第1章 第4話 サヨナラbetrayer その2

 最寄りのセーフハウスに退避した深月とうてなは、本部からの連絡を待っていた。

「具合は?」

「まだ……あと三十分くらいあれば」

「あれば、戦える?」

「……ごめん。たぶん、無理。歩くのが精一杯だと思う」

 ベッドに寝転がっているうてなは、悔しさを滲ませる。

「そう。なら、彼の救出には私一人で行くわ」

「待って。私も、行く」

「足手まといよ。ここにいなさい」

 食い下がるうてなに対して、深月は容赦なく告げる。

 龍二が逢沢くのりに誘拐されてから、すでに一時間近く経過している。

 ますます激しくなる嵐が、窓を鳴らしていた。

 この状況では、応援の部隊が駆けつけてくるとしても、時間が掛かる。

 本部が全力をあげて逢沢くのりと龍二の行方を追っているが、仮に居場所がわかったとしても、今の戦力で挑むしかないだろう。

 うてなが両足に負った傷は、数時間で回復するようなものではなかった。

 それがものの一時間程度で歩けるほど回復するというのは、常識では考えられない事なのだが、それを可能にする特異な存在が、神無城うてなだ。

「ありったけの魔力を注いでこの程度とはね……情けない」

「それだけでも非常識極まりないわ」

 原理など、深月にはわらかない。

 ただ知っている事実として、神無城うてなは魔力と呼ばれる力を持っている。

 体内に宿る魔力によって、超人的な運動能力を得られる。それを応用して、傷を癒す事も可能なのだという。

 ただし、治療によって消費する魔力は身体機能の強化とは比べ物にならない。

 うてなの体内でのみ生成される魔力には限界があり、回復にはそれなりの時間が必要となる。

 両足の治療に魔力を費やした事で、歩く事は可能になった。

 だが、戦闘に耐えうる状態とは程遠く、魔力がなければ一般人とそう変わらないうてなでは、深月が言う通り足手まといにしかならない。

「スーツ、着とけば良かった」

「油断したわね」

「まさか、あの女が黒幕とは思わないでしょ」

「確かに、ね……」

 数分前に届いた本部からのデータで、逢沢くのりの正体が掴めた。

 彼女は深月やうてなと同じ組織に属するエージェントだった。

 同じ組織と言っても、指揮系統が全く異なる部隊の一員だ。

 その部隊は組織内でも機密扱いであり、暗部とも呼べる部隊だ。

 なぜそんな部隊のエージェントが、龍二のクラスメイトとして潜入していたのかは伏せられているが、現在彼女が行っているものは、決して作戦の一環などではない。

 上層部でも、一部は彼女の存在を知っていたようだが、事件に加担していた事は把握できていなかったようだ。

 ましてや、加担どころではなく、首謀者だったなどとは。

「今回の件、私たちの手に負えない状況になった場合、逢沢くのりが動く事になっていたそうだけど」

「二年も前から潜入してたんでしょ? ホントに何者よ、あいつ」

「……それについての報告は、ないわ。監視対象であり、警護対象でもあったという事でしょうね」

 手元の端末に表示されたデータに目を落としながら、深月は思考を巡らせる。

 逢沢くのりと同様に、あの誘拐犯の少女もまた、組織の一員だった。

 彼女は数ヶ月前の単独任務に失敗し、未帰還となっていた。

 おそらく、逢沢くのりが接触して今回の件に巻き込んだのだろう。

 改めて拘束した彼女から得られる情報に、有益なものがあるとは考えにくい。

 彼女自身、首謀者である逢沢くのりの正体も、姿も知らなかったと思われる。

 でなければ、あのような形で龍二と一緒に連れ去る必要がない。

 とにもかくにも、情報が少なすぎる。

 上層部への不信感は、否応なく強まっていた。

「あの女、何が目的なんだろ? 監視対象を誘拐するって、意味がわかんない」

「龍二に何かしら価値があるとすれば、どこか別の組織に引き渡すのかもしれないわね」

「やっぱそれくらいしかないか」

 仮にそうだとしても、どこか腑に落ちないのは確かだった。

「あいつ、無事かな」

 龍二を連れ去られた事に関して、うてなは自身の落ち度だったと責任を感じていた。

 スーツを着用しているか、魔力による強化を解除していなければ、あの銃撃で動けないほどの傷を負う事はなかったからだ。

 完全に油断していたのだと、後悔の念に駆られる。

「無意味に殺しはしないでしょう」

「でもさ、逢沢くのりってあのテスト、パスしてるんでしょ? さっきの資料にあった」

「……えぇ」

 彼女たちが属する組織には、テストと呼ばれる特殊な任務がある。

 ある意味、彼女たちにとって最終試験ともいうべきものだ。

 テストを受けるエージェントそのものが限られているため、内部でもあまり知られてはいない。

 深月はそれを受けさせられた経験がある。結果は、不合格だ。

 うてなに関しては、受ける事そのものを拒否した。

 たとえ不合格だとしても、組織での評価が下がるわけではない。

 できるかできないか、それを知るためのテストでしかない。

「あれができた人間が、よく学校に潜入なんてしてたもんね」

 テストそのものに強い不快感を抱くうてなは、嫌悪を隠そうともせず表情を歪ませる。

 深月は平然としているが、胸中穏やかではなかった。

 そのテストは、人を殺せるか否かを判定するものだ。

 彼女――逢沢くのりは、そのテストに合格した数少ないエージェントだった。

 だからこそ機密扱いの部隊に所属し、その中でも特別に機密レベルの高いエージェントとして扱われていたのだろう。

 ここまで情報が隠匿されていた理由も、そこにある。

「それだけ、龍二が重要な存在なのかもしれないわね」

「だったら、まだ生きてるか……」

 二人の希望も入ってはいるが、その可能性は十分にある。

 逢沢くのりの目的は、見当もつかないが。

「それはそれとして、あいつの家族、心配してるだろうね」

「あぁ、それなら偽装工作をしておいたわ。爆発騒ぎの目撃者として、検査と聴取をしていて、大雨で道路が冠水しているから、移動できるようになったら送って貰える。そんな内容を伝えてある」

