第2章 エピローグ
「わかってはいたけど……あまり役に立てなかったわね。ごめんなさい」
ストレッチャーに乗せられた深月は、弱々しい微笑みを浮かべてそう謝罪する。数分で駆けつけてくれた救護班に手当てを受け、意識を取り戻したばかりだった。
数ヵ所を骨折していたり、内臓にもダメージを負っているようだが、命にかかわる怪我はなかったらしく、龍二は胸を撫でおろした。
「最初からそういう約束でしょ。鈍った拳一つ分……十分すぎるくらい、助かったよ」
若干の皮肉を込めた言葉ではあるが、安堵する気持ちが含まれているのは、その表情を見ればわかる。
「そう、だったわね。約束を守れて、なによりよ」
目を閉じて答えた深月の口元が、傷の痛みに歪む。
「ま、細かい話は元気になってからにしよっか」
「えぇ……それじゃあ、彼のことはお願い」
「おう」
任せておけとばかりに親指を立ててうてなが答える。
それを見届けた深月は、医療機器を備えたワゴンタイプの車に搬送された。
「あの車、救急車じゃないけど……」
「あぁ、組織の医療施設に運ぶんでしょ。いつものこと」
「やっぱりそうなんだ。凄いな」
「普通の病院だと面倒だしね。よっぽどのことじゃなきゃ、施設行きだよ」
あの怪我がよっぽどのことではないのかと、龍二は内心驚く。前提とされている怪我の度合いがどうなっているのか、聞くのが怖くて口には出せなかった。
そんな龍二の内心など知る由もなく、うてなは肩を揉み解しながら、奇跡的に原形を留めているベンチに座った。
「あんたも座れば?」
三人掛け用に作られたベンチには、十分な空きがある。うてなに促された龍二は、素直に従う。彼がこの現場でできることなど、もうなにもない。
龍二はベンチに座り、破壊しつくされた現場を調べる人の流れを目で追う。
魔術師の少女の遺体は、すでに回収されて搬送済みだった。
救護班が到着したのは、彼女が息を引き取ってから二分後だ。蘇生を試みてはいたが、やはり手遅れだった。
「うてなは治療とか、大丈夫なの?」
「自前の魔力でなんとかなるんで」
「そう言えばそうだった」
「……ま、食費はかかるけどね」
暗い雰囲気になるのを嫌ったのか、うてなは茶化すように肩を竦める。その横顔を龍二はちらりと窺う。
一見すると落ち込んでいるようには見えないが、なにも感じていないとも思えない。
逆にいつも通りにしようとしすぎて、無理しているように見えた。
そうだったとしても、なんら不思議はない。
「うてなのせいじゃ、ないと思う。その、彼女のことは……」
「当然でしょ」
ベンチに背を預けて、うてなは腰のポーチを外す。中からスティックタイプの菓子を取り出して食べ始める。
「あんなのはさ、限りなく自殺に近い自滅っていうの。私はただ、それに付き合ってあげただけ」
だから罪の意識を感じたりはしていない、とでも言いたげだ。が、そうは見えない。
「ホント、バカみたいだと思う。全てを捨てて復讐なんてさ……そう思わない?」
嘲るような言葉とは裏腹に、そう語るうてなの瞳は哀しみの色を宿していた。
そこに感じているのは、彼女を死に追いやった責任か、それとも……。
二人の間にある事情を知らない龍二には、わからない。
たとえ事情を知っていたとしても、わからなかっただろう。
彼にわかることは、ほんの僅かだ。
「……そうしなくちゃ、気が済まなかったんじゃないかな」
龍二の呟きはどこか遠くへ向けたもののように、破壊されたアスファルトの上に落ちる。
「そういうやつも、いるんだろうね」
今度はうてなが龍二の横顔を窺い、相槌を打つ。
彼が今、誰を思い浮かべているのかは、聞かずともわかる。
うてなもその姿を、戦いの中でヒジリに重ねた。
同時に、到着した救護班から渡された彼女に関するデータが脳裏に浮かぶ。
彼女――ヒジリカナウと名乗った少女は、その名を
双城という家は、この世界ではかなり優秀な魔術師の家系だった。彼女はその家の長女であり、後継ぎであり……最後の生き残りだ。
そしてもう一人。
彼女がヒジリカナウと名乗った理由は、わかっている。
蟲毒という地獄の中で、彼女自身がその手にかけたのだろう。
だからこそ、とまることを自身にも許さなかったのだ。
犠牲にしたものが大切であればあるほどに、進むしかなかった。
その純粋ともいえる生き方は、あの少女を想起させる。
「あんただったら、どうするの?」
「僕は、どうかな……正直、わかんないよ」
それほどまでに強く誰かを恨んだこともなければ、復讐したいと思ったこともない。
