第1章 第3話 龍二VS誘拐犯 その2
食堂と保健室が同じ一階であり、それほど距離が離れていなかったのは龍二にとって幸いだった。
龍二に負担を掛けまいと、深月も可能な限り自身の足で歩こうとしていた。そうさせたのはエージェントとしての矜持に他ならない。
二人で汗だくになりながらどうにか保健室まで辿り着くが、生憎と養護教諭の姿は見当たらなかった。
とにかく休ませるのが先決だと判断した龍二は、空いているベッドまで深月を連れて行った。
「あり、がとう……」
そう声を絞り出す深月の様子は、先ほどよりも苦しそうに見える。ここまで移動してくるだけで、相当消耗していた。
「大丈夫、じゃないよな……」
一体何が彼女に起きているのか、龍二にはわからない。
「まさか、本当に毒を?」
彼女が食事をする時の様子を思い出す。
毒見をするような素振りをしていたが、気付かなかったという事だろうか?
そんな疑問に頭を悩ませる龍二の手に、深月が触れる。
「な、なに?」
「水を、お願い……」
「あ、あぁ! 待ってて」
そう言って龍二は、洗面台にあるコップを手に取る。
水を注いですぐ持って行こうとするが、一度中身を捨ててコップを入念に洗い、注ぎなおす。
状況が状況なだけに、念には念を入れるべきだろうと考えての行動だった。
「これ」
差し出されたコップを受け取ろうとするが、小刻みに震える手では上手くいかない。
自身では無理だと判断した深月は、唇を開いて龍二を見る。
その意図を察した龍二は、そっとコップを近づけ、深月の咥内に水を少しずつ慎重に注いだ。
時間をかけ、どうにかコップの半分ほどを飲む。
それで僅かでも楽になったのか、苦しそうだった深月の表情が和らぐ。
決して楽になったわけではないが、不安に駆られている龍二を安心させるため、深月は無理にでもそうする必要があった。
彼女の思惑通り、その表情を見た龍二は多少なりとも安堵を覚え、落ち着きを取り戻し始める。
「龍二、いる?」
ノックをして保健室に入って来たのは、くのりだった。
「先生、いないの?」
ベッド脇までやって来たくのりは、まだ顔色の悪い深月を心配そうに見やる。
「みたい」
「どんな感じ?」
「なんとも。水を飲んだら、少しだけ楽になったっぽいけど」
「そうなんだ。でもやっぱり、先生に診て貰った方がいいよね」
「たぶん」
「じゃあ、龍二はついててあげて。私、ちょっと探してくる」
「あぁ、助かるよ」
しっかりしろと言いたげに龍二の背中を叩き、くのりは保健室を後にする。
叩かれた背中の痛みに、オロオロしている場合ではないのだと龍二は自覚させられた。
自身の頬を両手で軽く叩き、気持ちを奮い立たせる。
深月は以前として、異常なほどに発汗している。
青白くなっていた顔も、今では紅潮していた。
「……そこの、棚に……内側に、スイッチ……」
「こ、ここ? ちょっと待って」
震える手で薬品棚を指し示す深月に頷き、棚の中に手を入れ、内側を指先で探る。
「あ、これか?」
それらしい物を探り当てた龍二は、棚の内側に隠されているスイッチを押した。
すると微かな音を立て、ベッドの隣にある小さな棚の下部がスライドし、小さな銀色の箱が現われる。
「……なにこれ?」
両目を見開いて驚きつつ、龍二は棚に近づいてその箱を取り上げる。
「特別な薬が、入ってる……青い、カプセル……」
「薬? あ、そういう事か」
深月が言わんとする事を理解した龍二は、銀色の箱から青いカプセルを取り出し、彼女の口に入れる。
そして、まだ水が残っていたコップを再度口に近づけ、ゆっくりと飲ませた。
「あとは、赤いラインの入った、注射器を……」
「あ、あぁ、これ?」
箱の中にある三本の注射器には、それぞれ赤、青、黄色のラインが入っている。龍二は深月に言われた通り、赤いラインが入った注射器を取り出す。
深月は注射器と言うが、その先端に針は見当たらない。
円柱の形をした銀色のそれは、中身を確認する事すらできなかった。
「これを、どうすれば?」
「…………貸して」
弱々しく差し出された深月の手に、注射器を握らせる。
彼女はそれを自身の太ももに突き立て、親指で上部を押し込む。
空気が抜けるような音が、保健室にこぼれる。
深月は一瞬うめき声を上げそうになるが、気力だけでそれを呑み込んだ。
手のひらから転がり落ちそうになった注射器を、龍二は慌てて受け止める。
深月が太ももに押し当てた部分を見てみると、僅かながらに痕が残っていた。
そこから何かしらの薬剤が注入されたのだと、龍二は納得する。
フィクションの中でしか見た事のないような注射器は、不謹慎ながらも彼の心を少し躍らせた。
「これで、楽になる……ありがとう、龍二」
カプセルと注射器による治療は即効性があるのか、深月は保健室に来た時よりも幾分、表情が優れていた。