「なんか、あとで問い詰められそう」

「追及はあるでしょうね。でもそこは、彼に頑張って貰いましょう」

 容易に想像できる場面を思い浮かべ、二人の表情に僅かながら明るさが戻る。

 龍二のなんでもない日常が、非日常に身を置く二人にも影響を与えていた。

「そのためにもまず、無事に帰らせてやらないと、でしょ?」

「えぇ。でもあなたは――」

「やっぱり行く。お願い、なにかさせて」

 ベッドで身を起こしたうてなが、真剣な眼差しで深月を見る。

 任務なんて面倒だと言わんばかりの態度とは違う。

「どうして、そこまでするの?」

「だって、仕方ないじゃん」

 選択肢を突きつけられ、龍二は選んだ。

 なんて事はない。

 あの時、龍二が口にした一言がすべてだ。

「信じてるって、言われちゃあね」

 自身の安全より、周囲が危険にさらされる事を気にしていた。

 そんな龍二の態度や性格が、気に入ってしまった。

 面倒なだけの任務に、今なら意義を見出せる。

「私も言っちゃったしさ、守ってやるって。なのにこのままベッドの上じゃ、寝覚めが悪いにもほどがあるってもんでしょ」

 少し照れたように話すうてなに、深月は苦笑する。

 素直とはまだ言えないが、本心だという事は十分伝わった。

「実はもう一つ、情報があるの。これはあなたへ向けたものらしいけど、私には意味がわからなくて」

 伝えるべきか迷って留めておいた情報を、深月は伝える事にした。

 うてなが真剣に救出したいと思っているのなら、必要な情報だと判断したからだ。

「この指示に従えば、あなたを戦力としてカウントできるかもしれない」

「……なに?」

 内容は自分で確認するといい、と情報を表示した端末を渡す。

「…………は?」

 それを見たうてなは、思いきり首を傾げた。

 見間違いではないかと繰り返し目を通し、何度読んでも書いてある内容が同じな事に絶句する。

「……どういう事?」

「私は、なんとも。あなたの方こそ、なにか思い当たる節は?」

「…………まさか」

 思い当たる節があるにはあるけど、と言葉を濁して口元に手を当てる。

 そこに書かれた指示を実行して、本当に成果があるとすれば……。

 あり得ないはずの事に、うてなは混乱する。

 だが、もし本当にそうなら、龍二を救いに行ける。

 約束を、守れる。

「……いいわ。やってやろうじゃない」

 覚悟を決めるのに、時間はかからなかった。

「正直、不安要素しかない作戦になるけど」

「どうせ応援は望めないんだから、イチかバチかやるだけ、でしょ?」

「そうね」

 今回の任務について初めて、二人は同じような笑みを浮かべた。


 名残惜しそうに、柔らかな唇が離れていく。

 唇を通して伝わったくのりの温もりが、龍二の思考を止め、呆然とさせる。

 手のひら一つ分の距離で、くのりは龍二を見つめる。

「……キス、しちゃった」

 そう言葉にしたくのりは僅かに頬を上気させて微笑む。

 くのりの言葉で、止まっていた龍二の思考が動き始め、何が起きたのかを理解し、困惑させる。

 目まぐるしく変わる龍二の表情を、くのりは楽しげに眺めていた。

「くの、くのり? なな、なんで? 今のって……えぇ?」

「だから、キス……もう一回、しとく?」

「そそそ、そういう事じゃなくて! じょ、冗談でもしちゃダメだよ!」

 からかわれたと思い込んでいる龍二に、くのりは首を振る。

「冗談でキスなんてしないよ。言ったでしょ? 私は龍二に、恋、しちゃったの」

