第1章 第4話 サヨナラbetrayer その3

 港の中にある廃工場の一つが、逢沢くのりの潜伏先だった。

 本部から連絡を受けた深月とうてなはすぐに急行し、すでに別行動を取っている。

 深月が工場内に点在する見張りを排除している間に、うてなは別のルートで内部に潜入し、囚われている龍二と合流する作戦だ。

 うてなが戦力として復帰するには、龍二と合流する事が絶対条件だった。

 深月がおとりとなり、逢沢くのりを龍二から引き離す。

 実質、戦力と呼べるものは深月一人ではあるが、それは逢沢くのりにしても同じだ。

 数人の見張りを配置してはいるが、どれも練度は低い。

 この国では銃器の入手と同様に、手練れの傭兵も揃えるのが難しい。

 組織単位であればまた違ってくるが、個人でどうこうできる数は限られている。

 それでもくのりが用意した見張りは七人。拳銃程度の装備はしていると仮定すると、大したものだと感心する。

「これで六人。あとはあの子次第ね」

 くのりを除いた見張りが七人であれば、残るはあと一人。龍二が監禁されていると思われる場所を監視しているはずだ。

 その一人は、うてなに任せるしかない。

 少しでも監禁場所から離れた位置で、逢沢くのりの相手をする必要がある。

 電気ショックで気絶した男を拘束した深月は、使えなくなった装備をその場に残し、工場の奥へと進む。

 いよいよ強まってきた風に、建物がうなりを上げていた。

 じっとりと汗ばむ額を拭い、僅かに光の漏れている部屋の前に立つ。

 罠を警戒しつつ、静かにドアを開ける。

「怪我の一つくらいはって期待したけど、やっぱりムリだったみたいね」

 部屋の中で待ち構えていたのは、本命である逢沢くのりだった。

 頼りない灯りの下で、壁に寄り掛かって深月を見据えている。

 黒いスーツとジャケットに身を包んだ姿は、深月とよく似ていた。

 よく見てみれば差異はあるものの、ほぼ同一と言える。

 明確な違いと言えば、くのりが装備しているガントレットを深月は装備していないという点だ。

「開発部から持ち出されたと聞いてはいたけど、やはりあなたが持っていたのね」

「退職金代わりに、ね」

 くのりは悪びれる様子もなく、肩を竦めて壁から離れる。

 激しい雨音よりもはっきりと、その足音が響く。

 かつては作業場だったと思しき部屋は、戦うには十分な広さがある。

 しかし、規則的に並んだ作業台があるため、平面的に見れば広いとは言いきれない。

 二人は互いを見据えたまま、部屋の中央へと進む。

 作業台を挟んだ状態で立ち止まり、深月が電気銃をくのりに向ける。

「大人しく彼を返す気はある?」

「あったらこんな格好してるわけないでしょ」

 念のため確認する深月に、くのりは鼻を鳴らして答える。

 敵愾心を剥き出しにするくのりの態度は、深月が転校してきた時に見せたものとそう変わらない。

「私さ、結構本気でイラっとしてたんだよね、久良屋の事」

「随分と可愛らしい敵意だと思っていたけど、本気だったのね」

 深月は教室の時と変わらず、悪意のない返事でくのりの神経を逆撫でする。

「何が気に入らなかったの?」

「なにもかも。なんなの? 元カノを名乗って潜入するとか。バカげてるにもほどがあるでしょ。どんな判断であんな設定にしたのか、逆に聞かせてくれる?」

「あれは、私の判断ではないわ。パートナーの一存だから、勘違いしないで」

「なるほど。さすが異邦人ってとこね。魔法とかいうインチキに加えて、頭の方もぶっ飛んでるんだ」

 嘲るというよりも、単純におかしいと少女らしくくのりは笑う。

 任務として殺人までこなしたエージェントらしからぬ姿に、深月は内心、戸惑いを覚えていた。

 生徒として見せていた姿は、全て演技だったはずだ。だから、今見せている姿も演技だと思っていた。

 だが、あまりにも自然すぎて、不可解だった。

「さて、言いたい事はまだまだ山ほどあるけど、時間も勿体ないし、始めよっか?」

 まるで遊びに誘うような口調で、くのりは髪を払う。

「とりあえずその玩具、捨てたら? スーツを着てる以上、牽制にも使えないでしょ?」

「……そうね」

