第3章 第2話 夢か幻、あるいは その5

「設営も完了、と」

 誰にともなく龍二は呟き、携帯のアプリでリストアップした項目に全てチェックがついている事を確認した。

 再度見直してみるが、チェック抜けはない。

「間に合って良かった」

 文化祭は明日が本番だ。その前日の放課後、それも比較的早い時間に全ての準備が完了しているクラスや部活は、そう多くない。どこもギリギリまで、下手をすれば泊まり込みで作業をする場合も多い。

 よほどの事がなければ泊まり込みの許可は下りないが、中にはそれを楽しみにしている生徒もいる。

 文化祭の準備という特別な時間の中で、夜の学校はその特別さを際立たせる。去年は龍二たちのクラスも、泊まり込む必要に迫られた。

 その失敗が今年は活きたと言える。簡単な出し物にした事も、もちろん大きな理由だ。

「だから言ったでしょ。なんとかなるって」

「本当ならもっと楽に終わってたはずなんだよ」

「いいじゃん。間に合ったんだからさ」

 余裕をもって立てたスケジュールを食い潰した張本人は、微塵も悪びれる様子がない。

 結果良ければ全て良しと言いたげなうてなに、龍二はため息を吐く。

 うてなを筆頭とする数名のごり押しで、結局はメニューの数を増やす事になってしまった。そのせいでメニュー表や看板の修正という作業が発生し、スケジュールに遅れが出たのだ。

「久良屋さんがいなかったら、結構ヤバかったんだよ。冗談じゃなくて」

 全体を把握している龍二はかなり焦ったものだが、それをサポートしてくれたのが深月だった。

 極力目立たないようにしていた深月だが、さすがにパートナーの暴走には責任を感じたらしい。

 うてな達の意見をまとめ上げ、実現可能なレベルに落とし込んでくれた。すぐに必要な作業のリストアップや食材の追加、予算の調整などをこなしてみせた。その手際の良さに、龍二は呆気に取られてしまうほどだった。

「最初から久良屋さんにお願いしておけば良かったかも」

「パートナーの尻拭いをしただけよ」

 尻拭いと言われたうてなの顔が若干引きつるが、深月は毛ほども気にせず続ける。

「それにこれは、あなたたちの文化祭。私がでしゃばるのは、違うと思うから」

 だから極力、口も手も出さないようにしていたのだと、深月は肩を竦める。

「まぁ、実行委員は僕たちだけどさ。でも、今はほら、久良屋さんもクラスの一員だし。そんな他人事みたいに考えなくていいと思うけどなぁ」

 龍二は笑みを浮かべてそう言うと、集まってダラダラとし始めていたクラスメイトたちに向き直り、お疲れさまと解散の挨拶を済ませる。

 その後ろ姿を、深月は唇を引き結んで見つめていた。

 余裕をもって解散できる事に浮足立つクラスメイトたちは、部活の手伝いなどに向けてすぐに教室を出て行く。

 他のクラスの友人に助っ人を頼まれ、そちらに向かう者も少なくない。

「んじゃ、私たちも帰ろ」

「ごめん。その前にもう一回、チェックしておきたい」

「は? さっきやったばっかじゃん」

 鞄を手に帰ろうとしていたうてなは、なにを言ってるんだこいつはと言いたげに眉をひそめる。

「そうなんだけど、まだ時間あるし。だから念には念を入れてもいいかなって」

「なにその生粋の社畜みたいな思考」

「誰かさんが試食しすぎてないか不安でね」

 妙な呼び方をされたお返しとばかりに、龍二は鼻を鳴らしてうてなを見やる。

 そんな事を心配する必要はないとは言えず、うてなは悔しげに唸った。

 一本取ってやった事に満足した龍二は、材料が保管されている家庭科室へと向かう。

「私、喉渇いた。久良屋、頼める?」

「えぇ。寄り道せずに戻ってきなさいよ」

「はいはい」

 ひらひらと手を振りながら、うてなは二人から離れて階段を下りて行く。

 小さくため息を吐く深月を龍二は宥めつつ、階段を上って家庭科室を目指した。

 数日前とは打って変わり、各教室や廊下には活気が渦巻いていた。

 その活気の何割かは、間に合うか否かという焦りや悲鳴混じりのものだが、それもまた文化祭特有のものだ。

 いつもと同じだが、空気の違う廊下を進んで家庭科室へと入る。

 他の生徒は見当たらない。

「じゃあ、僕は冷蔵庫のほう、確認してくるから」

「えぇ。私はここで……」

 深月はそこで言葉を切り、スカートから携帯端末を取り出す。

「……こんなときに」

「なにか用事?」

「そう、ね。うてながすぐ戻ると思うけど……」

 すぐとは言っても、一階の自販機で購入して戻るには、早くても二分か三分はかかる。急な要件なのか、深月はその数分の差に小さく舌打ちをした。

「僕なら大丈夫だよ? どうせここで数を確認するだけだし」

「一人にするのは問題があるわ」

「でも、ちょっとだけでしょ? 最近は比較的問題もないし、万が一のときはほら、これがあるし」

 すっかり馴染んだ腕時計を見せて、龍二は笑う。

「うてなもすぐ来るだろうしさ」

 渋っていた深月は、再度通知が届いた携帯を一瞥し、視線を龍二に戻す。先日、うてなが龍二を一人にした事を咎めた身としては、忸怩たる思いのある判断だが、仕方がないと割り切る。