「な、な……そ、それ、本気で?」

「キスだけじゃ、信じられない?」

「いやいや! そうじゃないよ! ただでも、えっと……ぼ、僕は……」

 次々と与えられる未知の情報は、龍二の許容量を軽く超えていた。

 待ち望んでいたはずの、そうあればと願っていた言葉さえ、すぐには受け入れられないほどに。

 十分それを承知しているくのりは、丁寧に言葉を紡ぐ。

「本気だから、キスしたの。龍二だから、したの」

 何かを言おうとした龍二の唇に、もう一度唇を重ねる。

 今度は少し強めに、しっかりと伝わるようにと押し当て、離れる。

「こんな事、任務だって言われても、たぶんできない」

 双眸に熱を宿し、龍二の瞳を覗き込む。

「何も知らないでいられたら、できたかもしれないけど……少なくとも今の私には、もうできない」

 恋を知ってしまったから、と龍二の頬を愛おしげに撫でる。

 どこまでも真っ直ぐなくのりの告白が、龍二の思考を熱していく。

 ――僕もだ。

 そう言葉にしそうになるが、脳裏に刻まれた光景と銃声が蘇り、胸を軋ませる。

 今にも泣き出しそうな、悲痛な表情だった。

 龍二の気持ちははっきりしていた。

 この事件が解決したら、伝えるつもりでいた。

 奏へのプレゼントとは別に、くのりへのプレゼントも用意してある。

 くのりが言ってくれた言葉は、気を失いそうなほどに嬉しいと思う。

 けれど、言えない。

 目の前にいる少女が、数時間前まで一緒にいた逢沢くのりと言えるのか、わからない。

 自分が見ていたもの、信じていたものは幻だったように思え、龍二はただただ、痛みを覚える。

 青ざめる龍二の肩に、くのりは額を乗せて呟く。

「……私が、怖い?」

 そう尋ねるくのりの声は、ほんの僅かに震えていた。

 龍二は口を開くが、すぐに言葉は出てこなかった。

 何が嘘で、何が本当なのか。

 たった数時間で、全てが変わってしまった。

 まるで、別の世界に放り込まれたような気分だった。

「怖くは、ない……でも君は、彼女を撃った」

 ようやく絞り出した龍二の言葉に、くのりの背中が震える。

 覚悟はしていた、わかりきっていたはずの言葉が、鋭く胸に突き刺さった。

 ゆっくりと、傷口を覆い隠しながら顔を上げ、龍二と対面する。

「できるなら、見せたくなんてなかった。知られたくなんて、なかったよ」

 取り繕いも誤魔化しもせず、くのりは答える。

「龍二の前では、普通でいたかった」

「僕だってそうだよ。知りたくなかった……くのりと、普通に……」

 全てが過去形になっていく事に、龍二は恐怖を覚える。

 密着するほど近くにいるのに、話せば話すほど、くのりが遠くに行ってしまうような気がした。

 これ以上は知りたくないと、逃避してしまえるのならしたいほどだ。

 だが、くのりはそれを良しとしない。

「ねぇ龍二、あの誘拐した子が言ってた事、覚えてる? 人を殺せないエージェントなんて、求められていないって」

「……なに、言ってるの?」

 なぜ今そんな話をするのか、龍二はわからないと首を振る。

 薄々気づいていながら、それでも否定しようと首を何度も振った。

 くのりははっきりと告げる。

「私は、殺した。殺せたエージェントなの」

 ナイフで胸を抉るような言葉に、龍二は声を詰まらせる。

 全身が痺れるよう感覚に襲われ、何度も口を開いては閉じる。

「…………うそ、だ」

 やがて絞り出したのは、なんの力ももたない掠れた言葉だった。

 恋をしたと語った口で、殺人を告白したくのりは、表情を僅かも変えなかった。

