第1章 第4話 サヨナラbetrayer その4

「そろそろ限界って感じだね。もう動きにキレがない」

 荒れ果てた部屋で膝をつく深月を、くのりは微笑を浮かべて見下ろす。

 たった数分の戦闘で、室内は完全な廃墟になり果てていた。

 至るところで壁にひびが入り、規則的に並んでいた作業台は原型を留めている物の方が少なくなっている。床にも十ヵ所以上、何かを叩きつけたような跡が残っていた。

 ボロボロになっていたのは室内だけではなく、深月も同様だ。

 戦いの中でジャケットは剥ぎ取られ、内側に着ているスーツも数えきれないほど切り裂かれていた。

 ジャケットは防刃性能に特化して作られているが、内側のスーツは防弾性能を重視していた結果だった。それでもこの程度で済んでいるのは、スーツの強度があるからこそだ。

「生傷が絶えないのって、女子としては考えものだよねぇ」

「気にした事なんて、ないわ」

「だよねぇ。ま、私も前まではそうだったよ」

 満身創痍の姿でありながらも、くのりを見上げる深月の双眸には、衰える事のない闘志が宿っていた。

 くのりは面白がるでも嘲るでもなく眺めながら、ガントレットの刃を出し入れする。

 拳から僅かに突き出している刃こそ、深月のスーツを切り裂いたものだ。

 極細の透明な針を飛ばすだけでなく、近接攻撃時に使用できる隠し刃まで備えていた。

 開発部への恨み言を呑み下して奮闘した深月だが、これ以上時間を稼ぐのは困難と言わざるを得なかった。

 だが、泣き言を言うつもりも、諦めるつもりもない。

 その意思を証明するように、膝をついた体勢からスタンバトンをくのりの喉元へと突き入れる。

 予備動作をほぼ見せる事無く放たれたそれを、くのりはあっさりと掴み取る。

 そのまま掴んだバトンをへし折り、がら空きになっている深月の腹部を蹴りつけた。

 壁に引き寄せられるように、深月の身体が叩きつけられる。壁を砕いてめり込むほどの蹴りを受けた深月は、息と共に僅かな血を吐き出す。

 今の衝撃で、スーツの内部に埋め込まれた制御チップが破損し、人工筋肉の補助がなくなる。

 圧倒的だった戦力差が、絶望的となった瞬間だった。

 深月は苦々しさを顔には出さず、破損したスタンバトンを放り捨て、次の一手へと考えを巡らせていた。

 うてなから連絡はなく、仮にあったとしても応答している余裕などないが、それでも首尾よく龍二を救出していると仮定する。

 本部から送られてきたうてなへの指示が正しい情報であり、彼女がそれを実行していると願うしかない。

 うてながもう一度全力で戦えるのなら、勝機はあるのだから。

 それはうてなに対する、深月の絶対的な信頼だった。

 そのためにあと少しだけ、時間を稼ぐ。

 自身の身体と状況を考えて、残された手は一つしかないと覚悟を決める。

 腰に装着した左右のポーチから一つずつ、小さな長方形の箱を取り出す。

 安全のために分離させていたそれを組み合わせ、迷わずスイッチを押す。

 見覚えのない道具を目の当たりにしたくのりは、ほんの僅かに眉を動かすが、それほど警戒している様子はない。

 小細工で覆る状況ではないという確信があるからだろう。

 圧倒的な優位と、八つ当たりじみた深月への意識が、くのり自身も気づかない油断となっていた。

 気力だけで床を蹴り、泰然自若と構えるくのりの背後に回り込むように走り、その箱を投げつける。

 胸元へと投げられた箱を、くのりは片手で弾き飛ばす。

 目くらましか何かだろうと高を括っていたくのりは、何事もなく壁にぶつかって床に落ちた事に首を傾げた。

 悪あがきとは言え、何もなさすぎる。箱を弾き飛ばした隙に攻撃してくるでもなく、逃走を図るでもない。

 深月は壁際で立ち止まり、くのりの方を凝視していた。

 いや、見ているのはその奥。弾かれた箱が落ちた辺りだ。

 くのりを中心にして、深月と箱の位置はおよそ対角線になる。