 深月はあっさりと電気銃を放り投げる。バッテリーの容量的にも、あと一度使えるかどうかだ。それにくのりの言う通り、互いに着ているスーツは電気を通さない。

 露出している首から上にかけて当てる事ができれば効果はあるが、くのりが相手ではまず不可能だろう。

 本部から送られてきた逢沢くのりの情報を信じるなら、深月よりも格上の戦闘能力を有している。

 組織内部でもその任務達成率と戦闘能力はトップクラスだ。

 そんな彼女がなぜあんな場所に潜入していたのかは、未だに謎だ。

 組織を裏切り、龍二を誘拐してどうするつもりなのか。

 個人的にも問いただしたい事はいくつもある。

 だが、それを許してくれる状況ではない。

「それじゃ、行くよ?」

 深月の返答など待たない。

 くのりは身を低くして疾走し、規則的に並ぶ作業台の間を縫って接近する。

 フェイントも何もない。勢いを乗せた回し蹴りが、深月を襲う。

 咄嗟に腕を上げてそれを防ぐが、勢いを殺しきれずに深月はよろめく。

 衝撃を吸収する素材で作られたスーツを着ていなければ、防いだ腕を折られてもおかしくはなかった。

 人並外れた速度や威力は、薬物の使用によるものではない。

 彼女たちが着ているスーツがそれを可能にしている。

 特殊な素材で作られたそれは、内部に人工筋肉を備えていた。

 使用者の脳波を耳に装着した機械が読み取り、スーツの動きを補助する。

 未だ開発段階でありながら、その有用性は彼女たちが実戦で証明していた。

 完全に防ぐ事のできなかった回し蹴りの威力に、深月は顔を曇らせる。

 今の一撃だけで、逢沢くのりがどれほど強いのかを実感させられた。

 くのりが身に着けているスーツはガントレット同様、開発部から持ち出された最新型の試作品だ。

 開発部の話を信じるのなら、性能は全体的に向上している。

 生身での戦闘能力だけでなく、装備の面でも劣っている状況は、絶望的としか言いようがない。

 絶えず繰り出される打撃を可能な限りかわし、無理だと判断した場合は素直にガードする。

 受けるたびに骨が軋むような痛みを覚えるが、深月は全力でそれを無視する。

 折れていなければ問題ないと割り切り、今は防御に徹する。

 辛うじて動きを目で追えているのは、深月にとって僥倖だった。

 反撃を考える余裕などない。

 全神経をくのりの動きに集中させ、ただひたすらに防ぎ続ける。

 暴風のような攻撃の中、満遍なく左右の手足を使ってくるくのりに、深月は違和感を覚える。

 確かにくのりの攻撃は速く、重い。まともに攻撃を受ければ、いくらスーツを着ていようとただでは済まない。

 だが、くのりの攻撃はどこか、深月を試すような意図が感じられた。

「この状況で考え事?」

 楽しげなくのりの声が、深月の耳を掠める。

 瞬きの間にくのりの姿が視界から消え、気が付いた時には両足を払われていた。

 為すすべなく倒れた深月は、辛うじて受け身を取る。

 視界に映る天井から、黒い影が落ちてくる。

 ほとんど無意識の反応で横に転がり、くのりが振り下ろした拳をかわす。

 ガントレットによって穿たれた床が衝撃に砕ける。

 一瞬前まで、そこには深月の胴体があった。

 転がる先まで考慮する余裕のなかった深月は、作業台の足にぶつかって止まる。

 すぐさま反動を使って跳ね起き、作業台の上を転がって次の攻撃をかわした。

 いや、攻撃がくると予想して動いた。

 しかし、くのりの追撃はなく、作業台を挟んで向き合う形になる。

「……どういうつもり?」

 動く気配のないくのりを、深月は訝しむ。

「どうって?」

 くのりは構えもせず、むしろ作業台に手をつき、隙をさらして見せる。

 この距離なら、たとえ先に深月が仕掛けたとしても対処できるという自信だろう。

 それほどまでに、二人の戦闘能力は歴然としていた。

「狙ってくる部位を首より下に限定しているでしょう? 意図して顔を狙ってこない。遊んでいるの?」

 最初からそうだった。そして、先ほど足を払われた際の追撃が深月の中で決定的なものとなった。

 逢沢くのりは、頭部を狙ってこない。

 深月が辛うじて対処できていたのは、その点も大きい。

