第2章 第3話 彼女の孤独 その2
「花火? あぁ、そっか……今日か」
朝食を終えてリビングの掃除を手伝っていた龍二は、奏に言われて思い出した。
二十分ほど歩いたところにある河川敷で行われる花火大会は、小規模ながらもこの辺りでは有名な夏のイベントだ。
二年前は奏に連れられて行った。去年は、クラスメイトたち数名と。
今年も行こうと約束していたが、すっかり忘れていた。というより、考えないようにしていたのだろう。
その約束はもう、果たす事ができないとわかっていたから。
「……龍君、どうするの?」
龍二の表情に影が差したと気づいた奏は、話題に上げたことを後悔した。
普通に振舞おうと気を遣いすぎて、逆に墓穴を掘った形になってしまった。
「忘れてたくらいだからね。行く予定はないよ」
同じように龍二も、奏に気を遣わせてしまったことに気づく。
当たり前だった日常に穴が開いたようで、ふとした瞬間、その穴に躓く。
「姉さんこそ、予定とかないの?」
申し訳なさを誤魔化すように、龍二は奏に訊き返す。
「私も、今のところはない、かな」
「そっか」
苦笑する奏を見ながら、龍二は不思議に思う。
龍二から見て、安藤奏の容姿は照れくさくなるくらいに整っている。おまけに性格も良く、面倒見もいい。
クラスにいれば間違いなく人気者になるタイプの女子だろうし、事実、彼女は高校でも大学でも注目を集めている。
本人にその自覚はあまりないようだが、周囲が放っておくとは思えない。
だが、彼女には浮いた話はおろか、それらしい噂や影も見当たらない。
確かに彼女には、その温和な見た目に反し厳しい面もある。
はっきりと意見を言う時は言う性格なので、そのあたりが原因で高嶺の花扱いされている可能性もある。
安藤奏は異性に対して、無自覚にガードが堅い。
が、弟というポジションにいる龍二に対してはそれがない。
だから龍二には、どうあってもわからないのだ。
「なんなら、お姉ちゃんとまた一緒に行く?」
おどけた口調で提案してはいるが、奏としては冗談のつもりはない。去年一緒に行けなかったことが、多少なりとも引っかかっていたからだ。
「えーっと、ごめん。今日はなんか、そういう気分じゃなくて」
「だからこそ、気晴らしに丁度いいんじゃない?」
「まぁ、そうかもだけど……」
渋る龍二の肩に手を置き、奏が優しく微笑む。
「別に私とじゃなくてもいいから。夕方まで時間あるし、ちょっと考えてみて。ね?」
「……うん。ありがとう、姉さん」
龍二の言葉に満面の笑みで奏は頷き、止まっていた掃除を再開する。
そんな奏の背中を見ながら、龍二は気晴らしという言葉を口の中で繰り返した。
「……で、どうかな?」
「どうかなって……あんた、わざわざそれを言いに来たわけ?」
家事の手伝いを午前中で終わらせた龍二は、午後になってから深月たちの作戦基地を訪れていた。と言っても、彼が案内されたのは地下施設ではなく、一階部分のリビングだ。
地下施設はいわば、政府の極秘施設のようなものだ。護衛対象とはいえ、一般人を入室させるわけにはいかない。
その点について龍二は少し残念に思ったが、生真面目な深月が特別な許可を出すはずもないとすぐに諦めた。
「二人とも、興味ない?」
龍二が二人の下へやって来た理由は、花火大会についてだ。龍二自身はそれほど行きたいという欲求はないが、うてなに連れ出された先日のことを思い出し、気晴らしにどうかと提案しに来たのだ。
「花火大会、ねぇ」
深月はともかく、うてなならすぐに食いつくと思っていた龍二にとって、彼女の薄い反応は意外だった。
「ほら、気晴らししたがってたでしょ? いい機会かなって思ったんだけど」
「気晴らしなら、この間したし」
素っ気なく言ったうてなは、ソフトクリームを舐める。
白いキャミソールにショートパンツという、実に隙だらけな格好から龍二は目を逸らす。
「それって、出店とかもあるのかしら?」
そして意外にも話に乗ってきたのは、深月だった。
冷えた麦茶をコップに注ぎ、椅子に座っている龍二の前に差し出す。お礼を言って受け取った龍二は、コップに口をつけて喉を潤した。
いよいよ夏真っ盛りな強い日差しは、数分歩いただけでうんざりしてしまうほどだ。よく冷えた麦茶は、生き返るような爽快感を与えてくれた。
「規模は小さいけど、それなりに出てたよ。味は、普通だと思うけど」
「そうなの? 屋台の食べ物は格別だと、以前聞いたのだけど」
「ああいうのはなんて言うのかな、その場の雰囲気で味わうものだと思うよ」
「そういうものなのね」
コップを手に深月も椅子に座り、ちらりとうてなに視線を向ける。
相変わらず素っ気ない態度を取ってはいるが、興味を惹かれているのはバレバレだった。
「もし龍二が行きたいというのであれば、構わないわよ」