 その事に気づいたくのりは、ハッとして振り返る。

 まさにその瞬間だった。

 床に落ちた箱が、爆発した。

 が、決して派手な爆発ではない。

 本来、施錠されたドアなどを外から破壊するために開発されたものだ。そのため、密着でもしていない限り、殺傷能力はないに等しい。

 しかし、くのりはその用途も、備えた破壊力も知らない。最近開発されたばかりの試作品だった事が、くのりに隙を作る。

 小規模ながらも近距離で爆発を受けたくのりは、咄嗟に腕を交差させ、剥き出しの顔を守っていた。

 背中を向けているくのりに接近し、深月は電気銃を向ける。

 あの場所まで走ったのは、爆発範囲から逃れるためだけではなく、会敵直後に捨てた電気銃を拾うためだった。

 スーツの補助がない以上、肉弾戦ではもはや、凌ぐ事すらままならない。

 そこで電気銃を使う事を思いつくが、普通に狙ってもかわされて終わるだけだ。

 だからこそ深月は、危険を承知で爆弾を使用した。

 分が悪すぎる賭けだったが、ここまでは深月の思惑通りだ。

 後は電気銃をくのりの首に撃ち込めれば、彼女を制圧できる。

 舞い上がる土煙の中、深月はくのりへ電気銃をポイントする。

 ――当たる。

 そう深月が確信してトリガーを引き絞った瞬間、くのりの姿が霞む。

 放たれた電気端子は空を貫き、

「残念」

 言葉が聞こえたと思った時には、瓦礫の中に叩き込まれていた。

 全身がバラバラになるような衝撃と痛みに、深月は気を失いかける。

 ただの一撃も届かなかった。

 ここまでの差があるとは、正直思っていなかった。

 時間稼ぎや足止めくらいはできる、そう思っていた。

 自身の甘さと慢心に痛みが加わり、頬が歪む。

 逢沢くのりの足音が聞こえるが、身体に力が入らない。

 ぐったりと横たわったまま、近づいてくるくのりを見上げ、深月は笑みを浮かべた。

 もはや何もできない深月の不可解な表情に、くのりの足が止まる。

 そして次の瞬間には、蹴り飛ばされたボールのように、窓の外へと弾き飛ばされた。

「……遅い」

 辛うじてそう呟いた深月は、全身を脱力させて息を吐く。

「いや、ギリ間に合ってるでしょ」

 そう言ってうてなは、会心の笑みを深月に向ける。

 どうだと言わんばかりに立てている親指を逆に曲げてやりたいが、生憎とそんな元気も余力も深月には残されていない。

「首尾は?」

「万事良好」

「なら、後は任せるわ……」

「当然。あんたはあいつとここで休んでてよ」

「そうさせて貰うわ」

 起き上がる事すらできない深月は、うてなにそう託して目を閉じた。

「って事だから、あんたはここで久良屋を見てて」

 すぐ後ろから駆けつけてきた龍二は、ボロボロになった深月の横に膝をつく。

 くのりの事を考えると胸が軋むが、今はそれを無視する。

 自分を助けるために、深月はここまでしてくれたのだ。

 うてなが決着をつけるまで彼女を守るのは、自分の役目だと頷いてみせる。

「僕に、任せて」

「うん、頼んだ」

 龍二の表情に満足したうてなは、応急薬の入ったポーチを手渡し、くのりを蹴り出した窓から外へと飛び出していく。

 一瞬で見えなくなったうてなの幻影を、龍二は黙って見送る。

 雨は一層激しさを増し、割れた窓から風と共に吹き込んでくる。

 幸い、深月が倒れている場所まで届く事はなかった。

「無事で、良かった」

「う、うん。おかげさまで。本当に、その……ごめん」

「謝るのは、私たちの方よ。力不足で、あなたを危険な目に遭わせてしまった」

「そんな事ないよ。本当に感謝してる」

「……そう」

 痛みに耐えている龍二の顔を見て、深月は身を起そうとする。

「だ、ダメだよ動いちゃ。怪我、してるんだろ?」

「少しなら、平気。薬を……」

「あ、あぁ、これ?」

 うてなから託されたポーチを深月に手渡す。