 頭部に一撃をもらえば、まず間違いなく意識を刈り取られる。

 そうなれば勝負はついたも同然だ。

 だが、くのりは狙ってこない。

 その理由がわからず、深月は訝しんでいた。

「まさかとは思うけど、気を遣っているの?」

 自分でもバカげた事を言っていると思いつつ、そう尋ねる。

 それを聞いたくのりは、肩を竦めて微笑する。

「当然。ま、気を遣ってるのはあんたじゃなくて龍二に、だけどね」

「彼に?」

「そ。だってほら、女子の顔面を平気で殴り飛ばす女子とか、ドン引きされちゃうし」

 予想外の答えに、はぐらかされているのではないかと疑うが、それを裏付ける根拠はない。

「そんな理由、信じると思う?」

「別にそっちが信じるかどうかなんて関係ないんですけど?」

 疑う深月に対し、くのりは鼻で笑う。

「私はただ、龍二に嫌われるような事はしたくないだけ」

「だから殺すつもりもない、と?」

「うん。これ以上、幻滅されたくないしねぇ」

 そう言って自嘲するくのりが、どこにでもいる少女に見えてしまい、深月は戸惑う。

 本部から送られてきた彼女のデータとは、イメージが違いすぎる。

 かと言って、その言動が演技には見えない。それほどまでに自然体だった。

「あなたがしてきた事を知れば、彼はどう思うかしらね」

「驚いてた。さすがに人を殺した事があるって言われちゃ、無理もないよね」

「……話したの?」

「まぁね。なに、意外?」

「……そうね」

 すでに話していたとは思わず、深月はますます混乱する。

 深月もうてなも、その事を龍二に教えようとは考えていなかった。

 龍二にとって、逢沢くのりが特別な少女である事は揺るぎない。

 今回の事件の首謀者だったと知っても、それは変わらないだろう。

 だから事件が解決したとしても、あえて必要以上の情報を与えるつもりはなかった。

 くのりにしてもそうだろう。

 動機は未だに不明だが、わざわざそんな情報を伝える必要がない。

 いや、龍二を脅すための材料として使えるかもしれないが、そこまでする必要性を感じない。

「……わからない。なにを考えているの?」

「あんたには、関係ない」

 休憩は終わりだとばかりに、くのりが跳躍する。

 作業台を飛び越え、旋回しながら踵を横から浴びせる。

 屈んでかわす深月の頭上を突風が吹き抜け、流れる髪の毛を僅かに刈り取っていった。

 これまでにない大振りの攻撃に対し、深月は初めて反撃を試みる。

 隣の作業台に降り立つくのりの足首を掴み、しかしすぐに放して飛び退る。

 そのまま掴んでいれば、間違いなくもう片方の足で腕を蹴り折られていた。

 顔は殴り飛ばさないと言っていたが、腕をへし折るつもりはあるらしい。

 平気で腕をへし折る女も大概だろうと、深月は内心悪態を吐きながら、腰の後ろに手を回す。

 手にした装備は、ナックルガード付きのスタンバトンだ。

 スイッチ一つで伸縮する警棒は、どうにか用意できた数少ない非殺傷武器だった。

 スーツを着たくのりが相手では、電気ショックによるスタン効果は望めないが、素手でやり合うよりはマシだろう。

 スタンバトンを構える深月を見ても、くのりは涼しい顔をしていた。

 むしろ挑発するように、手招きすらして見せる。

 攻守交替の合図だ。

 深月はその挑発に乗り、床に落ちていた埃まみれの布を拾い上げ、くのりめがけて投げる。

 広がった布に阻まれ、深月の姿がくのりの視界から消える。

 上下左右、どこから飛び出してくるのかとくのりは視線を巡らせた。

 深月が選んだのは、そのどれでもない。

 布を貫くように正面からバトンを突き入れ、くのりの胸元を狙う。

 意表を突くことには成功するが、くのりの反応速度を上回るには至らない。バトンの先端はガントレットで防がれ、軌道をずらされる。

 バトンを弾かれた深月は、そのまま勢いをつけて旋回し、バトンの柄頭を横薙ぎに叩きつける。くのりはそれを防がず、上体を少し引いてかわした。

 紙一重でかわしたくのりの鼻先を、風圧が掠めていく。そうして見せたのは、くのりの余裕だった。

 遊ばれている事に深月も気づくが、構わず攻め続ける。

