第1章 第3話 龍二VS誘拐犯 その1
「それじゃあ、行ってきます」
リビングにいる奏と静恵にそう告げ、龍二は玄関を出る。
「おはよう、龍二」
「うん、おはよう」
玄関先で出迎えてくれる深月に、もはや日常となりつつある挨拶で応える。
深月にとっては任務の一環だが、毎朝女子に出迎えられるというイベントは、龍二としてはこそばゆいものがあった。
モールで襲われたのが土曜日で、日曜日は大人しく家の中ですごした。だから深月とこうして顔を合わせるのは、一日ぶりになる。
夏休みまであと数日。それまでに解決してくれればと思わずにはいられなかった。
「あ、龍君、良かった。お弁当に箸、入れ忘れちゃって」
深月と並んで歩き出そうとしたその時だった。
慌てて玄関から出て来た奏は、笑顔のまま固まる。
龍二と深月が肩を並べている様子は、さながら恋人のように見えただろう。
先週のうちに、くのりの助力を得て元カノ騒動については納得して貰えた。
だからこそこうして、今まで通りに接してくれているのだが、いざ目の前にすると、思考が停止してしまうようだ。
「あ、あぁ、箸ね。うん、わざわざありがとう」
箸を差し出した格好で固まっている奏から受け取り、手早く鞄にしまう。
「龍君、そちらの女の子は?」
「えーっと、くのりが言ってたでしょ? 最近転校してきたクラスメイトの、久良屋深月さん」
紹介された深月は、奏に向けて丁寧に頭を下げる。
「久良屋深月です。龍二君のお姉さん、ですね。初めまして」
「あ、あぁ。これはこれはご丁寧に。安藤奏です。龍君のお友達、だそうね」
「はい」
くのりに説明された女子が相手だとわかり、奏の硬直が解ける。
どういう説明をされたのか、詳細は知らされていないが、この様子なら大丈夫だろうと龍二は胸を撫でおろす。
「それと龍君、今日は夕方から天気が崩れるみたいだから、早めに帰るようにね? 折り畳み傘は持ってる?」
「ちゃんと鞄に入ってるよ」
「なら良し。じゃあ二人とも、行ってらっしゃい」
元カノ設定について触れる事はなく、奏は二人を穏やかに見送ってくれた。
「優しそうなお姉さんね」
「まぁ、基本的にはね」
時々怖くなるけど、と龍二は苦笑いを浮かべる。
そこでふと、自分の周りには怒ると怖い女子が多い事に気づく。
そういう星の下に生まれたのだろうか、などとどうでもいい事を考える。
「そう言えばさ、気になってたんだけど」
「なに?」
知る必要はないと言われて終わりそうだと考えるが、龍二はそのまま質問を続ける事にした。
「もう一人の彼女……うてな、さんはいつもどこにいるのかなって。日陰から護衛するとかなんとか言ってたけど」
今もそこにいるのだろうか、と龍二は周囲を眺める。
当然だが、それらしい人影は見当たらない。
「今は眠っているわ。夜間の護衛は彼女の担当で、日中は私の担当だから」
「あぁ、いわゆるあれか……えーっと、夜勤みたいな感じ?」
「そんなところね」
「僕の護衛は二人だけ、なんだっけ? それってなんか、大変そうだね」
「増員して欲しいとは言っているのだけど、なかなかね。でも安心して。彼女の能力は私が保証するわ。戦闘能力に関しては折り紙付きよ」
「うん、それは心配してない。信じてる」
そう素直に言えてしまう自分に、龍二は笑みをこぼす。
不思議な感覚だった。
彼女たちを信じると決めた事が、こんなにも変化をもたらす。
どこか少し落ち着かないような高揚感を覚えるが、不安ではない。
「でも、夜間の護衛って実際暇じゃないのかな? どうせ僕、眠ってるだけだし」
「眠っている間に襲撃される可能性も、ゼロではないでしょう? だから周囲とあなたの部屋は欠かさず監視……見守っているわ」
「ちょっと待って。今、監視って言わなかった?」
「見守っているわ」