 深月はその中から必要な薬を見繕い、口の中に放り込み、飲み下した。

 次に円筒状の注射器を取り出し、切り裂かれてスーツから露出した腕に打つ。

「これで大分楽になるわ。ありがとう」

「僕は、別に……」

 壊れそうな顔をしている。

 彼が何を知り、何を考えているのか、正確にはわからない。

 ただ、知りたくなかった事を嫌というほど知ったのだろう。

 そしてそれは、今も続いていて、彼を苦しめている。

「肩を、貸してくれる?」

「え? ど、どうするの?」

「一応、心配だから。うてなの様子が見える位置に、移動しましょう」

「……う、うん」

 深月の言葉は嘘だった。

 うてなの心配など、微塵もしていない。

 方法はどうあれ、魔力が回復したのなら負ける要素がない。

 それでもそう言ったのは、龍二と共に見届けるためだ。

 うてなとくのりの戦いが、どうなるのかを。

 龍二に知る権利があるかどうかはわからない。

 でも、彼自身で結果を確かめるべきだと、深月は思ってしまった。

 エージェントとして間違った選択だとはわかっているが、今は感情を優先した。

 そうしたいと思った、自分の感情を。


 自分が何をされて吹き飛んだのか、くのりにはわからなかった。だが、誰の仕業なのかはすぐにわかった。

 気配を悟らせずに一瞬で近づき、ただの一撃で軽々と人間を吹き飛ばせる存在は、この状況では一人しかいない。

「神無城、うてな……」

 ろくに受け身も取れず、濡れた地面を数メートル転がったところで、どうにか止まる事ができたくのりは、忌々しげにその名を呟く。

 外に吹き飛ばされて数秒、全身を打つ激しい雨にすら苛立ちを覚える。

 廃工場の壊れた窓から追いかけるように飛び出してきた影は、地面に膝をついているくのりに向き直る。

 雨で濡れた髪を掻き上げ、うてなは鼻を鳴らす。

「あいつは返して貰ったから」

 その言葉が何を意味するのか、くのりはすぐに理解する。

 だが、さして気にする様子もなく、ゆっくりと立ち上がる。

 直前まで浮かべていた苛立ちの感情は、雨で流れ落ちたように消えていた。

 代わりに浮かんでいるのは、嘲笑だった。

「その分憂さ晴らしができたわ、ありがと」

 深月が囮役だった事など、くのりは百も承知だった。

 時間稼ぎをしている事も、その間に龍二を救出に向かっている者がいるであろう事も。

 わかった上で、深月を相手に憂さを晴らしていたのだ。

 唯一誤算だったとすれば、龍二を救出に向かったうてなが、戦えるようになっていたという事。

 うてなが戦える状態まで回復していたのなら、役割は逆だと思い込んでいた。

 だからこそ見張りを複数用意し、どちらが囮役なのかを見極めたのだ。

「ホント、なんなのあんた? 四発も撃たれたんだから、大人しくしてなさいよ」

 雨で纏わりつく髪を払いながら、くのりは肩を竦めてため息を吐く。

 仮にうてなが龍二を救出したとしても、魔力による身体機能の強化がなければ十分取り戻せると考えていた。

 実際、魔力を使用していない状態のうてなでは、くのりは当然として、深月とすら渡り合う事はできない。

 神無城うてなの戦い方は、強化した身体能力に任せた力押しでしかない。

 だからこそ、治療に魔力を使わせてしまえば戦力外になると考え、計画を練って隙を作り、銃撃したのだ。

 治療に使う魔力量や数時間で回復する魔力量は、組織から盗み出したデータで把握できていた。

 にもかかわらず、神無城うてなはこうしてくのりの前に立っている。

 やせ我慢やはったりなどではない。先ほどの一撃がそれを証明している。

「まぁ、そこは残念って事で。諦めて投降してくんない? こっちは別に、撃たれた仕返しとか考えてないし、あいつを守るって約束も果たせたしさ。だからあんたも――」

「黙れ」

 その言葉を追いかけるように、極小の針が連続で空を貫いていく。