「いいの? 言い出しておいてなんだけど、てっきり渋られると思ってた」
「そこまで行動を制限するつもりはないわ。それに、気晴らしが必要という意見には私も賛成だもの」
それは建前ではなく、深月の本心だ。
龍二の方からそういった前向きな提案が出てくることは、彼女にとっても喜ばしい。
深月にとっても意外だったのは、うてなが食べ物の話題になっても乗って来ない点だった。
それどころではない心情はわかるが、それでもうてななら嬉々として乗って来ると思っていた。
「うてな、あなたもどう? 今回は特別に、バックアップに回らなくてもいいわよ?」
普段ならば、深月が表立って龍二の護衛をし、うてなは身を潜めて影から援護する立場だ。
今回はその基本を守らなくていいと、深月なりに気を遣った譲歩をしている。
「私は、いいや。また今度にする」
顔を背けたままそう言ったうてなに、龍二と深月は顔を見合わせる。
行きたがっているのは明らかすぎるが、それでもうてなは首を横に振った。
うてなが魔術師と戦ったのは三日前。
あれ以来、うてなは魔力を感知できずにいる。
それはなにも難しい問題ではなく、相手が戦う意思を見せていないというだけの話だ。
代わりにうてなは、組織から開示された情報に目を通した。
短時間で組織が掴めた情報、把握している状況は限られてはいたが、うてなはおおよその事を理解できた。
ヒジリカナウと名乗った少女の存在。
そして彼女が、どのようにしてあれほどの魔力を手に入れたのか。
それを知ったうてなは、深月の前では平然としているが、時折暗い表情を見せる。
もとより嘘のつけないタイプであるうてなは、感情が顔に出やすい。
思い詰めている事がわかるからこそ、深月は気晴らしを提案したのだ。
「また今度って……頻繁に特例を認めてはあげるほど、優しくはないわよ?」
「そこはまぁ、要相談ってことで」
ようやく深月と視線を合わせたうてなは、肩を竦めて苦笑する。
「今の私じゃ、一緒に行っても気を遣わせちゃいそうだし。久良屋はそいつの気晴らしに付き合ってやりなよ」
「あなたは、それでいいの?」
「今回は、ね」
うてなの意思が変わらないことを確認した深月は、小さく頷いて微笑む。
「それじゃあ、留守は任せるわ」
「りょーかい。ま、楽しんできてよ。あ、お土産なら大歓迎なんで、よろしく」
「覚えていたらね」
そんな深月の冗談めかした言葉に、うてなは口元を綻ばせた。
「それじゃ、私は下に戻るから」
いくらか気が晴れた表情で、残っていたソフトクリームを一気に頬張ると、軽く手を振ってリビングから出て行った。
その背中を見送ったところで、深月が龍二に向き直る。
「というわけだから。私が付き合うわ」
「あ、うん。それはいいんだけど……うてな、どうしたの?」
ヒジリとうてなの間にある事情を知らない龍二は、迷いつつも深月に尋ねた。
「少しナイーブになっているのよ、彼女。ほら、この前の相手に後れを取ったでしょう? それが悔しかったみたいで」
「へ、へぇ。なんか、意外だな」
自分の中にできつつあるイメージとは違うな、と龍二は素直に驚く。
いつも自信に満ち溢れて、どんな困難も打ち砕いて進むような少女だと、龍二は思っていた。
「大丈夫よ。任務に支障をきたすような事はないから」
「わかってる。そこは心配してないよ」
憧憬を覚えるほどの強さを持つ彼女たちを、龍二は心から信頼していた。
その信頼しきった、輝きすら宿す視線は、深月を落ち着かない気分にさせる。
安藤龍二という少年の純粋さは、ふとした瞬間、不意打ちのように心の奥へと潜り込んで来る。
その脅かされるような感覚は、うてなも感じているものだった。
「……それで、何時くらいに出発すればいいのかしら?」
自身を落ち着かせるために喉を潤し、深月は花火大会へと話を戻す。
「花火そのものは日が暮れてから始まるから、あと二時間くらいは余裕がある、かな? でも、ギリギリだと出店とかも混んでくるから、そのあたりも見て回りたいなら、早めに行くのもありだと思う」
過去二年の経験から、龍二はそう提案する。
「なら、早めに出ましょう。周囲の地形も把握しておきたいところだし」
「そういう視点はなかったなぁ」
いかにもエージェントらしい深月の言葉に、龍二は思わず笑みをこぼした。
深月としては当然のことを言っただけなのだが、龍二にしてみればやはり彼女たちは、少し変わった少女に見えてしまう。
「えっと、じゃあもう出る?」
「そうね……あぁでも、どうしようかしら」
「うん? なにかある?」
「いえ、大したことではないのだけど……」
口元に軽く手を当て、深月は思案する。
深刻、と言うのは大袈裟になるが、自身では答えを出せず、龍二に相談するように視線を向けた。
「こういう場合は定石として、浴衣を着ていくべきかしら?」
「え? いや、どうかな」