 バトンでの攻撃は悉くガントレットで防がれ、合間に混ぜた体術は難なくかわされる。

 攻めるほどに実力の差を見せつけられ、逢沢くのりには敵わないと、繰り返し思い知らされる。

 だがそれでも攻める事はやめない。

 それでいいとすら深月は思っていた。

 もとより、ここで逢沢くのりを倒し、捕縛できるなどとは考えていない。

 自分は捨て駒。本命は神無城うてななのだ。

 彼女が龍二と合流し、魔力を回復できるだけの時間を稼ぐ。

 今ここで深月が戦う理由は、それだけだ。

「また余計な事考えてる」

 一瞬、深月の意識が飛んだ。

 くのりの声が遅れて届いたような感覚の後、背中から痛みが襲ってくる。

 どうやら気が付かないうちに一撃を打ち込まれ、壁に叩きつけられたようだ。

 じんわりと広がる痛みを無視して、深月は冷静に分析する。

 反撃された事にすら気づけなかった。いや、くのりの声が聞こえるまで、一瞬とは言え意識を失っていた事にすら。

「もういいや。終わりにしよ」

 眼前に急接近してきたくのりの声に、深月は思いきり身体を捻って横に飛ぶ。

 その直後、ガントレットがひび割れた壁を軽々とぶち破っていた。

 床を転がった深月は、顔を上げた瞬間、反射的に左腕をかざす。

 鋭い痛みが三つ、かざした腕に走る。

 痺れるような痛みを無視して、深月は更に跳躍して距離を取った。

 くのりは深月に腕を向けたまま、一連の動きを見ていた。

 痛みの走った腕に、強い違和感を覚える。

 視線を向けると、極小の針が三本突き刺さっていた。

「開発部の連中ってさ、趣味で仕事してるよね」

「……同感ね」

 針を射出したのは、くのりが装備しているガントレットだろう。

 どんな用途を想定しているのかは知らないが、こうなると開発部に一言、言ってやりたい気分になる。

「殺傷能力はないから安心して。ま、しばらく左腕は使い物にならないと思うけど、ね」

 くのりの言う通り、左腕が思うように動かない。

 利き腕で防がなかったのは、経験からくる本能のようなものだった。

 これで利き腕を失っていたら、状況はますます悪くなっていた。

「まぁ、誤差だろうけど……」

 情けない自己分析に、深月は思わず独りごちる。

「どうする? 諦めて気絶する?」

「まさか」

「そ。じゃあまぁ、死なない程度に」

 遊びにでも行くような口調で襲い掛かってくるくのりに対し、一歩も怯まず深月は迎え撃つ。

 うてなが首尾よく、龍二と合流してくれると信じて。


 頬を叩かれる痛みに、龍二は目を覚ました。

「……目、覚めた?」

 うな垂れていた龍二の顔を、うてなが覗き込む。

 目覚めたばかりだが、これまでに比べてあまり鈍痛はなかった。

「あ、あれ? うてな、さん?」

「おう。平気か?」

 名前を呼ばれたうてなは、なぜか気まずそうな表情を浮かべる。

「えっと、たぶん……僕は……あぁ……」

 椅子に縛られたままだという事に気づき、龍二はため息を吐く。

 気を失う前の出来事は全て、本当にあったのだとわかってしまった。

 質の悪い夢であれば良かったのにと、情けなくも思ってしまう。

「……彼女は?」

「久良屋が足止めしてる」

「そっか……じゃあ、無事なんだ」

「それ、誰の心配?」

「…………ごめん」

 半眼でねめつけられた龍二は、沈んだ声で謝る。

 この状況でくのりの心配をするのは間違っていると、自分でもわかっていたからだ。

 心の底ではまだ割り切れずにいる自分に、龍二は気づいてしまう。

 納得はできなくとも理解はできるのか、うてなもその事をあまり責めるつもりはなかった。

 見た目はそうでもないが、精神的に消耗しているのは明らかだった。

「彼女は……久良屋さんは、くのりに……」

「たぶん、勝てない。私が相手をするしかないだろうね」

「だろうねって、だったらどうして君がこっちに来たのさ?」

「事情があんの。あんたを助けたらすぐ向かうって」

「じゃ、じゃあ早くこれを解いてよ」

 未だに縛られたままの龍二を、うてなは神妙な面持ちで見下ろす。

 ここで龍二の拘束を解かない理由はないはずだ。