 ガントレットから放たれた三本の針は、正確にうてなの目を狙っていた。

 銃弾ほどではないが、その速度は常人の動体視力でかわせるレベルではない。

 特殊な訓練を積んでいたとしても、放たれてから回避行動に入ったのではかわす事など不可能だ。

 だが神無城うてなにとってそれは、脅威にはなり得ない。

 飛翔する針を認識したうてなは、頭部一つ分だけ左にずれる。

 針を認識し、その進路を理解し、かわしたのだ。

 あり得ない事をやってのけるうてなに対し、くのりはもはや動じない。

 かわされるものとして、次の行動に移っていた。

 スーツのリミッターを解除し、限界まで人工筋肉の性能を引き出して疾走する。

 試作品であるために、使用者の安全を考慮して設けられていたリミッターを解除した事により、くのりの速度も常人のそれをはるかに上回る。

 予想を遥かに上回る速度で突撃してきたくのりを、うてなも動じずに迎え撃つ。

 降りしきる雨の間をすり抜けてくる蹴りを、うてなは腕で打ち払う。

 硬質な物を蹴ったような感触が、くのりの足に返ってくる。

 深月と同じスーツを着用しているはずなのに、攻撃した際の感触が全くの別物だ。

 改めて思い知らされる神無城うてなの異質さに、くのりは内心舌打ちをする。

 それでも動きを止める事無く、次の攻撃へと移っていた。

 身を低くして旋回し、うてなの足を狙う。が、くのりが放った蹴りは空を切る。

 視界に捉えていたはずのうてなが、コマ落としのように消えていた。

 突如として消失したようにしか考えられない。

「とことんあり得ない女!」

 苛立ちを乗せた拳を、直感だけで背後に放つ。

 それを受け止めたのは、背後に回り込んでいたうてなだ。

 直感だけで当てられた事に慌てる素振りもなく、うてなは受け止めた腕を掴み、捻り上げようとする。

 拘束してしまえばそれで終わりだが、くのりはまだ抗ってみせる。

 ガントレットが強烈な閃光を放ち、近距離でそれを受けたうてなは、ギリギリのタイミングで瞼を閉じはしたが、完全とは言えず、ほんの一瞬だけ視界を奪われる。

 掴まれた腕をその隙に振りほどき、刃を出したガントレットでうてなを殴りつける。

 うてなの腹部へと打ち込まれた拳は、確かにその身体を捉えていた。

 しかしくのりは、攻撃が当たった事に何ら感慨も見せず、逆に顔をしかめて後方に跳躍して距離を取った。

 うてなを殴った時の感触は、最初の蹴りと同じだ。

 防刃性能の低いスーツに、刃が食い込む感触は確かにあった。

 だがその先、うてなの身体を捉えた時に感じたそれは、やはり硬質の物を殴った時のものと似ていた。

 理由などわかるはずもない。

 だが、ガントレットの刃がうてなの肉体に届いていない事だけは確かだ。

「ホント、インチキ」

 攻撃を当てても無効化されるのでは、打つ手がない。

 わかっていた事ではあるが、魔力を行使している時の神無城うてなは、相手にするべきではない。

 どうにもならないとわかっていたからこそ、策を弄した。

 実際、魔力を行使さえしていなければ、傷を負わせる事もできた。

 この作戦を絶対に成功させたかったのであれば、銃撃したあの時、その場で殺しておくべきだった。

 皮肉なものだ、とくのりは自嘲する。

 それをしなかったのは、安藤龍二がいたからだ。

 三年前なら、何の迷いもなく殺せていただろう。

 二年前なら、目的を達成するために殺せていただろう。

 一年前なら……もう、できなかっただろう。

「まだ、やる?」

 今の攻防でもう十分だろうと、うてなは構えを解く。もとより構えらしい構えを取っていたわけではないが、明らかに戦闘の意思はない。

 うてな自身、外に飛び出した時は感情が昂っていた。

 撃たれた事、出しぬかれた事、パートナーである深月を傷つけられた事。

 様々な感情が混ざり合い、逢沢くのりに対して明確な敵意を持っていた。