汗だくなのは変わらないが、それもじき引いていくだろう。
熱はまだあるようだが、異常な高熱ではなくなっていた。
深月は自力で胸元のリボンを外し、ボタンを緩めて通気性を確保する。
「水、飲む?」
「……えぇ」
コップを再度水で満たし、深月の口元に寄せる。
深月はごく自然にそれを受け入れ、ゆっくりと喉を鳴らした。
穏やかになりつつある深月の呼吸に、龍二も緊張がほぐれていく。
「さっきの仕掛けって、君たちが用意してたんだよね? いつの間にあんなの……」
「ひと晩あれば」
「そうなんだ。でも、ギミックが雑すぎない? あれじゃあ、誰かが間違って見つけちゃうよ」
「私たちの端末が一定距離になければ、ロックは解除されないわ」
「なるほどね……」
他にも色々と隠されたギミックがありそうだが、それを追及している場合ではない。
「……で、さ。何がどうなってるんだろう?」
「してやられた、と言ったところね」
そう呟く深月の声は、驚くほど落ち着いていた。相手への苛立ちも、自身の不甲斐なさに対する怒りも滲ませない。
仮にあったとしても、それを龍二に見せはしないだろう。
「……ここを、見て」
そう言って深月は、スカートの裾を僅かにめくって見せる。
いきなり何をと叫びそうになるが、すぐに思い至る。
そこはつい先ほど、深月が注射器を押し当てた場所だ。
龍二は深月が指先で示す場所に顔を近づける。そこには注射の後とは別にもう一つ、極小の赤い点があった。
右の太ももにあるその点は、まるで蚊に刺された痕のように見える。
「食堂の人混み、でしょうね……」
淡々とした声で呟き、ため息を一つ吐く。
「毒か何かなの?」
「えぇ、対象に気づかれず、遅効性の毒を注入する道具によるものよ」
「わかるの?」
「心当たりがあるから……」
その心当たりが問題なのだけど、と続く言葉を呑み込み、深月は拳を握る。
先ほど飲んだ薬と注入した薬剤の効果で、苦しさはほぼ感じない。
快復するにはまだ時間はかかるが、この状態なら苦しさや発熱を無視して動く事もできるだろう。
龍二の心配を少しでも取り除けるよう、体調が良くなっていると思わせなければならない。
これ以上無様な姿を見せるわけにはいかないのだと、深月は鋼のような意思で平静を装っていた。
「龍二、どう?」
沈黙が訪れたタイミングで、再びくのりが保健室に戻って来た。
「大分落ち着いてきたみたい。先生、どうだった?」
「ダメ。職員室にも行ってみたけど、いなかった」
「そっか……」
このタイミングで養護教諭の姿が見えないという事に、一抹の不安を覚える。
自身の身にだけでなく、周囲にも危険が及ぶ可能性。
極力意識しないようにしていた事実が、静かに近づいて来るような恐怖があった。
考えれば考えるほど、悪い方向に想像が膨らんでしまう。
見えない闇が、背後から迫ってきているような感覚を、龍二は覚えていた。
「龍二?」
「あ、ごめん。ボーっとしてた」
声を掛けながら肩に手を置くくのりに、龍二は顔を上げる。
彼女の声と肩に触れる感触が、龍二の気持ちを明るい方へ僅かに引き寄せてくれる。
「久良屋さんって、持病とかあったの?」
「いや、どうかな……」
毒を盛られたと説明するわけにもいかず、かといって上手に誤魔化す嘘も思いつかない龍二は、そう言うしかなかった。
その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。五分後には、午後の授業が始まる。
「……どうする?」
「くのりは戻ってて。僕は先生が来るまで待ってるから」
「うん、わかった」
龍二ならばそう言うだろうとわかっていたのか、くのりはすぐに頷いてドアに向かう。
「変な事、しちゃダメですよ?」
「しないよ!」
冗談めかした言葉で、沈んでいる龍二の気分を少しだけ盛り上げ、くのりは教室へと戻って行った。
午後の授業が始まっても、養護教諭が戻って来る様子はなかった。
保健室の秒針が進む速度に合わせて、目に見えない不安が龍二の心と背中に積もっていく。
まるでそれを察したように、深月がそっと手を差し出す。
「握ってて、くれる……?」
「手を? えっと、これでいい?」
「うん」
予想外の事を頼まれた龍二は、少し緊張した面持ちで深月の手を握る。
「うわっ、凄い熱……ほ、本当に平気なの?」
「えぇ。そのまま、握っていて……」
そう言って目を閉じる深月に頷き、ベッドの脇に置いてある椅子を引き寄せて座る。
見た目では楽になっているように見えたが、深月の体温はまだまだ正常とは言えない熱を持っていた。
もともと体温が高い、などというレベルではない。
以前、深月と手を繋いだ時は、どれくらい温かかっただろうか?
