第2章 第2話 黄昏から来た少女 その5

 なにか策があったわけではない。

 彼自身、なにかができると思って飛び出したのではなかった。

 気が付いたら、思わず……つい。

 そうとしか、言いようがない。

 事実、ヒジリに一瞥されただけで、生きた心地はしなかった。

 その視線だけで死を覚悟してしまうような、本能的に恐怖を覚える暗い感情が宿っている。

 情けなくも、膝が笑っている。逃げ出したいと思っても、恐らく走ることなどできないだろう。

 こういう感覚は、三週間前にも味わった。

 二度と味わいたくないと思っていたのに、なにをやっているのか。

 だが、不思議と後悔はなかった。

 あまりの恐怖に、後悔する余裕もないと言えば、そうかもしれないが。

「……なに、考えてんの」

 うてなの声は、微かに震えていた。

 二人の戦いを遠目に見ていた龍二は、彼女たちにあった会話も事情も知らない。

 だから、うてなの声が震えている理由もわからなかった。

 まさか、龍二に向けた怒りに震えているのだとは、想像もしていない。

 驚いているうてなに龍二は頷き、ヒジリへと視線を向ける。

「このバ――っ!」

 バカ、と言いかけたうてなの喉を、ヒジリが締め上げる。言葉を遮られたうてなは、苦悶の表情を浮かべる。

「う、うてな!」

 黙っていろと視線で釘を刺したヒジリは、首を傾げるようにして声を上げた龍二を見る。

 ありったけの勇気を振り絞って踏み出した一歩は、細められたヒジリの視線で縫い留められた。

 不思議なものを見るように、ヒジリはじっくりと龍二の全身を観察する。

 蛇に睨まれた蛙どころの話ではない。

 不気味とも言えるヒジリの視線に、絞り出した勇気はみるみるうちに萎んでいく。

「……待てと、言ったな」

 うてなの喉を掴んだまま、ヒジリは静かに問う。

 龍二は上手く出てこない声の代わりに、ぎこちなく頷いた。

「こいつを庇うのか?」

 そう言ってヒジリは、喉を掴む手に力を込める。苦しげに呻くうてなの目は、龍二を睨みつけていた。

「あ、あぁ。できれば、解放して欲しい。彼女、苦しそうだ」

「バカにしてるの? ねぇ?」

 更に力を込めるヒジリに、龍二は慌てて弁明する。

「し、してないよ! バカになんてしてない! 僕はただ、か、彼女を放して欲しいだけなんだ」

 それはあまりにも滑稽な頼みだった。

 命を奪おうとしている相手に、苦しそうだからやめて欲しいと頼むのは、正気ではない。

 だが、恐怖と戸惑いに軽くパニックを起こしかけている龍二は、大真面目に訴えかける。

「どうして君がこんなことをするのかはわからないけど、待って欲しい。とりあえず、一度落ち着いて話をしよう。なにかその、暴力じゃない解決方法があるかもしれないし。だ、ダメかな?」

