第2章 第3話 彼女の孤独 その1

 廃墟の地面に倒れ伏したヒジリは、全身を引き裂くような痛みに襲われていた。

 限界を超えた魔術の連続行使による反動だ。

 神無城うてなとの戦闘で使用した魔力は、ヒジリの体内で生成される魔力の数十倍。

 その膨大すぎる魔力は、体内に蓄積させているだけでも命を削る。

 術式を発動させるたびに、体内の魔力は外へ出ようと猛り狂う。

 ヒジリカナウは今、その体内に猛毒を抱えているようなものだった。

 気を失いそうな激痛が常に襲い掛かり、薬で誤魔化さなければ正気を保てない。

 それほどの代償を払って、ヒジリはうてなと対峙した。

 ヒジリはそれを、誰に強制されるでもなく、自らが望んで受け入れていた。

「この程度……どうってこと、ない」

 歯をガタガタと鳴らし、地面に額を擦りつけて身体を起こす。

 口の端から血と唾液の混じり合ったものを垂れ流しながら、ヒジリは歓喜に笑みを浮かべていた。

「やれる……やれるよ、私」

 握り締めた拳をもう片方の手で抱き締め、胸に当てる。

 神無城うてなとの戦いを経て、確かな実感があった。

 敵うはずがないと言われ続けてきたあの神無城うてなに、傷を負わせることができたのだ。

 ヒジリが手にした力は、神無城うてなに届く。

 それが証明されただけで、報われた気持ちが広がり、自然と笑みが漏れる。

 この実感の前には、身体の痛みなどどうという事はない。

 いや、もとより肉体的な痛みになど興味も価値もないのだ。

 ヒジリは握り締めた拳をゆっくりと開き、かつてそこに感じていた温もりを反芻する。

 ――そう、この痛みに比べれば。

 這うようにして壁際に移動したヒジリは、背中を預けたまま暗い天井を見上げ、眠るように瞼を閉じる。

 千切れそうな身体の痛みは、すでにヒジリカナウの一部も同然だ。

 その痛みが、思い出させる。

 なにを失い、なにを得たのか。

 彼女に残されたものは、ただ一つ。

 神無城うてなを殺すための、憎悪という魔力だ。

「必ず、果たしてみせるから……あいつに、思い知らせてやる」

 浅い呼吸を繰り返しながら、体内で燻る魔力を抑え込む。

 彼女たち魔術師が行使する術式に、癒すというものはない。

 他者は当然として、自身すら癒す魔術は存在しないのだ。

 それができるのは上位の魔術師――その存在をこの世界では、魔法使いと呼ぶ。

 痛みを感じないようにする事ならば、彼女の魔術でも可能だ。

 が、ヒジリはそうしなかった。

 ほんの一瞬でも、忘れないために。

 神無城うてなすら圧倒する魔力を手に入れた時に失った、かけがえのないものを。

「もうすぐ、叶うよ……ねぇ」

 時間も猶予も、残されていない事はわかっている。

 ヒジリの身体はすでに限界を超えていた。

 このまま戦わずにすごしたとしても、数日を待たずに朽ち果てる。

 だから、やるのなら次が最後だ。

「神無城、うてな……」

 忌まわしきその名を呟き、ヒジリは地面に倒れ込む。

 結末はすでに決まっている。

 神無城うてなとヒジリカナウ、そのどちらかが死ぬ。