思い出そうとするが、あの時も今も、冷静でいられるような状況ではなかった。
深月に気づかれないようにため息を吐き、目を閉じているその姿を見守る。
彼女がこうなっているのは、自分を守るためなのだ。
その誤魔化しようのない事実が、龍二に重く圧し掛かる。
なぜ狙われるのか、原因は未だにわからない。
全く身に覚えのない事件の中心に、自分がいる。そのせいで同じ年頃の少女が、こうして苦しんでいる。
それは彼女の仕事、任務なのだから仕方がない、などと割り切れるものではない。
少なくとも、龍二にとっては、苦痛を伴うものだった。
「心配いらないわ……本部とうてなには、連絡してあるから。じき、応援にかけつけてくれる」
龍二の表情が優れないのは、不安だからなのだろうと深月は考え、そう言って安心させようとした。
「それに、私も大丈夫だから。この状態でも、あなたがここにいてくれれば、守れる」
「だから離れるなって言いたいんでしょ?」
「えぇ」
「さすがにさ、君が言いそうな事、わかるようになってきたよ」
不平も不満も一切漏らすことはない。深月が最優先に考えるのは、龍二の安全だ。
どれほどの苦痛に襲われ、苦境に立たされようと、彼女は龍二を守るために行動する。
久良屋深月がここにいる理由は、安藤龍二を守るためなのだから。
「大丈夫だよ。僕だってバカじゃない。こんな状況で君を一人になんて、しないよ」
「…………そう、願うわ」
口元を僅かに緩め、深月は静かに目を閉じる。
小さく呻き、目を開こうとして、すぐに閉じる。
それを何度か繰り返し、数分と経たずに寝息を立て始めた。
握っていた手の力も、気が付けば緩んでいた。
龍二はその穏やかな寝顔を見て、ため息を吐く。
こうしてみると、ただの少女にしか見えない。
握っている手も小さく、指も細い。
こんな少女に自分は守られるだけなのかと、不甲斐なさが込み上げてくる。
「……降ってきそうだな」
閉じているカーテンの隙間から、灰色の空が見える。
夕方から天気が崩れると奏は出がけに言っていたが、少し早まりそうな気配だった。
いつ降り出してもおかしくない空から目を逸らし、深月の寝顔に視線を戻す。
未だに戻って来ない養護教諭という不安要素を、龍二は出来るだけ意識しないようにしていた。
考えれば考えるだけ、不安は大きくなる。
「早く来てくれるといいんだけど」
眠る前に深月が言っていた応援が待ち遠しい。
もう一人の護衛である神無城うてなが来てくれれば、どれほど安心できるだろうか。
数えるほどしか顔をあわせていないが、うてなに対する信頼度は絶大だった。
あの圧倒的な力を持つ少女がいてくれれば……。
「ホント、情けないな……」
縋るように深月の手を握り、龍二はうな垂れる。
耳に痛い静寂の中に、途切れそうな寝息だけが聞こえてくる。
他愛のない会話をして、三人で食事をしていた時間が、ずっと昔の事のように思えてしまう。
何を考えても纏わりついて来る不安に、龍二は目を閉じた。
そして静寂に溶け込むように、浅い眠りへと落ちて行った。
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