 それが余計に龍二を追い詰めるとわかっていながら、ありったけの精神力を注ぎ、仮面を被る。

「本当よ。最初の任務は、六年前。ある政治家の車に細工をして、事故を起こすように誘導した。結果として、その政治家は命を落とした」

「やめてよ。質が悪すぎるよ、ねぇ?」

「二度目の任務は五年前。毒を盛って殺した」

「いい、もういい! やめてくれ!」

「それからも毎年、一年に一人ずつ、任務を遂行していたの」

「くのり、いいってば!」

「あなたの監視任務についてからも、二人。一年生の時は、ひどい大雨の日だった。初めて直接、手を下した任務だった。ナイフで、頸動脈を切断して――」

「やめてくれ!」

「……今でも覚えてるの。あの時の、この手で命を奪った時の感触が、消えてくれない」

「くのり……もう、もう……」

「去年は、修学旅行の夜だった。ホテルを抜け出して……殺しに、行ったの」

 殺人の告白を聞かされた龍二は力なくうな垂れ、くのりの肩に額を乗せていた。

「どうして……いいって、言ったのに……」

 打ちひしがれた龍二の声に、くのりの表情が崩れそうになる。

 だが、踏み止まる。

「もう隠さないって、決めてたから」

 全てを話すのだと決めていた。

 龍二を誘拐すると決めた時から、その覚悟をした。

「知りたく、なかったよ……君が、そんな……」

「うん、だと思う。私も、同じだから」

 人を殺せる人間だなどと、知られたくはなかった。

 けれど、それを隠したままでは龍二と向き合えない。

 くのりはそう考えていた。

「怖がられても仕方ない。嫌われたくはないけど、それも仕方ない。だって、私はそういう風に育てられて、訓練されて、できちゃったエージェントだから」

 隠しきれない痛みが漏れ出すくのりの声に、龍二はゆっくりと顔を上げる。

 もう一度見たくのりの表情は、いつか、どこかで見たような表情だった。

 思い出そうとするが、思い出せない。

 なんと声をかければいいか迷う龍二に、くのりは微笑みかける。

「監視を命じられた時、次のターゲットは龍二なのかなって思ってた。でも、それならわざわざ生徒として潜り込む理由がわからなくて、不思議だった。観察すればするほど、龍二って普通すぎるんだもん」

 異常な世界に身を置いていたくのりにとって、それが逆に新鮮だった。

 最低限の常識や教養を訓練で学んでいたが、その中に描かれていた学生という身分での生活もそうだ。

 極力関わらないようにしていても、不自然にならない程度の交流はせざるを得ない。

 適度に相槌を打ち、愛想笑いを浮かべ、その場に溶け込むような生活。

「退屈だって思ってた。でも、居心地は悪くなかった。普通の人間は、こんな風にすごしてるのかって……」

 変化は少しずつだが、平穏という粒は確かにくのりの心に降り積もり、やがて一つの感情を芽生えさせる土壌となった。

「いつの間にか、楽しくなってたんだよね。学校での役に立たない勉強も、命を奪われる心配のない運動も、報酬のない学校行事も……全部、楽しかった」

 普通という生活を思い返し、くのりは微笑する。

 嘲るでもなく、妬むでもなく、その場に身を置く事が楽しかったと語る。

「……なら、どうして僕を誘拐しようなんて思ったのさ? 楽しかったんだろう? だったらそのまま僕の監視でもなんでも続けていれば良かったじゃないか。あと一年もないのに……こんな事したら、もう同じようにすごせなくなるってわかってただろ? なのになんで……」