「その前に、確認しときたい事があるんだけど」

「……えっと、なんでしょう?」

 目を細めて腕を組むうてなに、龍二は自然と畏まる。

 うてなの方から、ピリピリとした空気を感じていた。

「あんた、何者?」

「何者って言われても……結局、よくわかんないよ」

「逢沢くのりから、何か聞いた?」

「詳細は聞いてない……ただ、ずっと僕を監視する任務についてたらしい」

「あの女が組織の一員だって事は知ってるんだ」

「……うん。彼女がその、人を殺したって事も、聞いた」

「……ふぅん」

 痛みに耐えるような龍二に、うてなは素っ気なく返す。

 内心では、逢沢くのりがそこまで話していた事に驚いていた。

「僕は、モルモットなんだって……」

「なにそれ?」

「わかんない。詳しくは後で、みたいな感じで……」

「モルモット、ねぇ……って事は、あんたも……」

「な、なに? なにか知ってるの?」

「悪いけど……えっと、こういう時は……知る権利がない」

「ここでそれ?」

「ごめん、言い方が悪かった。なんて言うか、私もほとんど知らないの。だからさ、適当な事言って混乱させたくないの。今はそれで納得してくれない?」

「……わかったよ」

 申し訳なさそうなうてなに、龍二は頷く。

 彼女が嘘をつけない性格なのは、僅かな関わりの中でも十分わかっていた。

 だから今は、それで納得する事にした。

「ちなみに、私に隠し事とか、してない? 自分の出身とか」

「出身? 日本だけど?」

「そうじゃなくて……うーん」

 要領を得ない、とうてなは頭を掻く。

 彼女自身も、どう訊いていいか判断しかねている様子だった。

「ごめん。本当に僕、何もわからないんだよ。正直、今は自分が何者なのかも……」

 そう言って龍二は、視線を落とす。

 戸惑い方すら忘れてしまい、ただ俯く事しかできないように、うてなには見えた。

「わかった。ならもういい」

 これ以上問うのは非情だと判断し、うてなは小さく息を吐く。

 できる限り素っ気なくならないようにしたつもりだが、あまり上手くはいっていなかった。

 気まずくなった龍二は、そこでふと思い出す。

「そ、そう言えば怪我、だ、大丈夫だったの?」

「え? あぁ、うん。もう治った」

「治ったって、銃で四回も撃たれたのに?」

 確かにその光景を見ていた龍二は、あまりにもあっさり治ったと言ってのけるうてなに目をむく。

 左右の足に二発ずつ、確かに銃弾を受けていた。

 大量の血を流し、痛みに顔を歪めていた姿を、はっきりと見た。

「ほら、ちゃんと動けてるでしょ?」

 軽く跳ねて見せるうてなを、信じられないような目で龍二は見る。

 疑いようがないほど、うてなは普通にジャンプしていた。

「で、でも、どうやって? あれからそんなに時間、経ってないのに」

「……気合で」

「どんな気合さ!」

 思わずつっこんでしまうが、くのりの言葉を思い出す。

 あの程度では、神無城うてなは死なない、と。

 くのりは確信を持って断言していた。

 それに、少なくとも今日は戦えない、とも。

 戦えないと言っただけで、動けないとは言わなかった。

 普通に考えれば、立ち上がる事も歩く事もできるはずがない。

 それなのにああ言いきれたのは、今のうてなの状態を正確に予想していたからだろう。

「君は一体……」

「説明は後。とりあえず、怪我は治した。でも、おかげで戦うための力が残ってない。今の私じゃ、逢沢くのりにも、久良屋深月にも勝てない。正直、足元にも及ばないの」

 憮然とした表情でうてながため息を吐く。

「え? じゃあ、久良屋さんはどうするのさ? 君じゃなきゃ、助けられないんだろ?」

「方法はある、一応。信じ難い方法だけど」

 頭を掻きながらそう言ったうてなが、龍二に近づく。

「あの、なに?」

「やるしか、ないの……これしか、ないの」

 それはまるで、自分自身に言い聞かせるようでもあった。

 頬を引きつらせつつ、うてなが龍二を見据える。

「……目、閉じて」

「は?」

「いいから! 閉じろって言ってんの!」

「いや、待ってよ。先に説明を――」

