第2章 第1話 おでかけしましょ その2
翌朝、安藤家に鳴り響いた呼び鈴の音は、彼にとって青天の霹靂だった。
「龍二君、います?」
当然来訪した見知らぬ少女に、玄関を開けた安藤奏の時間が瞬間的に止まった。
すぐにハッとして咳ばらいをした奏は、軽装な格好に大きなサングラスをかけた少女をまじまじと見る。
「龍君のお友達、かな?」
「あーはい、そんなとこです。いますよね? 呼んで貰えます?」
その格好から受けるイメージ通りの軽い答えに、奏の警戒心が一段階上がる。
龍二の友人、それも女子の友人となれば、少なからず面識があるが、彼女は初めて見る顔だった。
大きなサングラスで顔がしっかりと見えるわけではないが、それくらいは判別できる。
知らない女子の友人がいても、おかしな事はない。数週間前にも、元カノを名乗る少し変わった少女と出会ったばかりだ。
そう考えれば、奏が警戒する必要はない。ないのだが、この少女はなにかが引っかかる。
「あのー、急いで欲しいんですけど」
「あ、あぁ。えーっと、ちょっと待っててね」
奏はそう言って玄関を閉じようとするが、見知らぬ少女の身体が半分ほど中に入っているので断念する。
なにかを言いたげな視線を少女に向けつつ、奏は階段を上がって龍二の部屋へと向かった。
その背中を見送る少女は、得意げに鼻を鳴らす。
――待つこと数分、困り果てた顔をしながら安藤龍二が玄関にやってきた。
龍二の部屋でなにやら悶着があったようだが、彼女にとっては些細な事だ。
「……なんの用?」
色々と言いたい事や訊きたい事はあるが、まず最初にするべき質問はそれしかない。
「ん? 誘いに来ただけだけど?」
腰に手を当ててそう答える少女に、龍二は久方ぶりの頭痛を覚える。
階段の上から難しい顔を覗かせている奏をちらりと見やり、目立ちすぎるサングラスをかけた少女――神無城うてなに小声で話しかける。
「まさか、また狙われてるとかじゃ……」
「違う違う。誘いに来たって言ったでしょ?」
龍二の不安を吹き飛ばすような軽い調子でうてなは手を振り、肩を竦める。
その答えに龍二は安堵と僅かな落胆を見せたが、すぐに頭を振って気を取り直す。
「えっと、誘いってなに? そんな話、聞いてないんだけど」
「暇なら私とおでかけしましょって言ってるの」
「なんで、僕が?」
「龍二君じゃなきゃダメだから。おわかり?」
「……あんまりわかりたくない」
嫌な予感をひしひしと感じている龍二は、愛想笑いを浮かべる。
「せっかくなんだけど、そういう気分じゃないって言うか」
「いいから、行こ? デート、してあげる」
「は? ちょっ!」
問答無用で龍二の腕を掴んだうてなは、そのまま外に引っ張り出そうとする。
「く、靴! せめて靴を!」
「ん、許可する」
有無を言わせぬその腕力に、龍二はほぼ一瞬で抵抗を諦めていた。
「ちょっと龍君? どういう事?」
「あ、えっとこれは――」
「デートなんで。借りていきまーす」
うてなの蛮行を見かねて飛び出してきた奏に対し、うてなは爆弾じみた言葉を投げつける。
龍二と奏の表情が揃って激変する様子に、思わず頬が緩む。
「で、デートって……龍君!」
「違う! 誤解だから! あとで説明するから!」
状況を飲み込み切れていないながらも、龍二は遠ざかる奏にそう言い残す。
面倒な事になるのは明白だが、この状況を今すぐどうにかできる力が、龍二にはない。
「ほら、さっさと歩く。予定が詰まってんだからさ」
「ちょっと待ってよ。いきなりなんなのさ?」
「だーかーら、言ったでしょ? デートよ、デート」
「だからそれがなんなのさって話……」
「ウダウダ言わず歩きなさいっての。あんまりダダこねるようなら、お姫様抱っこして連れてくけど?」
「……わかった。自分で歩くからそういうのは勘弁して」
ただの少女ならばそんな事はできないだろうが、神無城うてなは別だ。
彼女なら龍二を抱えて歩く事など造作もなく、なんならそのまま飛んだり跳ねたりする事すら可能だろう。
さすがにそれは避けたいのが、健全な男子高校生というものだ。