 くのりの言葉に嘘がないとわかるからこそ、龍二はますますわからなくなる。

 尻すぼみに力を失っていく龍二の言葉に、くのりは目を閉じる。

 伝えるべき事は明確だ。

 やると、覚悟も決めてここまで来た。もう引き返せない。

 想い出に浸って緩んだ頬を引き締め、くのりは目を開いて告げる。

「私の命は、あと一年たらずで終わる」

 あまりにも突拍子のない話に、龍二は言葉を忘れる。

 そんな龍二にくのりは、更に畳みかけた。

「そして龍二……あなたの命も同じ」

「…………え?」

 今度は声が出た。いや、こぼれた。

「卒業はできる。けど、進学はできない。春休みに入れば、あなたは研究施設に収容されて、あらゆるデータを取られたのち、存在を抹消される。おそらく、数ヶ月で」

 くのりの声は聞こえているが、言っている内容はなに一つ理解できない。

 一つ一つの単語は理解できても、その内容が自分とどう結びついているのか、理性が理解を拒んでいた。

「私も、似たようなもの。あなたを監視する任務が終われば、検体として回収される」

 まるで他人事のように、くのりは平然と事実のみを並べる。

「私もあなたも、傲慢な実験のモルモットなのよ」

 自身の死と共に、実験動物だと告げられた龍二は、目を瞬かせる。

「ま、待って……僕が死ぬとか収容されるとか抹消されるとか、わかんないよ。モルモットってなに? ぼ、僕はただの高校生だよ?」

「ただの、じゃなかったっていう事。正確には、私と龍二は違うんだけど。まぁ、経過観察をされているっていう点では、大きな違いはないかな」

 龍二の戸惑いを無視して、くのりは耳に装着していた小型の通信機に触れ、ずっと跨っていた龍二から離れる。

「私の知る限りの情報を教えてあげてもいいけど、どうやら時間がないみたい」

「どういう事?」

「王子様を奪いに、悪い魔女がそこまで来てるって事」

 戸惑うばかりだった龍二にも、その言葉が何を意味するのか、瞬時にわかった。

 深月たちが救出に来てくれているという事だ。

「雇った部隊がもう少しは耐えてくれるだろうけど、突破されるのは時間の問題ね」

 肩を竦めて笑うくのりは、瞬間的に冷めた表情を垣間見せる。

 龍二が知らない、エージェントとしての顔だった。

「ねぇ龍二、私と一緒に逃げない?」

「逃げる?」

「って言っても、用意しておいた逃走手段は天気のせいで使えなくなっちゃったんだけどね。本来なら今頃、海の上だったはずなの。ホント、ついてない」

 言葉ほどに落胆している様子はなく、むしろそのアクシデントを楽しんでやろうとしているようにすら見える。

「とまぁ、そういう事なんで、逃げるなら行き当たりばったりになるんだけど……どうする?」

「どうするって言われても……」

「私と来てくれるなら、あなたが知りたい事、教えてあげられる。たぶん、あの二人に訊いても教えて貰えない事も、全部。知りたくない? 自分が何者なのか」

「あの話、本当に本当なの?」

「信じられないのも無理はないけどね。それも含めて、教えてあげる。どう?」

 腰に手を当て、もう片方の手をくのりは差し出す。

 が、すぐに龍二を拘束していた事を思い出し、照れ隠しに肩を竦めた。

「心配ならいらない。私の全てを賭けて、あなたを守るから」

 くのりの目は本気だった。

 自信に満ちた双眸を炯々とさせる。

「それに、ただ逃げ回るつもりもないし。当然、生きる術を探す。打つ手がないとは限らないしね」

「それって、危ない事をするつもりじゃ……」

「もちろん、危険は承知してる。上手くいく保障なんてないから、偉そうな事はあんまり言えないけど、でも、やってみる価値はある。私はそう思ってる」

 だから行動を起こしたのだと、笑みを浮かべる。

 思い通りになどなってやるものかと言わんばかりに、くのりはその瞳に決意を宿す。

「抗ってもがいてのた打ち回って……それでダメなら、死ぬまで一緒に、逃げ回ろ?」

 そう言って微笑むくのりは、決して諦めなどではなく、自身の意思を貫き通そうとしていた。

 どこまでも自分が思うように、自分の意思で生きるのだと。

 その姿もまた、龍二の知る逢沢くのりとは違っていた。

 だが、怖くはない。

 むしろ憧憬の念を抱いてしまいそうな、不思議な輝きを宿している。

「私は、龍二と行きたい。あなたは、どう?」

 愛の告白をした少女のように、くのりは龍二の返答を待つ。

 期待と不安の入り混じった動悸が、二人きりの室内に響いてしまいそうなほどだ。

 くのりから投げかけられた最後の問いかけに、龍二は答える。