大切な少女を失って感じたものは、深い悲しみだけだ。
誰が悪いとか、誰のせいだとか、そんなことを考えても、仕方がないように思えた。
「普通は、考えないもんねぇ。私もよくわかんないし」
龍二の瞳に浮かぶ哀しみの残滓を打ち消すように、うてなはお菓子を差し出す。
「……ありがと」
うてなの気遣いに感謝しつつ、龍二は一本受け取って食べる。
お礼を言われてこそばゆいのか、うてなも鼻を鳴らして残りを一気に食べてしまう。
「……私はさ、この世界の住人じゃないって言ったら、信じる?」
口の中のものを全て飲み下したうてなは、空になったお菓子の箱を弄びながらぽつりと呟いた。
突拍子もない言葉に一瞬聞き流しかけた龍二は、うてなの言葉を吟味して徐々に首を傾げ始める。
「えっと、冗談……じゃないよね。え、でも……え、えぇ?」
「普通はそうなるよなぁ。まぁ、わかるよ、うん」
バカげた話だとうてなは苦笑するが、だからと言って嘘だと取り消すことはない。
「……本当に?」
「本当に。ほら、そういう漫画とか結構あるでしょ? 異世界転生的な? いや、私の場合は転移が正しい、のかな?」
「別の世界から来たっていうなら、転移じゃないかな」
龍二自身、いくらか馴染みのある単語なだけに、理解は早い。龍二もうてなも、漫画や映画、ゲームといった娯楽を嗜む者同士、話が通じやすかった。
「でも、そうか……だからうてなはあんな凄いこと、できるんだ」
「そういうこと。ここは私がいた世界じゃないから、自分の中にある魔力でやれる範囲は限られてるんだけどさ」
そう言って拳を握り、開く。
龍二は驚きつつも、これまで不思議に思っていたことに説明がつくと、納得する。
物理法則を無視したような跳び蹴りも、異常なまでの回復力も、魔力を持っているということも。
「あれ、でも彼女も魔法みたいなの使ってたよね? それもすっごくそれっぽいやつ」
「あれはこっちの世界に元からある魔術。私のとは、完全にベツモノだよ」
「違いはよくわかんないけど、そうなんだ」
興味をそそられる話ではあるが、詳しく訊いて答えてくれるかは謎だ。どちらにせよ、この状況で詳細を聞かされたとしても、きちんと理解できる自信がない。また別の機会もあるだろうし、先に知っておくべき事はたくさんある。
「それにしても、異世界か。あれ、じゃあ神無城うてなっていう名前は偽名?」
「本名。私の世界にも、日本はあるから」
「え、あるの? ってことは、異世界じゃなくて並行世界が正しいのかな?」
「それが一番しっくりくるかな。話が早くて助かる」
「あぁ、うん」
うてなの言葉を裏付けるものはなにもないのだが、龍二はすんなりと受け入れることができた。
「それって、僕が聞いてもいい話、なの?」
「……口止めはされてないし、いいんじゃない?」
「まぁ、普通は信じないもんなぁ」
そうしてうてなが語り始めた言葉に、龍二は耳を傾けた。
うてながいた並行世界は、全く異なる世界ではなく、それなりに近い歴史を歩みつつも、魔法が身近にある世界だ。主要な国の名称や歴史的事件の類似性もある、親戚のような世界なのだという。
決定的に違っているのは、魔法と呼ばれるものを発展させなければならない事情があることだ。
魔法が衰退しかけた時代に現れた、災厄と呼ばれる破壊的な存在。
その存在を抑え、封じるために魔法が有効だった。
そして封じた存在を監視し、いつかは滅するために研鑽を積み重ねた。
「じゃあ、うてなのその、神無城家が中心になってたんだ」
「そ。本当の名前は
ヒジリに語ったときと同じように、うてなは力なく笑みをこぼす。
そんなうてなの表情には気づかず、龍二は僅かに目を輝かせる。
「なんか、あれだね。物語の主人公みたいだ」
「やめてよ、恥ずかしい」
あまり嬉しくはなさそうに、うてなは顔をしかめる。
「結局はさ、私の世界がこっちの世界にとって、侵略者だっていうのは、変わらないんだから」
「魔力が枯渇したからって、そこまで問題になるの? あ、魔術師の人たちにとってはそうかもしれないけどさ」
「星に満ちた魔力っていうのは、いわば星の生命そのものなの。それが枯渇したらどうなると思う?」
「……元気がなくなる?」
「まぁ、間違いじゃない……って言うか、実際どうなるのか、私も知らないんだ。なにせ、前例ってものがないし。もしかしたら時間が経てば、また満ちていくかもしれない。何百年とかかかるかもしれないけど、さ」