 だがそれも、今は薄れていた。

 数度の攻防で十分だった。

 勝負になどなっていない。

 結果のわかりきった戦いに、うてなは何の意味も見いだせなかった。

 決して油断しているわけではなく、こうしている間も魔力を行使し続けている。

 今の魔力量なら、二時間は全力で戦えるほどの余力がある。

 万に一つも、くのりに勝機などない。

 それはくのり自身もわかっているはずだと、うてなは投降を呼びかける。

 くのりの答えは、決まっていた。

 猛然と地を蹴り、襲い掛かる。

 愚直とも言える突進を正面から受け止めたうてなは、敵である少女に対し、奇妙な感情を抱き始めていた。

 同情とは少し違うそれを、うてなは上手く言葉にできない。

 ただ、逢沢くのりに対して、敵意や嫌悪と言った負の感情はもうなくなっていた。

 無謀に繰り返されるくのり攻撃を全て捌けるうてなに、敗北はない。

 だが、うてなの技量では、逢沢くのりを無傷で無力化するのは困難だ。

 魔力による強化で、力と速度は常人をはるかに超えているが、純粋な技量は別だ。

 基礎的なものから特殊なものまで、戦闘に関する訓練をうてなは受けていない。

 だからこそ、力任せの打撃によって隙を作った後は、注射器などを用いて相手を制圧してきた。

 だが生憎とその注射器も、今は手持ちがない。

 残された制圧方法は、純粋な打撃によるもの。

 そのためにはまず、スーツの耐久性を上回る攻撃で機能を停止させる必要がある。

「多少の怪我は、覚悟してよね」

 自身が取るべき行動を定めたうてなは、今まさに打ち込まれようとしているくのりの拳に、己の拳を正面から打ち込む。

 刃を剥き出しにしたガントレットと、魔力で強化された拳がぶつかり合う。

 その様子を、少し離れた屋内から、龍二と深月は見ていた。

 あまりにも危険すぎるうてなの行動に、龍二は息を呑む。

 が、龍二の予想を覆し、雨と共に弾けたのは、くのりのガントレットだった。

 これにはさすがのくのりも目をむく。

 多数のギミックを仕込まれたガントレットは、耐久性の面ではやや不安を残していただろう。それは確かだ。

 とは言え、生身の拳と打ち合って砕けるなどとは、にわかに信じがたい。

 それを可能にしているのは、もちろんうてなが操る魔力の効果だ。

 体内を巡る魔力の流れは身体機能を強化するが、それだけではない。

 魔力は体内に留まらず、うてなの全身を膜のように覆っていた。

 その魔力の膜は、物理的な力では突破できない。

 ガントレットの刃が打ち合ったのはその実、うてなの拳ではなく、魔力の膜であり、決して壊せない壁を殴りつけたようなものだ。

 結果として、ガントレットの方がその衝撃に耐えきれず壊れたのだ。

 おそらくは、銃弾すら弾く。

 うてなが魔力を帯びている間は殺せない。

 くのりはそれを知っていたが、いざ目の当たりにして受ける衝撃は凄まじい。

 自分よりも強い相手と戦うのも、くのりにとっては今回が初めてだ。

 あまりにも次元が違いすぎて、自然と笑いが込み上げてくる。

 右手のガントレットを完全に破壊したうてなは次に、くのりの左手を狙う。

 単純すぎるハイキックに対し、反射だけでくのりはガードする。

 反応できた事が僥倖、と言いたいところだが、それはうてなが反応できる程度の速度に留めていたからだ。

 ガードを誘われたのだとくのりが理解したのは、左手のガントレットを破壊され、ついでに左腕の骨が軋んだ後だった。

 殺しきれない衝撃に身体が吹き飛び、地面を跳ねながら転がる。

 地面に倒れ伏すくのりの姿に、龍二は思わず叫んでいた。

 飛び出しそうになる龍二を深月が押さえ、踏み止まらせる。

 叫んだ龍二に、うてなはちらりと視線を向ける。

 咎めるような色はないが、理解を示すでもない。

 ただジッと龍二を見据え、ゆらりと立ち上がるくのりへと視線を戻す。

