第3章 第2話 夢か幻、あるいは その2

 深夜の薄暗い地下室で、久良屋深月は一人、ノート型パソコンのモニターを凝視していた。

 監視の対象である安藤龍二はすでに眠り、パートナーである神無城うてなも自室に戻っている。

 学生として潜入するようになってから、うてなはそれなりに健全な睡眠時間を取るようになっていた。今頃はすでに、夢の中だろう。

 深月は小さく息を吐き、若干温くなりつつあるカップを手に取って、ストレートの紅茶に口をつける。

 カップをテーブルに戻した深月は、モニターに表示されたデータに再び視線を落とす。

 そこに表示されているのは、安藤龍二に関するあらゆるデータ――彼自身も正確には把握していないであろう、パーソナルデータだ。

 他にも、彼に関わる事件についても詳細がまとめられている。

「やっぱり、大した情報はない、か……」

 先ほどよりも大きめにため息をついた深月は、椅子の背もたれに寄り掛かる。楽な姿勢になって呼吸がしやすくはなると同時に、重苦しい疲労感が睡魔を伴って襲ってきた。

 このまま眠ってしまおうかという考えは、一瞬で捨てる。

 今眠ったら、間違いなくあの悪夢を見てしまうという予感があったからだ。

 任務に復帰して、また彼とすごすようになっても、あの夢から逃れる事はできなかった。

 龍二と会ってなにが変わるというわけではないのだが、もしかしたらと僅かながら期待していたのも事実だ。

 どうしてそう期待したのか、深月は自分でもわかっていなかった。

 そして状況は改善するどころか、悪化の一途を辿っている。

 悪夢を見る頻度が多くなり、より鮮明になっていく。

 夢だと認識してもなお、止められないほどの殺意が湧き上がるほどだった。

 正直に言えば、眠るのが恐ろしくもある。

 だからこうして、深夜の地下室を訪れてしまった。

 彼のデータを見たところで、解決するわけがないとわかっている。

 けれど、なにかに縋りたいという感情を抑えられなかった。

 すでに暗記している安藤龍二にまつわるデータを、ぼんやりと眺める。

 そのデータには、関連項目として深月自身のデータも含まれていた。

 記載されているデータは、そう多くはない。当然の事だ。

 久良屋深月という少女には、語れるほどの情報などないのだから。

 もちろん、こうして閲覧可能な情報は限られていて、全ての情報が記載されているわけではない。

 だが、仮に深月の情報が全て記載されていたとしても、情報量はそう多くはならないだろう。

「いや、知らないだけか」

 自分自身のことをどれほど知っているのか、今はわからない。

 わかっていると思っていたが、日々その認識が揺らいでいく。

 おぞましい悪夢は日増しにはっきりと形を持ち、現実にすり寄って来る。

 誰かにナイフを突き立て、これでもかとその命を奪い尽くす感覚。

 一日が終わろうとしているのに、まだ今朝の血の匂いが身体に染み付いているようだった。

 どれだけシャワーを浴びて洗い流しても、匂いが消えてくれない気がしている。

 不意に彼が近づいて来た時に、距離を置きたくなる。

 気づかれてしまうのではないかと、恐れてしまう。

「いっそ、呪いなら良かったのに……」

 この非科学的な状態を自覚して、まず最初に疑ったのがあの、ヒジリという少女との戦いだった。

 あの時、彼女から受けた魔術になにかしらの呪いが含まれ、その後遺症的なものだったとすれば、説明できると思った。

 けれど、そんな期待にも似た予想はすぐに否定された。

 誰かに相談したわけでも、組織が調査したわけでもない。

 もし魔術的なものであれば、うてなが気づくはずだ。

 直接顔を合わせても、うてなは特に反応を見せない。

 魔力の残滓すら感じられないという事だろう。

 つまり、深月が見ている悪夢と魔術はなんら関係がないという事になる。

 そこで疑問が浮かんだのだ。

 自分は、何者なのだろうか、と。

 龍二にまつわるデータを閉じ、改めて自分自身のデータにアクセスするが、やはりなにも見つからない。