話の規模が飛躍しすぎていて、龍二は今一つ実感できない。
うてなもそれを承知し、理解しなくていいと思っていた。
今の自分たちが実感できる影響など、そうはないのだから。
「未来がどうなるにせよ、今を生きる魔術師にとっては、迷惑どころの話じゃなかったってことだよね」
「でも、うてなは巻き込まれただけなんでしょ?」
「運が悪くて、ね」
「だったら、あんまり重く考えなくても……仕方がないことだよ」
「何千人と死んでなかったら、ね……」
そう言われてしまうと、龍二はなにも言えなかった。
想像することすらできない。
別の世界に一人で放り出され、何千人の命を奪ったと言われた幼い少女の気持ちなど。
十年ほど前の話だとすれば、うてなは当時、まだ八歳に満たない。
「組織が私を保護したとき、なんて言ったと思う? 宇宙人のほうがマシだって言われたの。並行世界じゃ太刀打ちしようがないって」
「まぁ、言いたくなる気持ちはわかる、かなぁ」
同じく魔力で対抗しようにも、すでに奪われてなくなっていた。知らない間に戦うすべを奪われたようなものだ。
それならまだ、既存の兵器で対抗できるかもしれない宇宙人のほうがマシだと言える。
「うてなが組織の一員じゃないって言ってたのは、そういうわけか」
「そう。衣食住を世話して貰うかわりに、居候として協力してるの。もちろん相応の報酬は貰ってる」
「ホント、つくづく主人公みたいだ」
「だから、やめてよ」
「嫌かもしれないけど、僕は本当にそう思うよ。うてなの魔力は、こう……凄く綺麗だったし」
「……あんたねぇ」
純粋な称賛に若干頬を赤らめつつ、うてなは魔力の残っていないグローブを手に取る。
数年分の魔力は、先ほどの攻防で使い果たしてしまった。
だが、その結果には満足している。
これで良かったのだと、あとで思い返しても後悔することはないだろう。
成功するかどうかわからない未来のことより、心を許している二人を守れた現在があるのなら。
「これで私が何者か、少しは理解できた?」
「うん。びっくりするくらいとんでもない女の子だった」
女の子扱いされる気恥ずかしさは、この先も慣れることがなさそうだと顔をしかめ、うてなは咳ばらいをする。
「で、今度はこっちの番」
真剣みを帯びたうてなの視線と言葉が、龍二に向けられる。
ここまで隠さず話すのには、当然理由があった。
龍二には事情を知った上で、尋ねたいことがあるからだ。
「――あんた、何者?」
正面からぶつかり合う視線を細め、あの雨の夜と同じ質問をした。
心の奥を見透かすような感覚に、龍二は思わず息を呑む。
「前、言ってたよね? モルモットがどうとかって」
「あ、あぁ。くのりが、そう言ってた」
一瞬、龍二の瞳に痛みが走る。うてなは胸を刺すような感覚を無視して、続けた。
「その時、出身がどこか、訊いたでしょ? その言葉の意味が、今なら少しは理解できる?」
「……そういう、ことか」
あの時はわけがわからず、龍二は日本だと答えた。だが、今なら、うてなが問いかけた意味が理解できる。
彼女と同じように、龍二も並行世界からやって来たのではないかと、訊いているのだ。
「で? ホントのところはどうなの?」
「……わからない。そんな記憶、全然ないんだ」
「……ま、だよね。転移なんてそうそうできる魔法じゃないし」
「あ、いや、その……記憶が、ないんだ」
「……どういうこと?」
「だから、僕は……」
言ってしまってもいいものなのか、龍二は悩む。
結局、逢沢くのりから聞かされた自身についての話は、二人にしていない。
彼女の言葉がもし本当だったとしたら、組織に知られてはいけないような気がしたからだ。
「なにかあるなら、言って。今なら、私しか聞いてないから。ほら、盗聴用の時計は壊しちゃったでしょ? 携帯の盗聴は予備だから、今は起動してないの。ね?」
そう言ってうてなは自分の携帯を取り出し、盗聴用のアプリが起動していないことを証明しようとした。が、生憎と携帯は壊れている。
うてなは苦虫を噛み潰したような顔をして、小さく咳ばらいをした。
「まぁ、組織の怪しさを警戒するのはわかる。私も、そうだし。でもさ、少なくとも私と久良屋は、信じられない?」
決して口外はしないと、うてなは約束する。
龍二について知りたいという気持ちは、任務には関係のない、うてな個人の感情だからだ。