 立ち上がったくのりは壊れたガントレットの残骸を腕から外し、地面に落とす。

「小細工はもうなくなったけど……」

「やるに、決まってるでしょ」

「だよね」

 吐き捨てるようなくのりの言葉に答え、うてなが一歩踏み出す。

 次の瞬間には間合いをゼロにして、掬い上げるような拳をくのりの腹部に叩き込んでいた。

 スーツの衝撃吸収能力を上回る力がくのりの身体を突き抜け、内臓まで届く衝撃に身体が浮き上がる。

 軽く飛んだうてなは、浮き上がったくのりの背中に肘を叩きつける。

 激しく地面に激突したくのりの身体はボールのように跳ね、それをうてなは容赦なく蹴りつけた。

 蹴り飛ばされたくのりは、錐もみしながら建物の壁に突っ込む。衝撃は壁をひび割れさせるに留まった。

 壁の破片と共に、くのりの身体がどさりと地面に落ちる。

 いくらスーツが衝撃を吸収すると言っても限度がある。

 くのりの身体にも、確実にダメージを与えているはずだ。

 普通ならば、立てない。

 肉体的にも、精神的にも。

 うてなは何も言わず、腰のポーチから拘束用具を取り出し、倒れているくのりに近づいていく。

 このまま倒れている間に拘束できれば、それで終わりだ。

 だが、くのりは立ち上がった。

 ゆっくりと、まるで幽鬼のように。

 雨で濡れた髪が表情を隠していた。

 うてなは拘束用具を手にしたまま、小さくため息を吐く。

 いささかも衰えていないくのりの目が、物語っていた。

 ――まだ、やると。

 怯む事も臆する事もなく向かってくるくのりを、うてなは殴りつけ、蹴り飛ばす。

 何度も、何度も叩き伏せた。

 その度にくのりは立ち上がり、うてなに挑む。

 スーツの機能はすでに停止している。

 当然うてなもそれに気づき、力をセーブして攻撃はしている。だが、生身の人間が、ましてや少女が受ける威力としては過剰だ。

 骨は数ヵ所ひび割れ、内臓にもダメージを受けている。

 叩きつけられた衝撃に唇から血が漏れ、頭部にも裂傷を負っていた。

 それでもなお、くのりは立ち上がる。

「も、もういいだろ! くのり、投降するんだ!」

 堪らず龍二が叫ぶが、くのりは一瞥して、笑みを浮かべる。

 そして視線をうてなに戻すと、再び挑みかかる。

 執念すら感じるその行動に、うてなはつい訊いてしまった。

「…………なんで?」

 もはや常人以下の動きでしかない攻撃はかわされ、バランスを崩したくのりはよろめいて地面に転がる。

 雨は穏やかになりつつあるが、荒れた波の飛沫がくのりの身体まで届き、体力を奪っていく。

「わかんないな。そこまでして戦う理由、ある?」

 すでに立つ事すらままならないくのりは、それでも立ち上がろうとする。

 受けたダメージから考えれば、深月よりもはるかに酷い状態だ。

 にも拘らず、くのりは笑って見せる。

 自身の行動に迷いも後悔もないと言いたげに。

 うてなが参戦した段階で逃げてしまう事が最善だった。

 勝てないとわかっている戦いをする必要はない。

 うてなにとって追跡する事は容易だが、怪我をしている深月や龍二をそのままにはしておけない。

 故に、あの時点でくのりがその選択をしていれば、逃げ切れた可能性は十分にある。

 その程度の計算ができないはずがない。

 そうしなかったのなら、相応の理由があると考えるのが妥当だ。

「そんなボロボロになってまで戦うのって、あいつが原因だよね? 正直、そこまでする価値、ある?」

「あなたにはなくて、私にはある……それだけでしょ」

 満身創痍でありながら立ち上がったくのりは、淀みのない双眸をうてなに向けて言い放つ。

 龍二が何者なのか、どんな秘密を持っているのか、うてなは知らない。

 が、魔力を回復できた事から、特別な存在だという事はわかっていた。

 そういう意味では、うてなにとって龍二は特別な価値を持つ。それは興味と言い換えてもいい。