「……絶対にここから動いてはだめよ?」

「約束する」

 足早に出て行った深月の影を、龍二はしばらく見つめていた。

 なんだか最近、疲れているように思える。余裕がない、とでも言えばいいのだろうか。

 護衛とは別の任務に加えて、文化祭の手伝いまでさせてしまった事を、龍二は反省していた。

 うてなのように、深月にも学生としての生活を楽しんで貰えたらと思っていたが、負担になってしまうのでは問題だ。

「うてなくらい気楽に……は無理だろうなぁ」

 真面目な性格だからこそ、色々と任されているのだろう。

 文化祭が終わったら、なにか労いの機会を設けたいと考えながら、冷蔵庫に手を掛ける。

「…………」

 そこで、手が止まった。

 不意に訪れた一人きりの時間。

 僅かに開いた窓から、生温い風が吹き込んで来る。

 その風に乗ってきたかのように、彼女は窓際に佇んでいた。

 ほんの数秒前まで、誰もいなかったはずのその場所に。

「おいっす」

 逢沢くのりが、そこにいた。

 記憶の中から出てきたような、見慣れた制服に身を包み。

「久しぶり。元気してた?」

 なにも変わらない、ありふれた想い出と同じ笑顔で。

「くの、り……」

「うん」

 龍二がようやく絞り出したその声に、はっきりと答えてみせた。

 夢でも幻でも妄想でもなく、確かな存在として、逢沢くのりはそこにいた。

 突然のことに呆然とする龍二の手から、携帯がこぼれ落ち、床に当たって音を立てる。

 が、龍二は気にせず、バカみたいに口を半開きにしたまま、その姿を凝視していた。

 そのバカみたいな視線を楽しげに受け止めながら、くのりは軽快な足取りで龍二に近づき、床に転がった携帯を拾い上げる。

「落としましたよ?」

「あっ、えっ……う、うん」

 手を伸ばせば触れられる距離にくのりがいる。その事実に龍二の思考は、まだ混乱していた。反射的に携帯は受け取れたが、次にどうするべきかは、考えられなかった。

 くのりが、いる。

 目の前で、おかしそうに笑っている。

 単純な思考が頭を埋め尽くし、体温を上昇させる。

「くのり……ほ、本当に……」

「生きてますよ。触って、確かめる?」

「ちょっ、ば、バカ言わないでよっ」

 ぐっと身を寄せてきたくのりに、龍二は慌てて半歩下がった。

 その初々しい反応を見て、くのりは悪戯が成功した子供のように笑みを浮かべる。

 変わっていないという確信が、喜びとなってくのりの全身を巡っていた。

「良かった……生きて、たんだ」

「おかげさまで。なんとか動けるようになったから、顔、見に来ました」

 もう大丈夫だと証明するように、その場でくるりと回ってみせる。計算し尽くされたように、スカートがギリギリでひらめいた。

 だが龍二は、そんな事に思考を割く余裕などなかった。

「生き、て……くのり……生きて、たんだ」

 もしかして、という予感はあった。

 先日の、差出人不明のパックジュースの差し入れ。

 まさかと思いつつも、期待せずにはいられなかった。

 あの日からずっと、願っていた僅かな可能性。

 見つかっていないのなら、生きているかもしれないという淡すぎる希望。

 抱くには儚すぎる希望だったが、どうして願わずにいられるというのか。

「生きてるよ、私」

「うん……うん」

 堪え切れずに溢れ出した涙は、拭っても拭っても止まる事はなかった。

「あ、ははっ……ごめん、なんだろ……ちょっと、待った」

 必死に堪えようとするが、堰を切ったように流れ出した感情を止められるほど、龍二は強くなかった。

 冷蔵庫に寄り掛かって嗚咽を漏らす龍二を、くのりは愛おしげに見つめる。

 龍二が変わらずに向けてくれる感情で、胸が疼く。

 無事を喜んでくれている姿に、愛情が溢れ出しそうになる。

 ――やっぱり、間違いじゃなかった。

 想いは変わらず、今もまだ、安藤龍二を愛していると、強く実感する。

 それだけでも、危険を冒した甲斐があった。

 一方的で自分勝手な満足感を得ながら、くのりは龍二の肩に軽く触れる。

「話したいこと、いっぱいあるけど……今日は、ここまで」

「えっ、待って。僕は――」

「今あの二人に見つかるわけにはいかないから。もう限界」

「で、でも!」

 わかっているのに、引き留めずにはいられなかった。

 龍二は肩に置かれたくのりの手を掴もうとするが、なにも掴めなかった。

「また、会いにくる」

「くのり……」

 力なくその名を呼ぶが、引き留めることは無理だと悟っていた。

 うな垂れる龍二の手に軽く触れ、くのりは横を通り過ぎていく。

「あ、そうだ。忘れてた。ねぇ龍二」

 背後で立ち止まったくのりは、龍二の背中に声をかける。

「――――えっ」

 反射的に振り返った龍二は、なにが起こったのかをすぐには理解できなかった。

 柔らかな感触が唇に触れ、甘く啄むように噛まれる。

 一秒にも満たない、不意打ちのキスだった。

「く、くのっ、くのりっ?」

「隙だらけ」

 驚いて口元を抑える龍二の耳元にくのりはそう囁き、またその横を通り過ぎて背後に回る。

「くの……り……」

 龍二が振り向いた先には、もうその姿はなかった。

 半開きになった窓が、カーテンを揺らしている。

 あっという間の出来事だった。

 あの嵐の夜から願ってやまなかった再会は、束の間。

 だが確かに、彼女は生きていた。

「…………また、絶対」

 会える、と信じたい。

 夢などではないのだから、きっと会える。

 生きているのなら、絶対に。

 龍二はそう思いながら、唇に残るストロベリーミルクの味を確かめるように、優しくそっと触れた。

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