 悪夢と関連性のある情報は、どこを探しても皆無だった。

「あとは、本部のデータベース。けど、難しいわね……」

 可能性があるとすれば、本部の独立したコンピューターに記録されているデータになるが、ただのエージェントがアクセスできるようなものではない。

 深月のアクセス権で閲覧できるデータは、先ほど見たものと変わらないだろう。

「どう、すべきか……」

 テーブルに両肘を乗せ、頭を抱えながら深月はため息をついた。

「なに、残業?」

 そこに声をかけてきたのは、部屋に戻ったはずのうてなだった。

 彼女が地下室に入ってきたと気づかなかった事に、深月は内心舌打ちをする。うてなに対して、ではない。そんな事にも気づけないほど弱っている自分自身に、だ。

「少し、ね」

 俯いていた顔を上げた深月の表情は、悩みを抱えているとは微塵も思わせないものだった。

 冷めているわけではないが、どこか事務的にも感じられる、特徴のない表情だ。

「あなたこそ、まだ起きていたのね」

「目が覚めちゃって。ついでに喉も渇いてたから」

 入り口付近の壁に寄り掛かって答えるうてなの格好に、深月は僅かに目を細めた。

 上は大きめのシャツを着ているだけで、下はおそらく、下着しか身に着けていない。この家で暮らしているのが深月とうてなの二人だけで、ついでに同性だという点を考慮しても、彼女の寝間着姿は無防備を通り越してズボラと言うほかない。

 安藤龍二が出入りするようになって、少しは改善されるかと思ったが、どうやら期待外れだったようだ。

「私のことなら気にせず、あなたは休みなさい」

「もちろんそうさせて頂きます」

 うてなは悪びれもせず、当然のようにそう答えて見せる。深月が要請でもしない限り、うてなが事務仕事を手伝うことなどまずないだろう。

「…………なに?」

 そのまま立ち去ると思い込んでいた深月は、なぜか黙ったまま壁に寄り掛かっているうてなに視線を戻す。

 深月の視線に気づいたうてなは、少し考えるように髪を撫で、毛先を弄る。

 言いたい事は決まっているが、どう切り出せばいいのか悩んでいるようだった。

 が、すぐに考えるのをやめ、真っ直ぐに深月へと問いかける。

「この任務ってさ、結局どうなれば終わりなんだろ」

 探りもなにもない、単刀直入な質問だ。いかにもうてならしいと、深月は僅かに頬を緩める。

「いい加減、嫌になってきた?」

「別にそうは言ってない。ただ、いつまで続くんだろうなって、ちょっと思って、さ」

 彼女にしては歯切れの悪い言い方だが、そう思うのも当然だろう。

 少なくとも、最初の誘拐事件さえ解決すれば終わりだとうてなは考えていたはずだ。

 だが実際には、二ヶ月が経とうとしている。

 任務の内容も、安藤龍二の護衛という単純かつ幅の広い、曖昧なものになっていた。

 『かもしれない』という言葉が並ぶ、捉えどころのない任務だ。

 おまけに今は学生として潜入させられ、授業まで受けさせられている。

 うてなの性格を考えれば、嫌がったとしてもおかしくはない。

 事実、学生としての潜入が決まった当初は、明らかに乗り気ではなかった。

「任務を外れたいというのであれば、掛け合ってみることはできるけど」

「いや、そうじゃなくて……というか、なんだろうね」

 以前であれば喜んで受け入れていたであろう提案に、うてなは困ったような笑みを浮かべて頭を掻く。

「どっちかって言うと、悪くないんだ。うん、これはこれで、ありかなって」

 自分でも不思議なんだけど、とうてなは僅かに頬を赤らめる。

 年相応の少女が見せるような普通の表情に、深月は内心驚いていた。

「ま、憧れてた漫画みたいな楽しさとは全然違うんだけどさ」

「よくは知らないけど、当たり前のことでしょう?」

「わかってたつもりなんだけどねぇ。いやでもホント、ああいう普通な感じの、そんなに変わらない毎日っていうのも、学校だと違うものなんだなって思った。これが青春ってやつですかねぇ」

