの味が、心の奥をくすぐっていく。
まさか、という予感を抱かずにはいられない。
この味がなにを意味するのかを知っているのは、世界に二人しかいない。
涙腺が緩みそうになるのを、必死に堪える。
「…………あ」
「う、うん?」
間の抜けたようなうてなの声に、龍二はどうにか平静を装って顔を上げた。
「あー、飲んじゃってるか」
「え? なんで?」
「いや、まぁ……一応警戒すべきだったかなって。遅かったみたいだけど」
龍二の手にあるジュースを凝視しながら、うてなは困ったように腕を組む。
「てか、あんたもあんたでしょ。迂闊すぎ。狙われてる自覚がないのかしら?」
後半の芝居がかった言い方は、深月のモノマネのつもりなのだろうが、そこには触れずに龍二は笑って答える。
「大丈夫だと思ったから。ほら、なんともないし」
大丈夫だと言えるほどの根拠は、実際のところあるわけではなかった。
それでも龍二は、信じたいと思ったのだ。
「だといいんだけど。下剤とか入ってても知らんぞ?」
茶化すようなうてなの言葉に苦笑しつつ、龍二はストローに口をつける。
自分の中に生まれた予感は、そのままにしておく事にした。
確証があるわけではないのだから、と自分に言い訳をして。
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