 だがそれは、魔力を持つうてなだからだ。

 逢沢くのりが個人として、価値を見出せるような要因ではない。

「あいつがまぁ、特殊な人間だってのはわかる。どこぞの研究機関にでも売り渡すつもりとか? いい値段、つきそうだし」

 うてなの言葉に間違いはない。

 安藤龍二の秘密を知り、その価値を理解できる研究機関に売り込めば、莫大な報酬を得られるだろう。

 それほどまでに、龍二が持つ特性は希少だ。

「今の仕事、割に合うとは思えないしさ。やっぱ、お金?」

 うてなの言葉を、くのりは鼻で笑い飛ばす。

「そんなもの、いくらあっても使い道なんてないわよ。逆に聞くけど、いくら出したら見逃してくれる?」

「……確かに。たくさん貰っても、大した使い道なんてないや」

 実際に想像したうてなは、くのりの言葉に頷けてしまった。

 組織を裏切るリスクに見合う報酬で欲しいものなど、何もない。

「だったら、ますますわかんないや。何が目的なの?」

 報酬や身代金が目当てではないとすると、くのりの背後に別の組織がいるという線も弱くなる。

 逢沢くのりが単独で計画したものだとすると、やはり目的が見えない。

「決まってるでしょ。彼自身よ」

 訝しむうてなに、くのりははっきりと告げた。

「あいつ自身って、なに? まさかとは思うけど、本気で惚れたから駆け落ちするつもりだったとか?」

「だったら、悪い?」

 冗談だろうと笑い飛ばそうとしたうてなは、あまりにもあっさりと、しかしきっぱりと言い切るくのりに鼻白む。

「嘘だと思うなら、彼に訊いてみたら? 私の気持ちは、もう伝えてあるから」

 そう言われたうてなは、思わず龍二の方へ視線を向けた。

 二人の会話は、龍二の耳にも届いている。

 うてなと目が合った龍二は、小さく頷く。

 くのりの言葉に嘘はない、と。

 隣にいる深月も、信じられないと言いたげに目を見開いていた。

 驚くのも無理はないだろう。

 これほどまでの事をしでかした理由が、龍二への個人的な感情だったなどと、簡単に信じられるものではない。

「……本気?」

「えぇ」

 振られたけど、とくのりは自嘲する。

 あまりにも予想外の理由で、到底納得できるものではない。

 仮に理由がそうだったとしても、組織を裏切る意味がない。

「あなたには、どうせわからない」

 無駄話はここまでだと告げ、くのりは駆ける。

 覚束ない足取りで、ろくに力も入っていない無様な拳を叩きつけた。

 もはや、かわすまでもない。

 力なく頬を打つくのりの拳を、うてなは哀しげな表情で受けた。

 繰り返し叩きつけられる、子供のような攻撃。

 一撃ごとに尽きかけた体力を吐き出すくのりは、最終的にはうてなに縋りつくしかなくなってしまう。

 それでもくのりは、やめようとはしなかった。

「もう、いいでしょ。諦めなよ」

 憐憫を滲ませて肩に置かれたうてなの腕を、くのりは残された力で振り払う。

 それだけでバランスを崩したくのりはよろめき、後退して膝をつく。

 地の底から見上げるような双眸に、うてなは息を呑む。

 揺るぎない決意を秘めた瞳は、絶望もしていなければ、諦めてもいない。

「残された時間が僅かだと知ったら、あなたはどうする?」

「……どういう意味?」

「そのままの意味。私が生きていられるのは、あと一年もない」

 にわかには信じがたい突飛すぎる話だが、くのりが嘘や冗談を言っているようには見えない。

「そんなの、考えた事ない」

「でしょうね。あなたもモルモットみたいなものだけど、私たちとは決定的に違うもの、立場も在り方も」

 揶揄するようなくのりの言葉に、うてなの表情が僅かにこわばる。

「私は、決めたのよ」

 もはや拘束する事は容易いほどに、くのりは隙だらけだった。

 だが、うてなはそうしない。

 彼女の言葉を、待っていた。