 瞼の裏に怨敵の姿を思い浮かべながら、ヒジリは泥沼に沈むように、痛みを抱き締めて眠りに落ちていった。


「酷い有様ね」

 作戦基地である地下に戻ってきた深月は、ソファに寝そべるうてなを見て口元を綻ばせた。

 言い返す気力もないうてなは、憮然とした表情でアイスをかじる。

 いじけた子供のような姿が、さらに深月の笑いを誘った。

「とりあえず、無事でなにより」

「おかげさまで」

 連絡を受けた深月は、予定を繰り上げて本部から戻り、事後処理を担当する部隊に送られて帰還していたうてなと合流した。

 負傷しているという報告は受けていたが、目の当たりにしてみるとやはり、驚きを隠せなかった。

「まさか、あなたがそこまでやられるなんて。また不意打ちでもされたの?」

 皮肉のつもりではなかったが、うてなにとっては耳の痛いものだったのだろう。憮然とした表情を隠すように、ごろりと背中を向けてしまった。

「ごめん、失言だったわ。もう言わないから、機嫌を直して説明してくれない?」

「…………別に、怒ってないし」

 さすがに子供っぽいという自覚があったうてなは、そう言って上半身を起こし、ソファの上で胡坐をかく。

 いつもなら行儀の悪さに一言付け加えるところだが、深月はそれをスルーして椅子に座り、パソコンと自分の携帯端末を接続する。

 ここに来るまで得られた情報は少なく、うてな自身から聞く必要がある。

 うてなもその必要性をわかっているので、渋々ながら話し始める。

 魔力を持つ者の気配を感じたのは昨日の帰り道。

 今日はそれよりも明確な敵意を感じ、戦うしかないと判断したこと。

 相手の魔術師は自分を知っていて、狙いもうてな自身だったこと。

 その相手は並の魔術師ではなく、苦戦を強いられたこと。

「ヒジリカナウ……そう名乗ったのね」

「うん。どういう字を書くかは知らないけど。わかりそう?」

「すぐには、なんとも。組織が把握している魔術師には限りがあるし、そのレベルの機密だと、本部のデータベースに直接アクセスしないと」

「ここからアクセスさせて貰えないの?」

「無理ね。こればっかりは、本部からの報告を待つしかないわ」

「あっそ。ま、正体がわかったところでって感じだからいいけどね。あれはもう、個人っていうより群体みたいなものだし」

 うてなが言わんとすることがわからず、深月は小首を傾げる。

 魔術師ではない深月に説明してもわからないだろうと、うてなは肩を竦めて見せる。

 深月もあえて追求はせず、本部に送るための報告書を作成し始めた。

 ソファから立ち上がったうてなは、食べ終えたアイスの棒をゴミ箱に放り投げ、冷蔵庫から炭酸飲料のボトルを取り出して喉に流し込む。

 大容量のボトルに直接口をつける蛮行に、深月の眉が僅かに吊り上がるが、この部屋で炭酸飲料を好むのはうてなだけなので小言は控えた。

 深月はパソコンに向かったまま、ミルクとガムシロップを少量加えたコーヒーに口をつける。本部で飲んだ時よりも控え目にしたのは正解だったのか、これはこれで悪くはないと一人頷いてから、うてなに視線を向ける。