観念した龍二は、うてなに先導されるまま、着の身着のままの格好で街へと繰り出した。
「うん、このお店も評判通り」
店を出て満足げに頷くうてなは、携帯端末を操作してウェブサイトに高評価をつけた。
通いなれたショッピングモールに龍二を連れ出し、かれこれ五軒目になる。
無理矢理付き合わされている龍二は、その様子にこっそりため息をついた。
「まーたため息。もう少しさー、マシな顔できない?」
「マシな顔って……」
「デートに誘ってあげたんだから、もっと楽しそうにしてくれないと」
「そうは言うけど、これってさ、完全にうてなが食べ歩きたいだけじゃないか」
「年頃の男女が一緒に食べ歩いてたら、それはデートって事になるんじゃない?」
サングラスの隙間から上目遣いに視線を覗かせ、からかうように笑って見せる。その仕草は、どこかあどけなさを感じさせる。
戦っている時の圧倒的な姿を知っている龍二としては、そのギャップに今もまだ戸惑いを覚える。
「そもそもの話になるけど、僕が一緒にいる意味、ある?」
「代金こっち持ちなのに、文句あるわけ?」
「文句とかそういう事じゃなくて。一人のほうが、気兼ねなく暴飲暴食できるんじゃないの?」
彼女が人一倍どころではないほど食べるタイプだという事は、龍二も知っている。どちらかと言えば食が細い龍二にしてみれば、うてなの食べっぷりは豪快すぎて申し訳なくなるほどだった。
「できるならそうしてる。でもね、こっちはあんたの護衛っていう仕事があるの。交代要員もいないから、こうでもしないと気晴らしも満足にできなくてね」
「だから僕を連れ出したの?」
「その通り」
悪びれる様子もなく言いきるうてなに、龍二は思わず苦笑した。
あまりにも自分勝手だと思う反面、それでも自分の護衛という任務を放り出したりせず、巻き込むという選択肢を取る彼女の行動力を、羨ましく思えてしまった。
「納得できた?」
「それなりに」
「なら解決って事で。次の店、行くよ」
ついて来いと親指で示し、護衛対象である龍二の返事も聞かずに歩き出す。
特に不満も不安も覚えることなく、龍二は彼女の後を追いかけ、隣に並ぶ。足取りは自然と軽くなっていた。
「あのさ、一つ質問してもいい?」
「なに?」
「本当に代金、そっち持ちでいいの? 僕としてはその、どうかなって思っちゃうんだけど」
「あぁ、いいのいいの。私の財布が痛むわけじゃないし」
「それってもしかして……」
「納税者に感謝するように」
次の目的地を端末で確認していたうてなは、なぜか得意げに笑みを浮かべて見せる。
なんとなくそんな気がしていた龍二は、非常に複雑な心境でその言葉を受け止めた。
彼女なりのエージェント的冗談ならいいのに、と深く考えることはやめておく。
「えーっと、次はどんな店?」
「いい頃合いだし、お蕎麦屋さんで昼食」
「あれ、ここにあるお蕎麦屋さんて確か」
「わんこそば、初めてなんだよねー。めっちゃ楽しみ」
「……本気?」
「当然。本気の全力で食べ尽くしてやるつもり」
さぞ凄まじい光景になるのだろうと、うてなの食べっぷりを見て来た龍二は思う。
「出禁にならない程度にしておくといいと思うよ」
先ほどまでよりも気持ち邪悪さを増したうてなの笑顔に、龍二は苦笑しつつ釘を刺した。
蕎麦屋の店員に引きつった笑顔で見送られた龍二は、食後のデザートを食べ歩くうてなに連れ回された。そこまで行くと、もはや乾いた笑いしか出てこない。
その様子を疲れていると勘違いしたうてなの提案で、龍二はモールの中にあるカラオケへと連れて来られた。
とにもかくにもようやくひと息つけると、龍二はぐったりと椅子に座り込む。
そんな龍二を横目に、うてなはさっさとカラオケ用の端末を操作し始める。歌う気満々の様子に、龍二は少し驚いていた。
「歌うつもりなんだ」
「ここ、カラオケだよ? 歌わなくてどうすんの?」
「いやそうなんだけど……なんか、イメージじゃなくて」
「え、私ってそんなイメージ? どっちかって言うと、歌わないのは久良屋のイメージじゃない?」
その意見も一理あると思いつつ、やはりうてなもカラオケなどの娯楽に興味があるというイメージは、抱き難かった。