「うっさい! さっさと閉じないと、ナイフで斬りつけるよ?」

「なんでさ⁉」

「なんでも! あんた、痛いのは嫌でしょ?」

「そりゃあ嫌だよ。嫌だけど――」

「私もね、血とか勘弁なの。だからとにかく、黙って目、閉じろ」

 なぜか顔が真っ赤になっているうてなに、龍二は渋々ながら頷く。

 これ以上理由を追及すると、何だか危険な気がした。

「こ、これでいい?」

 言われた通りに目を閉じた龍二は、妙な緊張感に喉の渇きを覚えた。

「よ、よし……」

 目を閉じている龍二を確認したうてなが、偉そうに頷く。

 しかし、そこから動く気配はない。

 龍二は不思議に思うが、ここで何かを言うとまたさっきの繰り返しになると考え、黙って待つ事にした。

 およそ一分待ったところで、うてなが口を開く。

「あと一つ、確認しとく」

「う、うん」

 妙な緊張感のある空気に、龍二はまな板の鯉になったような気分で続く言葉を待つ。

「なんであの時、あっさりと逢沢くのりについて行ったの?」

「なんでって、そうするしかなかったじゃないか」

「たとえ無力でも、抵抗する素振りくらい見せるもんでしょ。それにあんた、最悪、殺されるかもしれなかったの、わかってたでしょ?」

「……それは、考えてなかったな」

「……バカなの?」

 身も蓋もない言葉に、龍二は何も言い返さない。

 そこまで考えが及ばなかったというより、余裕が微塵もなかっただけだが、同じような事だ。

「怖く、なかったわけ?」

「全然って言ったら嘘になるけど、でも……信じてたから」

 つい目を開いてうてなを見上げてしまいそうになるが、言われた事を思い出して踏み止まる。

「信じてたって、あんたそれ……」

「うん。また誘拐されても、君たちが助けに来てくれるって、信じてた。だから、あんまり不安とかはなかったよ。現にこうして、来てくれたしね」

 それは偽らざる龍二の本心だった。

 あの時、うてなと一瞬だけ目が合った。

 苦しみながらも、その強い意志は衰えてなどいなかった。

 必ず助けに行くと、言葉以上にその双眸が物語っていた。

「僕が素直についていけば、あれ以上君に危害は加えないって言ってたし」

「いや、逢沢くのりはそんな事言ってなかったと思うけど?」

「え? あ、あれ? そうだっけ? てっきり、そういう話だと思ってたんだけど」

「ま、それだけあんたが逢沢くのりを信じてたって事なんだろうけどさ」

 それでも好意的に解釈しすぎだろうと、うてなは呆れる。

 だが、ため息を吐くその表情は、どこか晴れやかだった。

「とりあえずわかった。私たちの事、それだけ信じてくれてたんだ」

「うん。ヒーローじゃない僕にできる事なんて、それくらいしかないから」

 自嘲気味に笑みを浮かべる龍二の顔を、うてなは両手で掴む。

「う、うてな、さん?」

「いい判断だったよ……」

 そう言ってうてなは、龍二に唇を重ねた。

 あまりにも突然のキスに、龍二は思わず目を開いてしまう。

 耳の先まで赤くなったうてなの顔が、すぐ目の前にある。

 またしても女子に唇を奪われるという状況に、龍二の顔が熱くなる。

 そして次の瞬間、更なる衝撃が龍二を襲った。

「――んっ、んんっ⁉」

 うてなは唇を重ねただけでなく、龍二の咥内に舌を潜り込ませてきた。

 ガタン、と椅子が鳴る。

 くのりの時でさえなかった衝撃的な侵略に、龍二の脳は沸騰しかけていた。

 力任せに押し入ってきたうてなの舌が、荒々しく龍二の咥内を探る。

 出すに出せない声が鼻息となって、うてなの吐息と混じり合う。

 全身の感覚が麻痺するような、奇妙な感覚に龍二は襲われる。

 快感と似ているが、どこか違う未知の感覚だ。

 何かを求める一心で、うてなは龍二の咥内を荒らしまわる。

 一分にも満たない暴力的な口づけは、唇が離れても龍二を放心させた。

 唾液で汚れた口元を拭ううてなは、視線を合わせないように顔を逸らす。

 先ほどよりも更に赤く染まった頬が、妙に艶めかしい。

「な、ななな……」

「黙って……説明は、するから……」

 うてなは背中を向け、羞恥に顔を覆っていた。

 龍二はただただ混乱するばかりで、自身の身体に起こり始めている変化に、すぐには気づかなかった。