「それにしても、次のターゲットがあなたになるとは、完全に予想外だったわ」

「ホント。まぁ、あの戦闘で結構派手に魔力を使ったからね。それで気づいたんでしょ」

 ソファに戻ったうてなは、テーブルにペットボトルを置き、鬱陶しげに前髪を掻き上げる。

「あなたの魔力を感知した、ということ?」

「そ。ちょっと使うくらいなら、近くにでもいないとわからないけど、それなりに使っちゃうと、敏感なやつにはバレるものなの」

 あの時まではそれほどの魔力を使う必要性がなかったから、と天井を見上げる。

 組織に身を寄せて、およそ十年。

 今まで他の魔術師と遭遇せずに済んでいたのは、息を潜めるようにしていたからだ。

 存在を探知されればこうなるとわかっていた。

「今回の件は、組織の管理不足だったかもしれないわね。残存する魔術師の所在や身柄は、きちんと管理されているはずだから」

「……他にも管理できてなかったやつがいるよ。三十とか、それくらい」

「まさか。そこまで杜撰ではないと思うけど……根拠は?」

 確信をもって言い切るうてなは、問いかける深月を一瞥し、炭酸飲料を流し込んでから答える。

「そうじゃないと、あいつが内包してた魔力量の説明がつかない」

 嫌悪と憐憫を滲ませて、うてなはソファに身を沈める。

 魔力を持つ者にしかわからないなにかがあるのだろうと、深月は納得する。うてながそう言うのなら、という感情もある。

 なにもかもを深月が知っている必要はない。

 パートナーであるうてなを信じるとは、そういう事だろう。

「わかったわ。そのあたりも調べて貰いましょう」

 よろしく、とうてなは呟いて手のひらを眺める。

 今日受けたダメージは、あと数時間もすれば完全に癒える。

 意識して回復に魔力を回さずとも、この程度なら問題はない。

 考えるべきは、次に会った時どうするか……どう戦うか、だ。

「久良屋はさ、なにもかも犠牲にしてでも殺したい相手がいたら、どうする?」

「さぁ、どうかしら。考えたこともないけど……なに? 件の魔術師にそう言われたの?」

「ま、そんなとこ。どんな無茶をしてでも、私を殺したいみたいだった」

 深月に向けて話すというよりも、独白に近い。

 ヒジリカナウに向けられた感情は、複雑に絡み合っているようにも思えたが、一つの言葉に帰結する。

 なにがあっても殺す、という憎悪。

「随分と恨まれたものね。心当たりは?」

「ない、とは言えないでしょ」

 それがどんなに八つ当たりじみたものだとしても、彼女を始めとする魔術師を追い詰めた要因と神無城うてなは、切り離すことはできない。

「魔術師にとって私は、認められないイレギュラー。異邦人にして侵略者。他にもまぁ、呼び方はあるんだろうけど」

 どちらにせよ、向けられる感情は変わらない。

「復讐にしろ逆恨みにしろ、今更私をどうこうしても変わらないのにね」

 それはうてなの達観であり、事情を知る者であれば誰もが理解するであろう事実だ。

「あなたは、どうするつもり?」

「どうもこうも……あっちがやる気だしね。やらなきゃ、気が済まないんでしょ」

 相手の望みは、うてなを殺すことだけだ。取り引きや話し合いで解決できるものではない。

 拳でしか解決できないなんて、まるで漫画みたいだ、とうてなは内心苦笑する。

「しばらく身を隠すというのは? 数日あれば組織が彼女を確保するでしょうし」

「いやぁ、あの様子だとそう簡単にはいかないと思う。下手な軍隊より厄介な相手だよ、あれは」

 ただの魔術師であれば確保できるだろうが、ヒジリカナウが相手ではそうはいかない。

 本気で抵抗されたら、最悪死人を出すことになるだろうし、彼女は躊躇なくそうするだろう。

 一度戦っているからこそ、うてなにはそれが良くわかる。

「時間切れを待つってのも手ではあるけど、その場合はほら、他のやつに迷惑をかけちゃいそうだし」

「それは、あるかもしれないわね」

 うてなの意見に、深月も頷く。

 彼女は龍二の存在を知っている。人質として狙われる可能性がないとは、言いきれない。

「でしょ? 痺れを切らしたらなにをしでかすか……」

「手負いの獣、というところかしら」

「それ、笑えない……」

 うてなは深くため息をつき、ペットボトルに口をつける。炭酸の刺激が、陰鬱とした気持ちを多少なりとも薄めてくれるような気がした。

「やっぱ、私がやるしかないでしょ」

 肩を竦めるうてなに、深月は心配そうな目を向ける。

「大丈夫なの? 手強い相手なのでしょう?」