「そういうあんたは? 友達とかと来ることあんの?」
「……少しは、ね。ただ、あんまり得意じゃなくて。いつもは、うん。友達が歌うのを聴いてる方が多かった」
「……ふーん」
龍二のトーンが少し落ちた事に、うてなは内心舌打ちしつつ素っ気ない返事をする。今のネタ振りは失策だったと反省した。
「ま、そういう事なら遠慮なく歌いまくろっと。あんた、なに飲む?」
「あ、注文なら僕がするよ」
「いや、私の方が近いし」
「それもそっか。じゃあ、ウーロン茶で」
「アルコールじゃなくていいんだ」
「当たり前だよ。なんでそんな選択肢が出てくるのさ」
「やっぱそういうのはフィクションの中だけか」
「少なくとも、僕は頼んだことないよ」
「真面目だねぇ」
そう言ってうてなはサングラスを外し、壁に設置されたインターホンを手に取って注文を始める。
その注文がドリンクだけではない事に、龍二はもう驚かない。
うてなは鼻歌まじりに手早く端末を操作して、次々と曲を予約していく。
テーブルを挟んで向かい合う位置に座っている龍二は、そんなうてなの姿を眺めつつ、携帯を取り出してメールを確認する。
案の定、奏から問いただすようなメールがいくつも届いていた。誤解をとくのは骨が折れそうだと、静かに嘆息する。
うてなが一通り曲を予約し終えたところで、最初の曲が始まる。選曲は意外にも、ポピュラーなものだ。
そしてもう一つ意外なことに、うてなの歌唱力はなかなかのものだった。
聴いている側が気持ち良くなるほど、思いきりのいい歌い方をする。
途中でドリンクを持った店員が入って来ても、気にしたりする様子もない。
純粋に楽しむうてなの姿に、龍二は別の姿を重ねてしまう。
こんな風に、二人でカラオケに来ることもあったと。
歌唱力という点ではうてなに軍配が上がるが、純粋に楽しんでいる姿は、どちらも等しく同じに思える。
こうしていると、彼女たちが特殊な訓練を受けたエージェントには見えない。どこにでもいる、普通の少女と変わらなく思える。
だが、違う。
彼女たちは、ただの少女などでは決してないのだ。
「出だしとしてはまぁまぁかな」
一曲目を終えたうてなは、採点機能で表示された高得点に満足してドリンクに口をつける。
「上手でびっくりした」
「ま、これくらいはね」
満更でもない笑顔を浮かべ、うてなは次の曲を歌い始める。
溜まっていた鬱憤を晴らすような歌声を聴きながら、龍二は薄暗い室内を照らすカラオケのモニターをぼんやりと眺める。
ちょっと強引な女子に振り回される夏休みの一日。
他愛のない、どこにでもありふれている日常のような空気。
あれからもう三週間が経過したというのに、それでもまだ、不意に哀しみが襲ってくる。
なにをしていても、なにもしていなくても。
いなくなってしまった彼女の影が、意識のどこかに存在する。
こうしている今も、彼女の姿を他の誰かに重ねてしまう。
何気ない行動や仕草ですら、彼女を想起させる。
十分すぎるほど泣いた。涸れるほどに泣いた。
だから次は、歩き出す番だ。
自分が何者なのかを、知るために。
「おい」
いつの間にか歌い終えていたうてなに、額を小突かれる。
痛みを感じるほどではなかったが、反射的に額を押さえる。
「聴き専なら聴き専らしく、ちゃんと聴いとけ」
「ごめん。ちょっと考え事してて」
不満に目を細めて睨んでくるうてなに、龍二は素直に謝罪する。
物思いに耽っている間に、うてなは入力した曲を全て歌い終えていたようだ。ひと息つこうとしたところで、龍二がぼうっとしている事に気づいたのだろう。
カラオケの操作端末をぐいっと龍二のほうに差し出し、顎で指し示す。
「いや、だから僕はあんまり得意じゃなくて――」
「いいから、一曲くらい歌いなって」
引き下がる気は一歩もないと、うてなの半眼が物語る。
「本当に僕、得意じゃないんだって。それに正直、あんまりそういう気分じゃないし」
「だろうね。もう三週間経つって言うのに」
その話題にうてなが触れるのは、初めてだった。意図してここまで触れずにきたが、これ以上は我慢できないと口を開く。