「あ、あれ……なんだ、これ」

 身体の芯から熱が溢れ出すような感覚が広がっていく。

 全身を巡る血が沸騰しているような、怖くなる感覚だった。

「はぁ、はぁ……うっ、あぁっ」

 ドッと吹き出す汗に、目眩がする。

 キスをされていた時とはまた違う、身体の奥から熱が飛び出しそうな感覚だ。

 行き場を求めて駆け巡る熱が、下半身に集まっていく。

「ちょっ、なんでっ……」

 自身の変化に気づいた龍二に、羞恥の熱が重なる。

「…………」

 背中越しに視線を向けてきたうてなは、それに気づいても特に何も言わない。

 弁明の代わりに顔を振る龍二を、軽蔑とはまた別の眼差しで凝視する。

 そこには、強い戸惑いが見られる。

「本当に……でも、なんで……」

 うてなはそう呟き、自身の身体を抱き締める。

 彼女もまた、龍二と似た感覚を味わっていた。

 龍二にとっては未知のものだが、うてなにとっては違う。

 それは体内に流れる魔力の猛りだ。

 両足の傷を癒した結果、底をつきかけていた魔力が今、うてなの身体には戻っていた。

 燻っていた火種が燃え上がるように、うてなの全身を魔力が巡る。

「…………な、なに?」

 間の抜けた声は龍二のものだ。

 うてなの身体が陽炎のように揺れている。正確には、龍二の視界にはそう見えていた。

「……なにか、見える?」

 うてなのそれは、確信を持った問いかけだった。

 龍二の身に起こっている変化を、信じがたいと思いながらも認めている。

「なんか、うん……」

「…………そう」

 上手く言葉にできずにいる龍二に、うてなは小さく頷く。

「なにが、起こってるの?」

 子供のような龍二の問いかけに、うてなは答える。

「私には、特別な力があるの。魔力って言えば、イメージできると思う」

「魔力? それって、魔法とかで使う?」

「うん。フィクションの中によく出てくると思うけど、まぁ、実際にあったって事」

「じゃ、じゃあ、君は魔法使い、なの?」

 魔法使いと言われたうてなは、苦笑して肩を竦める。

「思ってるようなのとは違うけどね。今の私が使えるのは、自分の身体に影響を及ぼすくらいのもの。体内の魔力しか使えないから」

 そう言ったうてなは、僅かに表情を曇らせる。

 一瞬だけ滲ませたそれは、郷愁だ。

「……君は、なんなの?」

「逢沢くのりが言ってなかった? 異邦人、とかって」

 耳にした言葉だった。くのりと、あの誘拐犯の少女もそう言っていた。

「まぁ、その説明は気が向いたらしてあげる」

 内側から漏れた感情を手で振り払い、うてなは気持ちを切り替える。

「さっきのは、魔力の補充、みたいなもの。怪我を治すのに、ほとんど使っちゃったからさ」

 うてなはそう言って、自ら足を叩いてみせる。

 痛がる様子も、我慢している様子もない。

「理由は正直、私もよくわかってない。ただ、本部から情報があったの。あんたのその、唾液とか血液を摂取すれば、魔力が回復するって」

「ぼ、僕の? なな、なんで?」

「だから、それは知らないってば。こっちが聞きたいくらいよ、マジで」

 戸惑いを隠せないうてなの言葉に嘘はない。

 ただ、それこそが彼を特別たらしめている要因ではないかと、うてなは内心考えた。

「とにかく、おかげで私はまた戦えるの! それでいいでしょ、今は」

「た、確かに……は、早く彼女を助けに行かないと!」

「わかってる」

 龍二の背後に回ったうてなは、強固な拘束を素手で引きちぎって龍二を解放した。

 いかにも彼女らしい乱暴なやり方が、逆に龍二を安心させた。

「ありがとう。えっと、これからどうするの? 僕は?」

 ドアから顔を出し、廊下を確認しているうてなの背後につく。

 一瞬うてなは顔をしかめるが、すぐに顔を背けたため、龍二には気づかれなかった。

「とりあえず、あんたをどっかに隠さないと。久良屋にはもうちょい頑張って――」

 うてなが端末を取り出したその時、遠くで爆発する音が聞こえてきた。

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