「さぁ、どうかしら」

 青春という言葉は、久良屋深月からはある意味、一番遠い言葉だ。理解できるわけがない。

「このまま卒業までとか、あると思う?」

「可能性はあるでしょうね」

「それは、どうなのかなぁ……うーん」

 喜んでいいのか微妙なところだ、とうてなは苦笑する。

 すっかり冷めきった紅茶が残るカップを、深月は指先でなぞる。

「どうなるにせよ、彼の安全が確実とわかるまでは続くんじゃないかしら」

「やっぱそうか」

「……早くそうなるといいわね」

 深月はそう言って視線をパソコンのモニターへ戻す。

「……だね」

 だからうてながその時、どんな表情をしたのかを見逃した。

「んじゃ、戻るんで」

「えぇ」

「久良屋もほどほどにね。夜更かしはお肌の天敵だそうですよ?」

「…………」

 無言で顔を上げた深月から逃れるように、うてなは地下室から出て行った。去り際に一応、おやすみと残して。

 うてなが去って静かになった部屋に、深月のため息が広がる。

 つい数分前まで、自分自身が何者なのかと悩んでいた時とは違う重さが、深月の肩に圧し掛かっていた。

 期せずして、うてなが残していった疑問。

 安藤龍二の護衛任務は、いつまで続くのか。

 期間について、深月も考えた事がないわけではなかった。

 だが、その事を考えた時に浮かんだのは、より大きな疑問だ。

 その任務の終わりは、なにを意味するのだろうか?

 魔力という希少なものをその身に宿す、安藤龍二という少年。

 任務が終わるという事は、彼を護衛する必要がなくなるという事だ。

 それは、一切の危険が彼に及ばないという事だろうか?

 それとも、守る必要がなくなるという事だろうか?

「……博士」

 真っ先に浮かぶのは、組織の中枢であり、全てを把握している女性だ。

 深月やうてなが抱くすべての疑問に答えられる、おそらくは唯一の存在。

 彼女は、なにかを目論んでいる。

 それがなんなのかを、深月は知るすべがない。

 断片的な情報から、いくつか推察する事はできる。

 博士の目論みにはもう一人、欠かせない人物がいる。

 それが逢沢くのりだ。

 彼女は組織のエージェントであり、その中でも特別な存在だった。

 安藤龍二と、逢沢くのり。

 どちらもただの少年と少女ではない。

 逢沢くのりは彼の監視役として、あの学校に二年以上前から潜入していた。

 博士が差し向けたのは、疑う余地もない。

 ただの気まぐれ、という可能性を完全に否定する事はできないが、なんの目的もなく逢沢くのりを選んだとは、やはり考えにくい。

 それほどまでに逢沢くのりというエージェントは、優れた存在だった。

 あの博士が求めるなにかが、そこにはあるはずなのだ。

 そしてそれは、うてなにも言える。

 同じ性質の、世界に二人だけの魔力を持つ存在が出会った。

 博士は知っていたのだ。安藤龍二は魔力を持つ存在であり、それが神無城うてなの魔力と同質のものだという事を。

 そうまでして作り上げた状況が、ただの実験だとは思えない。

 なにか大きな目的があり、その渦中にあの二人はいる。

「私も例外ではないとしたら……」

 深月は椅子に背を預け、天井を見上げる。

 その可能性もまた、捨て去る事はできない。

 自分がなぜ、この任務に選ばれたのか。

 結局のところ、なにもわからないという事に変わりはない。

 どれもこれも、想像でしかない。

「……嫌なものね」

 今の自分が辿り着いた答えに、目を閉じる。

 どのような結末であろうと、それが幸せなものになるとは、どうしても想像する事ができなかった。

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