「その前! え、ちょっ、ホントに待って。僕の部屋、監視されてるの?」
深月は口を滑らせた事を無表情で誤魔化そうとするが、さすがにそれを許すほど、龍二も優しくはない。
「ねぇ、ちょっと!」
「あなたを守るためよ」
「わかってるよ? そりゃあね? でもさ……」
「気にしなくていいわ。必要がなければ、私たちが見聞きした事は、誰にも報告したりしないし、記録にも残さないから。録音データも録画データも、すべて破棄される」
「ちょっと待った! 録音データに録画データってなに⁉ まさか監視って、盗聴とか盗撮してるって事なの⁉」
言葉にこそしないが、悪意のない深月の視線が当たり前だろうと物語る。
「ぼ、僕のプライベートは⁉」
「私は興味がないから大丈夫よ」
「大丈夫じゃない! 全っ然大丈夫じゃないよ! いつからそんな監視してたのさ⁉」
「あなたが最初に誘拐された翌日からよ。さすがに当日の夜では、機器を仕込む余裕がなくて」
「あ、あの日からって……う、嘘でしょ?」
「嘘を吐く理由がないわ」
深月はため息まじりの言葉で、無慈悲に斬り捨てる。
「そ、そんな……」
あの日から今日まで、部屋を盗撮されていたという事実に打ちのめされ、龍二は立ち止まってうな垂れる。
護衛され始めてから、自身が部屋の中でどう過ごしていたのかを思い返す。
良い気分など当然ありはしないが、唯一の救い、不幸中の幸いと言える事実に気づき、深く安堵のため息を吐く。
思春期の男子ならば当然する行為ではあるが、事情が事情なのでここ数日は致していなかったある行為。
狙われているという妙な緊張感からか、全くと言っていいほど、そんな気分にはならなかった事が幸いした。
もしその行為を盗撮されていて、深月やうてなに見られていたとしたら。
「考えただけで死にたくなる……」
道端で立ち止まり懊悩とする龍二を、深月は冷めた目で眺めていた。
龍二が何を考えているのかは、おおよそ察しているといった表情だ。
「安心して。あなたの生理現象を見ても、私は気にしないから」
「僕は気にするよ! き、君だって見られたら嫌だし恥ずかしいだろ⁉」
「…………」
「って、ごご、ごめん! 今の忘れて!」
思わず口走ってしまった事がどういう意味を持つのか、龍二はすぐに気づき、一気に赤面する。
「うてなが聞いていなくて良かったわね。もし聞かれていたら、セクハラだと喚き散らしていたところよ?」
「そそ、そうだよね! いやうん、わかってる! だから忘れて!」
「えぇ」
慌てふためく龍二の様子に、深月の表情が和らぐ。
が、龍二がそれに気づくよりも早く、彼女の表情はいつも通りのものに戻る。
自分自身の中で燻る僅かな変化に気づきながら、深月はそれを無視していた。
「さ、行きましょう」
「あぁ、うん」
深月に促された龍二は、先ほどの発言から来る気まずさに頭を掻きつつ、素直に従って歩き出した。
「ところで、今日のお昼についてなのだけど」
そんな龍二の心情を察してか、深月は全く別の話題を持ち出す。
「またコンビニ寄ってく?」
「いえ、あなたや逢沢さんが以前言っていた、学食を利用しようと思っているの」
「へぇ。じゃああれか。僕も学食にって事かな?」
「話が早くて助かるわ」
「さすがにね。でも多分、くのりも一緒になると思うけど」
「でしょうね。でも問題ないわ。拒む方が不自然でしょうし」
「良かった。少しは一般常識がわかってきたみたいで……あ、いや、なんかごめん」
ジロリと視線を向けられた龍二は、即座に謝る。
当たり障りのない話題になると、どうしても忘れてしまいがちになり、迂闊な発言をしてしまう。
こうして話している限りでは、久良屋深月という少女が年相応の存在に思えてしまう。
多少変わっているところや、規格外に美形であるという特徴があるにはあるが、それでもやはり、気心の知れた友人と接しているような感覚で話してしまう。