 うてなの実力は知っているからこそ、軽くとはいえ負傷していた事に、深月は驚きを隠せなかった。

 油断をしていたわけでもなく、正面から戦って手傷を負うような相手なのだ。

 にわかには信じがたい話だが、実際に怪我をしているうてなを前にしている。

 心配するなというのは、無理な話だった。

 そんな深月の様子に気づいたうてなは、自嘲するように笑みを浮かべる。

「正直、吹っ切れてるつもりだったんだ。もう十年になるし、私が直接なにかをやらかしたわけでもないし」

 中身が半分ほどになったペットボトルをテーブルに置き、うてなは視線を下げる。

 影を帯びる表情に浮かぶのは、擦り減った感情の残り香だ。

「でもやっぱ、いざ目の前に出て来られると、ね……」

 あの日から十年。

 魔術師から直接感情をぶつけられるのは、これが初めてだった。

 想像していたものとは、全くの別物だ。

 真に絶望を知る人間の憎悪は、とても平然と受け止められるものではなかった。

 いつかこんな日が来ると、覚悟していたはずなのに。

 一途な殺意は、とてもではないが処理しきれない。

 ヒジリカナウの目を思い出しただけで、身体の奥が軋む。

 強くなろうと思って生きてきた。

 ひとりでも歩いていけるような、強い人になろうと。

 だから物語に憧れた。

 揺るぎない強さを持った主人公や、その仲間たちのようになろうと。

 どんな逆境にも挫けない、たとえ膝をついても立ち上がる、そんな人になりたいと。

 それがどうしたと、心から笑い飛ばせるような、強く確かな自分を持とうと。

「主人公みたいには、なかなか上手くやれないもんね」

 手足を伸ばしてソファに身を投げ出し、うてなは笑う。

 思い描いていた理想と現実のギャップは、どれほどあるのだろうか。

 まるで泣いているように見えるうてなに、深月はいつも通りの声をかける。

「次の戦い、私が手を貸すわ。援護があれば、少しは楽でしょう?」

 それはエージェントであり、パートナーとしての提案だ。だが、それだけではない事も、確かだった。

「やめておいた方がいいよ。気持ちはまぁ、嬉しいけどね。無茶がすぎる」

 深月の提案に、うてなは苦笑して答える。

 ありがたいという気持ちも、無茶だという言葉にも偽りはない。

 どうしようもない事実として、ヒジリカナウとの戦いに介入できるほど、深月は強くない。

 どんなに優秀なエージェントであろうと……それこそ、逢沢くのりであろうとも。

 そう言えば、ヒジリカナウの姿は、どこか彼女を彷彿とさせるものがあると、うてなは思った。

「怪我をされたら、寝覚めが悪くなるし。これは私個人の問題だから」

 だから援護はいらないと、うてなは肩を竦める。

「あなたの問題は、パートナーである私の問題でもあるの」

「いや、ホントに危ないし。ぶっちゃけ、怪我じゃ済まないよ?」

「わかっているわ。でも、万が一にでもあなたを失うわけにはいかないの」

「そりゃあ、組織としてはそうだろうけど。でも――」

「違うわ。組織がどうとかではないの」

 どう説得しようかと頬を掻くうてなに、深月は真っ直ぐ語り掛ける。

「彼を守るのに、あなたが必要だからよ」

 それは建前でもなんでもなく、深月の本心だった。

 安藤龍二を警護する任務に、神無城うてなは必要だ。

「あいつのためって、ま、そりゃそうだろうけどさ」

 深月の言葉にうてなは落胆するでもなく、ただ事実として受け入れる。

 戦力を考えれば、確かに自分は有用だろう。深月がそう考えるのも、当然と言えば当然だ。

「あなたの背中ほど、安心できるものは他にないの。もちろん、背中を預ける場合も」

 微笑と共に続いたそんな深月の言葉に、うてなは声を上げて笑う。

 そんな冗談を言えるタイプだとは、思ってもみなかった。

 だが、それがいい。

 うてなはひとしきり笑うと、ソファから身を起こして深月を見据える。

「そこまで言うなら、頼りにさせてもらおっかな」

「えぇ、任せて。あなたの鈍った拳一つ分くらいの戦力には、なれると思うから」

 実に頼りになる援護だ、とうてなは再び笑う。

 あまりにも控えめすぎるパートナーの援護が、笑いのツボに入ったようだ。

 笑い転げるうてなに苦笑した深月は、新しくコーヒーを淹れるため、地下室を後にする。

 一人取り残されたうてなは、笑いすぎてこぼれた涙を、静かに拭った。

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