第3章 プロローグ
怯える少年に跨り、彼女は振り上げたナイフを彼の胸に突き立てた。
軽い衝撃に少年は目を見開き、戸惑いに揺れる双眸で少女を見上げる。
少年の唇が微かに震え、声にならない疑問をこぼす。だが、色のない瞳で見下ろす少女には届かない。
難なく心臓へと到達したナイフを、少女は両手で引き抜く。
噴き出した血が能面のような少女の顔を濡らすが、微塵も意に介さず、頭上高く振り上げたナイフを再び突き立てる。
一度ではなく、二度でも止まらず、三度、四度と繰り返す。
寸分違わず、少年の心臓、その一点のみを破壊するために、何度も何度もナイフを振り下ろす。
恨みがあるわけではない。
復讐でもない。
少年の胸にナイフを突き立てる理由を、少女は持ってなどいない。
ただ、声が響く。
強烈な使命感が少女を後押しし、その腕を振り上げさせている。
――任務を果たせ。
思考の奥底へと語り掛けてくるその言葉が、少女の頭の中で反響していた。
さらに後押しするように、目の前の少年を殺せと、甘い媚薬のような声が耳朶を打つ。
彼女は、逆らえない。
それが任務であるのなら、果たさなければならない。
少女はそのために生まれ、生きる事を許されているのだから。
疑問を持つなど、おこがましい。
なぜ、などという言葉は不要だった。
殺せと命じられたのなら、あとは実行するだけでいい。
なにも難しい事はない。
偽りの生活を演じるのも、人助けをするのも、調子を合わせて笑う事も。
全ては等しく、命じられたから実行するだけの任務。
殺す事も、変わらない。
できないわけがないのだ。
任務を遂行する事以外に、存在価値などないのだから。
だから、できる。
彼を、殺せる。
気が付けば、少女は囁くように声を漏らしながら、ナイフを突き立てていた。
――あなたを、殺す、殺す、ころす、ころす。
少女を見上げる少年の目から、光が薄れていく。戸惑いや疑問すら、もはや見えない。
だが、なぜだろうか?
色を失っていく少年の表情は、まるで少女に微笑みかけているように思える。
なぜか優しく、なぜか穏やかに。
少女の行為を受け入れるかのように、少年は目を細める。
「――――っ!!」
絶叫は、少女の唇から発せられた。
脅迫的とも言える使命感とは別の、底知れぬ恐怖に彼女は叫ぶ。
そして、ナイフを突き立てた。正確無比だったそれまでとは違い、恐怖の元凶を断つように、容赦なく振り下ろす。
それだけでは収まらず、少年の首を掻っ捌き、穏やかな表情を浮かべられないよう、顔にもナイフを突き立てる。
狂気を孕んだ絶叫と共に、少年の面影を破壊し尽くしていく。
すでに少年は息絶えていた。もう動く事はない。
それでも少女は、やめられない。
少女の手が止まったのは、酷使されたナイフが折れた時だった。
力なく垂れ下がった少女の手から、血塗れのナイフが血だまりへと滑り落ちる。
こと切れて動かなくなった少年に跨ったまま、少女は顔を上げた。
全身を少年の血で染め上げた少女を、銀色の満月が見下ろしていた。
少し前まで生命を宿していた肉塊から目を逸らし、少女は声を上げる。
意味をなさない言葉を、喉が張り裂けるまで。
月に向かって、少女は吠えた。
むせ返るほどに浴びた少年の血が、彼女の頬を伝う。
それはまるで、泣く事を許されない少女の代わりに流れた涙のようで……。
次の瞬間、大きな鐘を打ち鳴らすような音が鳴り響き、彼女は目覚めた。
「…………ひどい、夢」
寝返りを打ち、枕に顔を埋めながら呟いた。
枕元の携帯端末が不愉快な音を鳴らし、早く起きろと彼女を急かすが、お世辞にもいい目覚め方ではなかったため、すぐ起き上がる気にはなれない。
「…………」
が、携帯を操作しなければいつまでも鳴り続ける事はわかっている。
少女は枕に顔を埋めたまま携帯を探り当て、慣れた手つきで目覚まし代わりのアラームを止めた。
そのまま携帯を壁めがけて放り投げてしまいたい衝動に駆られるが、自制した。
ごろんと身体を転がしてベッドの上で仰向けになり、目を閉じて額に腕を乗せる。
またあの夢だ、と誰にともなく呟き、ため息を吐く。
目が覚めても鮮明に覚えている。ましてや、これが初めてではない。
数週間前から、幾度となく同じ夢を見ていた。