龍二自身も、そんな自分に少し驚いていた。
お世辞にも友人が多いとは言えない方だと自覚していたからだ。
決してクラスで浮いているわけでも、疎遠なわけでもない。
だが、控えめに見てもやはり、広く浅い関係が多いのだろうと龍二は思う。
その中でただ一人、逢沢くのりだけが特別だった。
深月とはまだ知り合って間もないが、どちらかと言えば彼女との距離感は、くのりのそれに近い。
出会いが出会いであり、関係性が特殊だという事を差し引いても、これまでの龍二の交友関係からすれば、信じられない事だった。
「学食って、どんな感じ?」
「普通、じゃないかなぁ? 僕も春までは時々利用してたけど、味は悪くないと思うよ」
「そう」
あまりにも素っ気ない返事に、龍二は苦笑する。
興味はないが、一応訊いてみただけ、というのがはっきりとわかる。
「種類は結構あるから、選ぶのが大変かもね」
「そういう場合は確か、日替わり定食とかいうものがあるのでしょう?」
「あぁ、あるね。でもどうせなら、色々試してみたらいいのに。勿体ないよ」
「別に、なんでもいいのよ」
「そう言わずにさ。くのりに相談してみるといいよ。一時期、学食に通い詰めてた事があるからさ。当たり外れとか、僕より数段詳しいし」
「検討してみるわ」
普通の会話ができる事が楽しくなりつつあった龍二は、そのまま学食についてあれやこれやと深月に話す。
深月はそれに適度な相槌を打ちながら、綻びそうになる頬を引き締めていた。
「龍二と学食来るのって、いつぶりだっけ」
「年末に食い収めだーとか誘われて以来じゃないかなぁ」
「あー、そうそう。思い出した」
昼休みになり、龍二と深月、そして予想通り一緒について来たくのりの三人は学食に足を運んでいた。
「思ったより混んでるなぁ」
「私と同じ理由でしょ。あそこのコンビニ、うちの学校の生命線みたいなもんだし」
「やっぱそれか」
いつも通りであれば、探すまでもなく空席を見つけられるくらいの余裕はある。
すぐ近くにコンビニがあるので、そこであらかじめ昼食を購入して来る生徒が多く、学食を利用する生徒はそこまで多くはない。
新年度になったばかりの時期であれば、一年生の利用頻度が高く、それなりに混雑もするものだが、この時期になればそれも落ち着いて来る。
夏休み前にここまで混雑しているのは、くのりもよく利用している最寄りのコンビニが朝から使えなかったからだ。
くのりの話を聞く限り、なんらかのトラブルに見舞われ、早朝から臨時休業中との事だった。
その影響で、普段からコンビニを利用していた生徒の多くが、そのまま学食に流れて来たのだ。
くのり自身も、その一人だった。
「んじゃ、龍二は席の確保よろしく。私は久良屋さんと行ってくるから」
そう言ってくのりは、深月と共に食券売り場へと向かって行った。
人混みに溶け込んでいく二人を見送った龍二は、三人で食事ができそうな席を探して、自らも人混みをかき分けて行く。
学食の受け取り口からは遠くなってしまうが、どうにか三人分の席を確保し、龍二は携帯のメッセージアプリで場所を送る。
よくやった、と上から目線で褒めるようなイラストがくのりから送られてくる。
そんな他愛のない反応を心地良く感じながら、二人がやって来るのをのんびりと待っていた。
「あーもう、混みすぎ」
人混みをかき分けてやってきたくのりは、ため息を吐きながら龍二の対面に座る。 くのりが選んだ昼食は、スタンダードな日替わり定食だ。
同じく日替わり定食を選んで来た深月は、当然のように龍二の隣に座る。
そうするだろうとわかっていたのか、くのりは特に何も言わなかった。
「結局それにしたんだ」
「うん」
通学中に色々と説明したのだが、どれもこれも深月の心には響かなかったようだ。