「あんたの魔力が普通だったら、こんなこと聞かない。でもね、私の魔力は、この世界のものとは質がちょっと違うんだよ。だから本来、この世界には存在しない魔力なの。でもあんたはそれを持ってた。普通じゃ考えられないって、わかるでしょ?」
「なんとなく」
龍二にしてみれば、魔力というものがそもそも異質だが、うてなの言わんとするところは理解できる。
並行世界から転移してきた、神無城うてな。
そんな彼女と同じ性質の魔力を持つ、安藤龍二。
無関係だと容易に言いきれるものではない。
直接的に関係はなくとも、なにかあると考えるのは当然だった。
うてなの真剣さを受け止めた龍二は、小さく頷いて口を開く。
「あの日から、考えてたんだ。僕自身のこと。狙われる理由とか、モルモットだとか、くのりが話してくれたことについて」
ずっと考えていた、と龍二は目を伏せる。うてなは急かさず、次の言葉を待った。
「それで、気付いた。僕には、高校に入学する以前の記憶が、ないんだ」
怯えを含んだ龍二の言葉に、うてなは僅かに眉根を寄せる。
「よく考えてみると、両親の顔も思い出せなくて……あの家に居候する前のこととか、昔の友達とか、思い出とか……なにもかもが、あやふやなんだ。思い出そうとすると気持ち悪くなってくるって言うか……アルバムとか、そういうのもないし」
考えれば考えるほど、足元から世界が崩れていくような恐怖を覚えた。
自分の人生に自信が持てなくなっていくような感覚。
世界のなにもかもから拒絶されたような、途方もない孤独を感じた。
「あの時まで、考えもしなかった。疑問にすら思わなかったんだ。無意識に目を背けていたみたいに、僕は……僕は……」
震える手を握り締め、龍二は顔を上げる。
困惑するうてなの視線に、龍二は微苦笑した。
「ごめん。だから僕、わからないんだ……自分が、何者なのかさえ」
三週間、ひとりで溜め込んでいた感情が、龍二の喉を震わせる。
言葉にしてしまったことで、不安がより色濃くなり、全身の体温を奪っていく。
情けないと、龍二は力なく笑うしかなかった。
「そっか。うん、わかった」
そんな龍二に、うてなは笑みを浮かべて頷く。
慰めるでもなく、憐れむでもない。
それなら仕方がないと、軽く肩を竦めて笑ってみせる。
「お互い、面倒な星の下に生まれたみたいね」
「……そうみたいだ」
泣き出す寸前だった龍二も、つられて笑う。
優しい言葉を期待していたわけではない。話したからと言って、楽になれたわけでもない。
けど、笑うことができた。
彼女もまた、孤独を抱えて生きているのだと、知ったから。
決して同じではない孤独を抱えながらも、彼女は前向きに生きている。
そんな彼女に、自分は不幸だなどと情けない泣き言は言えない。
自分はまだ、なにもしていないのだから。
残された時間はそう長くはないかもしれないが、選ぶことはできる。
絶望して蹲るのか、それとも……。
「とりあえず、頑張ってみるよ。僕なりに、だけど」
「うん、いいんじゃない」
軽く目元を拭った龍二に、うてなは自信に満ちた笑みを返す。
「さて、それじゃ難しい話はここまでにして……」
勢いよく立ち上がったうてなの腹部から、絶妙に空気を読めない音が鳴る。
「うん、お腹空いた」
「だろうね……えっと、乗って来たバイクの収納に、お祭りで買った食べ物、いくつかあるけど」
「お、いいね。でも、冷めちゃってない?」
「そりゃあ、うん」
「なら、基地で温めるしかないか。よし、バイクで帰ろう」
「えっと、僕はどうすれば?」
他の誰かが送ってくれるのだろうか、と首を傾げる。
「せっかくなんだし、晩御飯付き合ってよ。どうせ暇でしょ?」
「え、僕が?」
「いいでしょ。ついでに途中でお菓子とかも買って帰るからさ。今日くらい、付き合ってよ」
「……わかった。僕でよければ」
「よし決まり。んじゃ、行こっか」
すっかりその気になったうてなは、上機嫌でバイクを止めてある入口へと向かう。
その背中に苦笑した龍二は、駆け足でうてなの隣に並んだ。
前向きに歩き続ける彼女を見ていると、頑張れる気がしてくる。
そういうところも、なんだか主人公みたいだと、龍二は思う。
視線を上げ、ため息が出るほどに綺麗な月を見る。
できることは、あるはずだ。
龍二はそう決意を新たに、ぼろぼろの道を歩いていく。
大切なことを一つ、忘れているとも気づかずに。
一緒に花火大会へ行こうと、安藤家で待っている奏のことは、最後まで思い出すことができなかった。
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