原因に心当たりなどないが、きっかけがなんだったのかと言えばそれは、一つしか浮かばない。
ある事件で気を失うほどの怪我をした。
同じ夢を見るようになったのは、あの時からだ。
どうしてなのかは、わからない。
本来なら然るべき相手に相談するべきなのだろうが、彼女は今日にいたるまで誰にも夢の事を打ち明けてはいなかった。
それもなぜかと問われたら、わからないとしか答えようがない。
「どうかしてる……」
自分自身そう思いながらも、彼女は誰にも明かす事なく、ここへ戻って来た。
目が覚めてもなお、胸の奥には殺意が燻っているような感覚が残っている。
それはまるで、他の誰かが抱いていた殺意が伝染してしまったかのようだ。
「まさか、よね……」
突拍子もない想像を掻き消すように頭を振り、彼女はベッドから出て立ち上がる。
軽い鈍痛を覚えるが、許容範囲だ。
あの夢を見て目覚めたときは、いつもこうだ。
握っていたナイフや、突き立てた時の感触すら嫌になるほどハッキリと覚えている。
それなのに、相手の顔だけは思い出せない。
少年、だったと思う。
だが、その少年の顔だけは思い出す事ができなかった。
まるで思い出す事を拒絶するように、認めたくないと理性が蓋をするように。
よろめいて壁にもたれ掛かった少女は、深くため息を吐く。
考えるのはよそう。ただの、悪い夢だ。
そう自分に言い聞かせ、衣装棚から着替えを見繕い、部屋を後にする。
向かう先は一階の浴室だ。
あの夢のせいで汗を掻いてしまった。気分転換もかねて、シャワーを浴びたい。
幸いにも、同居人が目を覚ましている気配はない。これならば、ゆっくりとシャワーを浴びる事ができるだろう。
少女は脱衣所に入ると、手早く服を脱いで洗濯籠に放り投げる。
「……傷は、問題ないか」
全裸で鏡の前に立ち、怪我をして治療を受けた個所を確かめる。
最先端の医療技術による恩恵か、目を凝らしても傷痕は確認できない。
彼女自身、身体に傷が残る事に対して興味はない。任務に支障をきたさないのなら、なにも問題はないのだ。
とは言え、ないに越したことはないのだろうとも思う。
季節はまだ夏。薄手の服を身にまとって生活をする場合が多い。
腕や足にわかりやすく傷が残っていては、さすがに不自然だ。
それに、きっと彼も気にしてしまうだろう。
そう考えれば、傷痕が残らなかったのは不幸中の幸いと言える。
数週間前の怪我から、検査やリハビリなどに思っていたよりも時間を取られてしまった。
おかげで復帰できたのは三日前。
任務の都合上、パートナーと顔を合わせたのも同じ日だった。
「間に合って良かった」
八月が終わり、今日から九月。
夏休みは終わり、新学期が始まる。
彼と顔を合わせるのは、あの事件以来だ。
入院中は連絡の取りようもなかったので、会話をするのも半月以上ぶりとなる。
復帰が更に遅れる事も含めて手は打ってあるが、やはり彼女が彼に同行するのが一番だろうと、彼女自身も思う。
復帰して最初の任務は、彼を安心させる事だ。
自分はなんともないと、無事な姿を見せなくてはならない。
こういうのは、最初が肝心だろう。
彼と顔を合わせた瞬間、安心させるのだ。
「…………」
鏡の中の自分を見つめながら、彼女は頬に手を当てて小首を傾げる。
なにもおかしなところはない。
いつも通りの自分が鏡に映っている。
大丈夫だ、なにも問題はない。
「……いつも、通り」
そう、いつも通りであればいいのだ。
「いつも……」
ふと、わからなくなる。
自分はいつも、どんな表情で彼と会っていただろうか?
無表情、ではないと思う。厳しい表情も、ないだろう。
満面の笑みは、違う。
とすれば、微笑。
そうだ、軽く笑みを浮かべて挨拶をすればいいのだ。
「……おはよう」
声に出してみるが、しっくり来ない。
思わぬ難問にぶち当たってしまったと首を傾げつつ、少女はため息を吐いて鏡の前から移動する。
きっとまだ、寝ぼけているのだろう。
シャワーを浴びてさっぱりすれば、いつも通りの自分になっているはずだ。
特別意識などする必要がない。
それがいつも通りなのだから。
そう言い聞かせながら彼女――久良屋深月は、浴室へと足を踏み入れた。
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