第2章 第1話 おでかけしましょ その1

 神無城うてなの苛立ちは、今にも頂点に達しようとしていた。

 安藤龍二誘拐事件が一応の解決をみてから、すでに三週間が経過している。

 彼を護衛するという任務は、だらけきった彼女の態度に目をつむれば、今この瞬間も継続中だった。

 肌寒さを感じるほどに冷房のよく効いた部屋は、新たな作戦基地として用意された一軒家の地下一階にある。

 以前より一区画分ほど離れた場所に設けられた新たな作戦基地は、施工期間の短さを考慮した場合、上出来だと言えるだろう。

 地上部分は二階建てであり、日常生活を送る上で不便は一切ない。監視するための装置や装備は、全て地下の施設に収容されている。

 施設の利便性などはうてなにとって重要な事ではないが、行きつけのコンビニなどが以前よりも近くなった事は、素直に歓迎していた。

 が、それはそれとして、彼女の鬱憤は日々溜まる一方だった。

 安藤龍二の護衛そのものに不満があるわけではない。うてな個人としては、彼が持つ特異な体質に興味を抱いている。

 人格的な面に関しても、そう悪い感情を抱いているわけではない。

 だが、鬱憤が溜まる原因がなにかと言えばそれは、やはり安藤龍二に起因する。

「もう八月になったって言うのに……」

 サイズの合っていない白いシャツに、デニムのショートパンツというラフな格好で、うてなはモニターを睨みつける。

 デスクの下に独断で設置した小型の冷蔵庫からアイスを取り出し、噛りつく。

 そして、耐えがたい痛みに襲われて顔をしかめた。

 デスクに突っ伏してその痛みに耐えたうてなは、顔を上げて再びアイスに噛りつく。

 その視線の先にあるモニターは、安藤龍二の部屋を映し出していた。

 夏休みも半ばに差し掛かろうとしている昼下がり、龍二は机に向って課題に勤しんでいた。いや、勤しんでいるように見えた。

 あの事件の直後、彼は塞ぎ込んでいた。その事についてとやかく言うつもりは、うてなもない。

 すぐに普段通りの生活に戻れと言うのは、さすがに酷だろう。

 彼の身に起こった事、彼が失ったものを考えれば、他人がとやかく言える問題でもない。

 時間でしか解決できないものもあると、うてなも身をもって知っていた。

 事件の直後から夏休みに入ったのは、彼にとってある意味救いと言える。

 受け入れるための時間は、十分にあった。

 そのおかげか、先日、安藤家で行われた長女の誕生日には、彼も久しぶりに笑顔を見せていた。

 見ている方が歯がゆくなるほどに悩んでいたプレゼントも、きちんと手渡していた。

 たとえ浮かべていた笑顔が、痛みを抱えたものであったとしても、ただ塞ぎ込んでいるよりははるかにいい。

 モニター越しに監視していたうてなは、そう思った。

 それから数日、彼は安藤家から外に出る気配がない。

 事件の直後に一度だけ外出したそうだが、生憎とうてなはその時、爆睡中だった。

 大量の魔力を消費した反動で、目が覚めたのは事件から二日後。

 特別な休暇を貰えるわけでもなく、すぐにまた彼の護衛についている。

 その事について、同僚の久良屋深月や上層部に文句を言ってやりたい気持ちは今もまだあるが、それは胸に秘めておく。

 深いため息をつ漏らして椅子にぐったりと背を預け、キーボードの横に足を乗せる。

 行儀が悪いと深月がいれば小言の一つもあるだろうが、今はうてな一人だ。なんの気兼ねもする必要がない。

 とにもかくにも、安藤龍二が問題なのだ。

 ここ数日、机に課題を広げて向かってはいるが、それが捗っているとはお世辞にも言い難い。

 一問解くのに数時間を要するほどの難問か、もしくは彼の知能が著しく低下しているのでなければ、だが。

 四六時中監視しているうてなにしてみれば、それは時間の浪費としか言いようがない。

 落ち込むのはわかる。

 塞ぎ込むのも仕方がない。

 だが、いつまでもそれではダメなのだ。

 生きているのなら、傷ついても無様であろうとも、歩かなければ。

 そうしなければ――。

「……なに?」

 深く考え込みかけた思考を中断し、モニターの隅に表示されたビデオ通話に応答する。

『……なんて格好をしているのよ、あなたは』

 開口一番、モニターに大きく表示されたパートナーはうてなに苦言を呈する。

「退屈なもので、つい」

 溜まりに溜まった鬱憤を発散するように、うてなはたっぷりと皮肉を込めて答える。

 漫画で見た、鼻をほじるジェスチャーもつけてやろうかと考えたが、さすがにそれは自制した。

『退屈って……あなた、ちゃんと監視はしているの?』

「してるしてる。なんもなさすぎて、監視する意味があるのか疑問になるくらいにねー」

『今はあなた一人なのだから、気を抜かないで』

「この感じなら大丈夫でしょ。人工知能君も優秀だしさ」

『それでも、よ』