「残された時間を、自分のために生きるって」

 雨音に負ける事なく、その言葉はうてなに届く。

「そして、彼のために死のうって……そう、決めたのよ」

 離れた場所にいた龍二にも、それは届いていた。

「受け入れてなんかやらない。卒業式までに得られる想い出全部捨ててでも、龍二の平穏を脅かすってわかってても、やってやる」

 龍二に恋をしていると自覚しなければ、受け入れていた。

 龍二に関する極秘資料を目にしなければ、行動を起こしはしなかった。

 自分が死ぬ事なんて、さしたる問題ではない。

 都合の悪い事から目を逸らしてしまえば、残された数ヶ月を楽しめただろう。

 最後の夏休み、どこかへ遊びに行けただろう。海でもプールでも、図書館で勉強なんかもしつつ、夏祭りにだって行けた。

 夏休みが明ければ、文化祭の準備も本格的に始まる。

 もし告白するのなら、きっとその時だ。

 どちらからになるかは、龍二の出方次第ではあるけれど。

 最大にして最高のチャンスは、文化祭しかない。

 互いの気持ちなどもはやバレバレなのだから、成立するに決まっている。

 でもたぶん、キスはしない。手も、繋がない。

 そういうのはもう少し後……そう、クリスマスだ。

 親しすぎるクラスメイトから、より恋人らしい二人になれるはずだ。

 新年を迎えて、受験も終えて、卒業式を迎える。

 そして、終わりだ。

 卒業式を終えたら消える。

 くのりも、龍二も。

 観察期間が終わり、回収される。

 楽しかった想い出と一緒に、世界から消えて終わる。

 眩しい日々は、すべて幻だったように。

 その数ヶ月は、間違いなく最高で、幸せな時間だ。

 だが、龍二は何も知らないまま、わけもわからず処分される。

 全てを知って、結末がわかっていて、見過ごせるのか?

 くのりは、見過ごせなかった。

 たとえ平穏ではいられなくなるとしても、知りたくもない事実を知らせてしまう事になろうとも、知られたくない秘密を、知られてしまうとしても。

 彼には彼の意思で、どうするのかを決めて欲しい。

「それが私の、愛し方」

 くのりはそう告白すると、腰のポーチから取り出したカプセルを口に放り込み、噛み砕く。

 動けない身体を無理矢理にでも動かし、くのりは駆ける。

 これが最後だと、両者ともに理解していた。

 雨粒一つを打ち貫くような、鋭い拳。

 強化されたうてなですら見失ってしまいそうな、これ以上ない一撃だった。

 しかし、それでも届かない。

 渾身を込めたくのりの拳は、うてなの頬を掠めるにとどまる。

 逆にカウンターで打ち込まれたうてなの掌底が、くのりの心臓を捉えていた。

 後ろに引っ張られるように、くのりの身体が吹き飛ぶ。

 背中まで貫いた衝撃波が、降りしきる雨を霧散させる。

 くのりの名を叫ぶ龍二の声が響く中、彼女の身体は糸の切れた人形のように、波打ち際まで地面を転がる。

 駆け寄ろうとする龍二は、自身の身体を掴む深月を振り返る。

 黙って首を振る深月に、龍二は何かを言おうとして、結局言えずにくのりへ視線を投げる。

 その視線の先に、くのりは立っていた。

 最後の一撃で内臓をやられたのか、唇の端から血を流している。

 彼女の視線が龍二を捉え、穏やかに緩んだ。

 くのりの唇が開き、声にならない言葉を紡ぐ。

 そして、くのりの胸に、赤い花が咲いた。

 闇夜の雨を引き裂いた弾丸は、音もなくくのりの胸を貫いた。

 着弾の衝撃に後退したくのりの身体を、背後から荒波が襲う。

 唖然とする龍二の双眸に、その光景が強く刻まれる。

 波に呑まれ、くのりの姿は闇よりも暗い海へとさらわれた。

 再び激しく振り出した雨音に、龍二の慟哭が溶ける。

 安藤龍二を巡る嵐の夜は、こうして終わりを告げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る