「……行けないよ、僕は」

 龍二が出した答えは、拒絶だった。

 くのりは眉一つ動かさず、その言葉を受け止める。

「……やっぱり、怖い?」

 表情を和らげるくのりに、龍二は首を振る。

「そうじゃない。怖いとかじゃないんだ」

「今の生活は捨てられない、か……」

「それもある……だって、今の生活が気に入ってるし、大切な人たちもいるから」

 そこにはくのりも含まれている。

 いや、くのりがいてこそと言っても過言ではない。

「ぼ、僕は……僕は君が好きだ」

 龍二が初めて口にする告白に、平静を装っていたくのりの表情が瞬間的に崩れる。

 感づかない方がおかしいくらいだったが、はっきりと本人が言葉にしてくれるだけで、全てを忘れて舞い上がってしまいそうになる。

「前からずっとそうで……いつか言えたらって、そう思ってた。さっき、くのりが言ってくれた時、凄く、嬉しかった……」

「……でも、一緒に来てくれないんだ」

「うん。好きだから、一緒には行けないよ」

 しっかりと顔を上げ、龍二は告げる。

 目を逸らさず、不器用だからこそ、わかりやすい言葉で。

「僕は、守ってもらう事しかできないから。だから君とは、逃げられないんだ」

 つい数時間前、これでもかと痛感した。

 自分には特別な力もなく、同じ年頃の少女たちに守られてばかりで、信じて待つ事しかできない。

 くのりの正体は関係ない。

 危険に晒されているくのりを前に、満足に身体を張る事すらできなかった。

 圧倒的な無力。

 これがフィクションの物語なら、龍二はヒロインで、彼女たちがヒーローだ。

 そう、龍二はヒーローになれない。

 だからこそ、全てをヒーローに任せて逃げるなんて事はできない。

 ましてやそれが、好きな女の子であれば。

 危険だとわかっているのに、足手まといにしかなれない自分が一緒に行くわけにはいかない。

 自身が置かれた境遇の謎なんて、わからなくてもいい。

「くのりは、逃げてよ。僕の事なんて、もういいから」

 それで彼女が無事でいられるのなら十分だと、龍二は本気で思っていた。

「そっか」

 龍二の選択を聞いたくのりは、拍子抜けするほどあっさりと頷く。

 拒まれた事を悲しむでもなく、嘆くでもなく、微笑みすら浮かべて。

「うん、わかった」

 そう言ってくのりは、身を翻して机の上を整理し始める。

 龍二はただ黙って、その背中を見守っていた。

 くのりも特に話しかけず荷物をまとめ、黒いボディスーツの上に、武骨な黒いジャケットを羽織り、両手にグローブを再度装着する。

 準備を終えたくのりは振り返り、龍二が良く知る笑顔を見せる。

「それじゃあ龍二、私、悪者退治に行ってくるね」

 遊びにでも行ってくるような軽さで言い、くのりは龍二の前に立つ。

「待って! 戦う必要なんてないだろ? それより早く逃げて!」

「そうはいかないの」

「なんでさ?」

「なんでも」

 冗談めかして片目を閉じ、くのりは龍二に三度目のキスをする。

 龍二の首に回した腕で、死角から円筒状の器具を押し当て、麻酔薬を注入する。

 キスに驚きつつもそれに気づいた龍二は、しかしどうする事もできず、急激に襲ってきた睡魔に微睡んでいく。

「くの、り……だめ、だよ……」

 辛うじてそう声を漏らしながら、瞼の重さに耐えられない。

 くのりはそれを優しく見守りながら、龍二の髪を撫でる。

「……ごめんね、龍二」

 大好き、と声には出さず、眠りに落ちた龍二をしばし見つめ、表情を切り替える。

 一瞬前まで残っていた少女らしさが消え、エージェントとしての逢沢くのりがそこにはいた。

 多数の機能を備えたガントレットを両腕に装着し、歩き出す。

 後ろ髪を引かれつつ、ドアに手をかけ、振り向く。

 うな垂れて眠る龍二の背中を見つめ、くのりは思う。

 このまま無理矢理連れて行く事だってできる。むしろ、そうしてしまいたい衝動に今も駆られている。

 だが、それをしてしまったら、自分も組織と変わらない。

 彼には彼の意思がある。

 彼がそう選んだのなら、それを尊重すると決めていた。

「じゃあね、龍二」

 後ろ手にドアを閉め、激しい雨音が響く暗い廊下をくのりは一人で歩く。

 思い通りにならないのなら、それでもいい。

 ただ最後に、悪あがきと八つ当たりはさせてもらう。

 組織に対する宣戦布告という意味合いもある。

 そうでもしなければ、気が済まないのだ。

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