予想外すぎる話に、龍二のほうが困惑する。
「そういった参考資料を目にしたことがあるのだけど、正直、ああいう格好は不慣れなの。それに、緊急時の対応に適しているものでもないし」
「えっと、いつも通りでいいんじゃないかな?」
「私としてもそうしたいわ。あなたを守るという点でも、普段通りの格好のほうが武器を隠し持てるし。けれど、これはあなたの気晴らしという任務と言えなくもないものだから、相応しい格好をするべきという気もするの」
「任務って……そんな難しく考えなくてもいいんじゃないかな。っていうか、いつも武器とか隠し持ってるの?」
そっちのほうが驚きだと、龍二は内心呟く。どこにどう隠しているのか、非常に気になるところだ。
「時間は、まだあるわよね。少し検討させて貰ってもいい?」
「あ、あぁ……どうぞ」
真剣な顔をしている深月に、龍二は頷くしかなかった。
少し待っていてと言い残し、深月は地下室へと向かう。
彼女が一体どういう判断を下すのか、龍二は不安と期待の入り混じった気持ちで、戻って来るのを待った。
「はぁ……無駄に疲れた」
ようやく一人になれたうてなは、地下室のソファに寝転がる。
龍二の誘いを断り、地下に戻ってからかれこれ一時間が経過していた。
妙な脱力感に襲われている理由は明白だ。
途中で地下に降りて来た深月が、花火大会へ着ていくべき服装について相談してきたせいだ。
相応しい偽装として浴衣を選択するべきか、護衛に適した普段の格好にするべきか。
どっちでもいいだろうというのが、うてなの正直な感想だった。
仮に自分が行くのであればと考えたが、おそらく普段通りの格好を選んだだろう。
シチュエーション的作法としては浴衣を選ぶべきだろうが、思う存分出店を楽しむのであれば、普段着一択だ。
そう力説したうてなに深月は半ば呆れていたが、おかしな事を言ったとは思っていない。
それよりも、深月がそんな事で悩んでいる事実にうてなは驚いた。
任務というのであれば、護衛に適した格好をすればいい。いつもの深月なら、迷わずそう判断していたはずだ。
少なくとも、うてなが知る久良屋深月ならば、そうしていただろう。
言い分からすると、安藤龍二の精神的なものを考えてのことらしいが、なら好きにしろとしか言いようがなかった。
最終的に浴衣で行くと決心したのだが……。
「そりゃあ、ないでしょうよ」
基地には偽装用として、ある程度の衣装が取り揃えてある。
が、残念ながらその中に浴衣は用意されていなかった。
先に確認しておくべきだったと、二人で呆れたものだ。
およそ三十分ほどしていたやり取りは、初めから無駄だったのだから。
結局、いつも通りの格好で龍二と出かけて行ったのが、つい数分前のことだ。
「ま、せいぜい楽しんでくるといいよ」
微笑を浮かべて誰にともなく呟いたうてなは、ソファの裏に置いておいたスーツケースを手に取る。
その中から取り出したのは、特製のグローブだ。
以前、組織に協力する際の見返りとして、うてな自身が開発部に作らせた物だった。
「使うしかない、か……」
本来の用途とは違うが、今回の相手と戦うには必要だろう。
そのグローブは見た目通り、特別なギミックや機械的な補助はなにもない。
ただ一点、素材にうてなの髪が織り込まれている。
他の誰かがグローブを装着したとしても、なんら意味を持たない。うてなが装着してこそ、真価を発揮する。
うてなはグローブを手に嵌め、感触を確かめる。
「問題なし、と」
ちゃんと機能していることを確認したうてなは、グローブを外して一度テーブルに置く。
スーツケースの中から戦闘用のスーツを取り出し、着替えた。
テーブルからグローブを取り、スーツの腰にあるポーチに入れる。
準備はこれで十分だ。
丁度いいことに、深月たちとは別行動が取れる。
深月は手を貸すと言ってくれたが、やはり巻き込むわけにはいかない。
やるなら、今日だ。
そう決心したうてなは、自身の頬を軽く叩く。
気持ちと拳が鈍らないよう、気合を入れ直した。
本部から届いた資料で、ヒジリカナウの素性は把握した。
事情も、理解した。
その上で、決めた。
ヒジリは、悪夢の中に生きているようなものだ。
ならば自分がするべきこと、できることは一つ。
彼女の悪夢を、終わらせること。
この世界でただ一人、うてなにしかできないことだ。
目を閉じ、深呼吸をしてから、開く。
ここにもう一度、戻って来られるだろうか?
また、あの二人に会えるだろうか?
戻って来られたとして、その時自分は、笑えるだろうか?
――この手が、ヒジリの血で染まっていたとしても。
「……行ってきます」
小さくため息をついて、うてなは地下室を出た。
孤独な魔術師と、決着をつけるために。
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