 数日前から、龍二の監視任務はうてなが一人で行っていた。睡眠中なども含め、人工知能がサポートに入る形で、どうにかこなせている。

 あの事件以降、彼の周囲に危険な気配は一切ない。

 首謀者の生死は未だ確認が取れていないが、恐らくは大丈夫だろう、というのが本部の出した結論だった。

 だからこそ、正式なエージェントである深月が数日前から任務を離れ、うてな一人に任されている。

「いつ頃戻ってくるの?」

『報告はもう済ませてあるわ。ただ、メディカルチェックと今後の打ち合わせがまだあるから、あと数日はかかるかもしれないわね』

「マジかよー」

 食べ終えていたアイスの棒をゴミ箱に放り投げ、うてなは天井を仰いで嘆く。

 その行儀の悪さに深月はしわを寄せるが、小言は呑み込んだ。

「私の休暇はいつになるんですかねぇ?」

『もともとそんな予定は組まれていないけど?』

「は? え? 嘘でしょ?」

 椅子から飛び起きるようにして、うてなは画面に顔を寄せる。

「普通貰えるもんでしょ? 任務達成のご褒美的なバケーションとか」

『どうして貰えると思ったのかがわからないわね。漫画やドラマの見過ぎじゃないかしら?』

「いやいやいや! それがあると思ってたから我慢してたんですけど⁉ わかる? あいつってばこの三週間、一歩も外に出てないの。つまりどういう事かって言うと、私もこの快適な部屋から出てないって事なの」

『……快適なのなら問題ないのでは?』

「ありもあり、大ありでしょ。私は外出したいの」

『なんとなく理由はわかるから聞かないでおくわ』

「……そこはまぁ、プライベートな事ですから」

 考えを読まれているのだと悟ったうてなは、ばつが悪そうに視線を逸らす。

 つまるところ、退屈なのだ。

 監視の片手間にかつてはゲームなどを嗜んではいたが、熱中しすぎるという理由でモニター室からは撤去されてしまった。うてなとしては抗議したい気持ちはあるものの、強く言えない。

『とにかく、我慢なさい。彼もまだ、完全に立ち直ったわけではないのだから』

「そりゃあ、わかるけどさ……でも、こんな状態で監視する必要、ぶっちゃけなくない?」

『安全だという意見には賛同するけど、判断するのは私たちではないわ』

「言うと思った……」

 予想通りの答えに、うてなは辟易する。

 確かに今の状態は安全と言えば安全だろう。外出すらしないのだから、危険になる可能性がそもそも低い。

 自宅周辺の監視は特に厳しくされているので、直接襲撃されるような事もまずない。

 彼が再び襲撃、あるいは誘拐される可能性があるのかすら怪しい。

「いや、あるにはあるけど……」

『なにか言った?』

「別に」

 完全にないとうてなが断言できないのは、彼が魔力を有しているからだ。

 この世界において魔力を有している人間は、数えるほどしか存在しない。

 神無城うてなはその中の一人ではあるが、他の保有者とは決定的に違うのも事実だ。

 そして彼――安藤龍二は、うてなと極めて近い性質の魔力を有していた。

 それがどういう意味を持つのか、うてなにもまだわからない。

『そろそろ時間ね』

「ん? あぁ」

『できるだけ早く戻れるようにするから、それまで我慢して。休暇の件も、掛け合ってみるから』

「マジ? 期待していいの?」

『善処する』

「オッケー。じゃあ、そういう事で」

 通信が切れる瞬間、モニターの向こうで深月が小さくため息をついていた。

 多少なりとも前向きになれる話ができた事で、うてなの気分も僅かに晴れた。

 それがうてなに、ある考えを抱かせる。

 なにも難しく考える必要などなかった。

 護衛対象である龍二が外出してくれない事が問題なのだ。

「そう、発想の転換ってやつよね」

 彼が外出するという事は、うてなも外出できるという事だ。

 我慢ならもう十分にした。

 初めは楽しく食べていられたコンビニの食事も、こう続くと飽きがくる。美味しいとは思うが、やはり変化は欲しい。

 デリバリーの利用は極力控えるよう深月からお達しがある以上、そこにバリエーションを求める事は難しい。

 組織が用意する栄養素しか取り柄のない食事など、もってのほかだ。

 たまには、最低でも二日に一度はまともな食事がしたい。

 それはごくごく当たり前の欲求だと、うてなは思う。

「よし決めた。あとはプランを立てて……ふふ。楽しくなってきた」

 冷蔵庫から新たにアイスを取り出したうてなは、パソコンに向かって検索を開始する。

 これはなにも、自分が楽しみたいからという理由だけではない。

 彼を外出させ、適度に遊び、食べ歩く。

 塞ぎ込んでいる彼を元気づける意味合いとしても、十分肯定される行為だろう。

 うてなは自分をそう納得させ、相も変わらず机に向って考え込んでいる龍二を見て、ほくそ笑んだ。

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