「言っとくけど、元気出せとか、さっさと忘れろとか、励ますつもりとか全然ないから。ただね、ずっとそうやって落ち込んでいられると、こっちまで気が滅入ってくるの」
「……ごめん」
「謝る必要ないし。こっちの都合、押し付けてるようなもんだから」
傲慢な物言いになるのは承知の上で、それでもうてなは続ける。
「この三週間、あんたが部屋に籠ってなにを考えてたかは知らないし、わかるわけもない。だから共感とか同情とか、そういうのはしてやれない。優しい言葉は、他の人がかけてくれるだろうし」
そういう立ち回りをするのは久良屋深月か、姉代わりの安藤奏が妥当だろうと、うてなは思う。
どこまで行っても、自分は外の人間なのだという意識が、強くある。
その上で、かけてやれる言葉は、そう多くはない。
「私から言えるのは、空元気でもいいからそろそろ捻り出せとか、そんなところ」
厳しかった表情を和らげ、うてなはマイクと操作端末を改めて龍二に差し出す。
「そのためにも、とりあえず一曲、バカみたいに歌ってみなよ。こういう時はさ、借り物の言葉でもいいから、とにかく自分で自分を励ますに限るの。その点歌ってのはさ、絶好の借り物だと思うし。下手でもなんでもいい。とにかく思いっきり、歌ってみるといいよ」
揺るぎない自信に満ちた言葉が、龍二の胸を軽く叩く。
「たった一つのフレーズでさ、頑張ろうって気持ちが、欠片でも湧いてくるもんだから。そういうきっかけがあれば、次の一歩がなんとなく見えてくるもんよ。少なくとも、私はそうだった」
最後の言葉はどこか照れくさそうでありながら、確かな実感のこもったものだった。
薄暗い部屋でなければ、彼女の頬が僅かに紅潮していることに龍二も気づけただろう。
「だからほら、一曲。あんたが歌わないと、私も次、歌えないんだから」
どこまでも強引なうてなの言葉に、龍二は苦笑しつつ頷いた。
マイクと操作端末を受け取り、彼女なりの励ましに応えようと歌いたい曲を思い浮かべて探し始める。
その様子を眺めるうてなは、柄にもないことを言ってしまったと少し後悔していた。
自然と訪れてしまった沈黙に居心地の悪さを覚え、トイレにでも退避しようかと考えるが、歌えと勧めた手前、そうするわけにもいかない。
彼の歌唱力がどうであれ、自分にはちゃんと聴く義務がある。
そんなうてなの様子に気づいたわけでも、沈黙に気を遣ったわけでもなく、今度は龍二が口を開く。
「あのさ、まだ僕のこと、監視してたんだよね?」
「……そうだけど?」
「ずっと部屋に籠ってたけどさ、僕、考えてたんだ。あの日から今日まで……今も、考えてる」
「……なにを?」
「自分が、何者なのか」
真っ直ぐな視線がぶつかり、うてなは思わず息を呑んだ。
僅かな表情の変化に龍二が気づいたのかはわからない。
「……哲学?」
腹芸が得意ではないうてなは、極力平静を装いながら龍二を見る。
「あぁいや、そういうんじゃなくて。なんで狙われたのかとか、そういうやつ」
「……で? なんかわかったの?」
「全然。ただ、自分自身に疑問みたいなのは、いくつか。まだ上手くまとまってなくて、説明はしにくいんだけどさ」
「ふーん。ま、嫌でもわかる時が来るでしょ」
「……だろうね」
だからと言って、目を逸らしてはいられないのだと、龍二は自分に何度も言い聞かせていた。
考えた先、歩き出した先になにが待っているとしても。
無様に転んで怪我をするとわかっていても、歩くことだけはやめられない。
たとえ後ろ向きだとしても、立ち止まることだけはしないと、あの日、決めたのだ。
悲痛なまでの生き方を見せてくれた彼女のためにも、そうしようと。
「……それじゃ、拝聴させて貰いますかね」
龍二が予約した曲の伴奏が始まり、うてなは強張っていた表情を緩めた。
「えーっと、頑張ります」
やや緊張した面持ちで龍二はマイクを握り、歌い出しの瞬間を待つ。
うてなの言葉を思い出しながら。
ここからだと、画面に表示されたフレーズに合わせて喉を震わせた。
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