 そんなバカげた提案に乗る相手に見えるのかと、うてなは内心龍二を罵倒する。あまりにもバカバカしすぎて、苦しさを忘れてしまいそうだった。

 顔をしかめるうてなとは逆に、ヒジリは口元を僅かに綻ばせる。温度は感じられない冷めたものだが、それは紛れもない微笑だ。

「面白い男だな。度胸があるのか、肝が据わっているのか、それとも……」

「た、ただのっ、バカよっ」

 龍二を値踏みするヒジリに、うてなはそう声を漏らす。

 ただのバカ呼ばわりされた龍二は、心外だと言いたげに目を見開く。

「まぁ、それが妥当か」

 うてなの発言に頷いたのは、あろうことかヒジリだった。

「でも、面白そうなバカだな……何者だ?」

 冷めた微笑を浮かべたまま、ヒジリはしっかりと龍二を見据える。

 そこに込められているものは、純粋な好奇心だ。

「ぼ、僕は、安藤龍二。ただの、高校生だ」

 微かに声を震わせながらも、龍二はそう答える。

「嘘をつくな。ただの高校生が、なぜ神無城うてなと一緒にいる? なぜこいつを庇う?」

「それは、だって……ぼ、僕はその、彼女の……と、友達だから」

「……とも、だち? 神無城うてなの、友達?」

 その言葉を聞いた瞬間、ヒジリの眉が僅かに動いたのを、うてなは見逃さなかった。そして内心、舌打ちする。

 嫌な予感が、一気に膨れ上がった。

「あ、あぁそうだよ。僕たちは友達だ……だよ、ね?」

 そんな変化に龍二が気付けるはずもなく、同意を求めるようにうてなを見る。

 うてなは答えず、文句がありそうな目で龍二を睨み返した。

「こいつは不満そうだけど?」

「な、なんでだろうなぁ? あぁいやでも勘違いしないで。彼女的には違うかもしれないけど、僕としては友達だと思ってるから。それは、間違いない。嘘じゃない」

 後ろ向きな思考に陥っていたことは、すでにうてなの頭から消えていた。

 投げやりだった感情が、新たに湧いてきた怒りに支配されていく。

 この男――安藤龍二をどやしつけてやらなければ、今は気が済まない。

 わざわざ地雷を踏み抜きにいくような発言に、気が付けば拳を握っていた。

 龍二に興味を奪われていたヒジリは、そんなうてなの変化にまだ気づかない。

「ふ、ふふっ……友達なんだ。そっか……そんなものがいたなんて……ははっ」

 肩を揺らして、ヒジリは小さく笑う。喉を掴んだ指の爪が、僅かに食い込む。

「なら、殺してしまおうかしら」

 背中を刺されるような錯覚に襲われ、龍二は息を詰まらせる。

 先ほどと変わらない微笑を浮かべているように見えるが、なにかが決定的に違う。

 殺意の刃が、龍二の心臓を狙っていた。

「そうだ。どうせならそういうのもいい。大切なものを奪われるのがどんな気持ちか、わかってもらわないと……あぁ、それがいい」

 ヒジリはそう言って、うてなから手を離した。

 拘束しておくだけならば、黒い炎で事足りる。そういう判断だ。

 だが、その一瞬にうてなは全てを賭けていた。

 魔力を吸収する特性は、常に発動しているわけではないはずだ。

 背中に一撃を受けた際、その特性は発動していなかった。

 ただその一点に賭け、ヒジリが手を離した瞬間に魔力を走らせ、漆黒の拘束から脱する。

「――ちっ」

 思惑通りに抜け出したうてなは、目の前にいるヒジリへと一撃を加える。

 胴を穿つ鋭い蹴りを受けたヒジリは、舌打ちをして後方に大きく飛ぶ。

「こんのっ、バカっ!」

 ヒジリが予測した追撃はせず、うてなは龍二を背後に庇うように移動し、罵倒した。

 開口一番の罵倒を受けた龍二は、納得がいかないと声を上げようとするが、そんな場合ではないと思い留まる。

「も、文句ならあとでいくらでも聞くよ。とにかく今は、なんとかしないと」

「言ったな? 覚えとけよ、このアホ」

 不機嫌さを隠さず吐き捨てたうてなは、一歩前に出てヒジリを睨みつける。

 うてなに欠けていた戦うという意思が、今はあった。

 それに気づいたヒジリは、楽しげに頬を歪める。

「やっとその気になったか」

「バカのおかげでね」

 皮肉を返す余裕まで取り戻したうてなは、全身の魔力を研ぎ澄ます。

 傷はどれも浅い。動きに支障がないとは言えないが、十分戦える。

 あとは、背後にいるバカを守りながら立ち回れるかどうかだが……。

「なにがおかしい」

「別に」

 笑みがこぼれてしまった事に、うてなは鼻を鳴らす。

 どうかしている。

 諦めてしまおうとしていた自分も、背後にいる平凡極まりない男も。

 そしてなにより、やる気になっている今の自分も。

 なにが自分をそうさせているのか、今は考えない。

 考えるべき事、やるべき事はただ一つ。

「悪いけど、ぶちのめすから」

「本気を出すのね。なら私も――」

 ヒジリが言いかけた言葉は、鮮血と混じり合って吐き出される。

 飛び散った量は僅かだが、ヒジリの唇から漏れた血は、地面を確かに彩った。

「――あんた」

 うてながそう声を出した瞬間、紅蓮の炎に視界を塞がれる。

 壁のように吹き出した炎は、すぐに掻き消えた。

 そしてヒジリカナウの姿も、同様に消えている。

「…………そりゃ、そうか」

 うてなは一人納得して呟くと、呆けたままの龍二を小突く。

 我に返った龍二は、なにかを言いたげにうてなと、ヒジリがいた場所を交互に見る。

「……帰るよ」

 龍二の疑問には答えず、うてなは踵を返す。

 相手が退いてくれるのなら、それに越したことはない。

 そう遠くないうちに、また会うとわかっている。

 その時は、結果がどうであれ終わるのだから。

 今は、これでいい。

 次の戦いに向け、自分がどうすべきかを考えながら、うてなは半壊した競技場を後にする。

 龍二はなにも聞けず、その背中を追った。

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