「ま、無難よね、学食デビューの選択としては」
「間違ってもカレーうどんを頼んじゃいけないよなぁ」
「ホントにね」
どこか楽しげな龍二の言葉に、くのりは苦々しい顔で頷く。
「美味しくないの?」
「いや、味はいいと思うよ。ただまぁ、やっぱりね」
「うどん一杯とシャツ一枚じゃ、割に合わないっつーの。学食にあれがあるのだけは理解できないわ、私」
「よくわからない。どういう事?」
「ま、機会があったら教えるよ」
首を傾げる深月に、龍二は笑って返す。
掘り下げて説明をしてもいいが、あまり過去の失敗をからかうと、くのりの機嫌を損ねてしまいかねない。
そう考えた龍二は、ほどほどのところで話を切り上げ、テーブルの上に奏が用意してくれた弁当を広げた。
「ね、おかず、交換しない?」
「しません」
箸をつけるよりも早く交渉し始めるくのりから、弁当箱を遠ざける。
まだ成長過程にある奏の弁当と、洗練された学食の日替わり定食。
どちらが美味しいと評価されるのか、正直なところ、龍二にはわからない。
だが、万人向けに調理されたものより、龍二の好みに合わせようと味付けされている奏の弁当を選ぶのは、当然の事だった。
「もう飽きてるんだよねぇ、学食の味って」
「いい機会だし、くのりも料理、してみたら?」
「その話、またする? 龍二が実験台になってくれるなら考えるけど?」
「あー、うん。くのりが先に食べてみせてくれたら、検討するよ」
かつて、そんな話をした事があったと思い出した龍二は、愛想笑いで誤魔化す。
「姉さんもすぐ上達したし、くのりもやればできるかもよ?」
「んー、料理ってさ、レシピ通りに作ったら負けた気がしない?」
「しないよ」
「私は負けた気がしちゃうんだよねー」
「くのりは料理、しない方がいいかもね」
「うん、私もそう思う」
なぜか得意げな笑みを浮かべるくのりに苦笑し、龍二は頂きますと手を合わせて食事を開始する。
「逢沢さん、ご家族は?」
そう切り出したのは、意外にも深月だった。
日替わり定食の味噌汁に口をつけていたくのりは、やや驚きつつ答える。
「うちはそういうの、ないんで」
「そうなの」
「うん。って言うか、ご家族って……ウケる」
くのりは小さく笑いながら、食事を続ける。
深月もそれ以上踏み込む事はなく、ようやく定食に手を付ける。
一つ一つ確かめるように口へ運ぶ様子は、何かを探っているようだった。
妙な食べ方をするものだと龍二は首を傾げるが、ふと思い至る。
まさかと思いつつも、その可能性を否定できない。
一通り口を付けた深月はそれで満足したのか、以降は普通に食事を続けた。
毒見をしているのではないかという龍二の予想は、当たっている。
今までの傾向から、不特定多数が利用する学食で毒を盛られる可能性は極めて低いが、念には念を入れた行動だった。
「なにボーっとしてるの?」
「え? あ、いや……って、あ!」
「いただきまーす」
ボーっとしていた龍二の弁当箱からおかずを一品せしめたくのりは、すました顔でそれを口に放り込む。
「……行儀、悪いと思う」
「以後気を付けまーす」
反省の色が一切見えないくのりの様子に、龍二は小さくため息を吐いて諦める。
龍二とくのりは食事をしつつ、期末試験の結果で会話を弾ませた。
試験を受けていない深月は、適当に相槌を打ちながら、バランス良く日替わり定食を平らげていく。
その表情が変化したのは、食事を終えて片づけようと、トレイを手に立ち上がった時だった。
「食器の返却口は――」
あっちの方だと指差す龍二に、深月が寄りかかる。
突然の事に慌てる龍二の視界に、青ざめた顔の深月が映る。
「え? 久良屋、さん?」
「なに? どうしたの?」
対面にいたくのりも深月の異常に気付く。
それほどにはっきりと、深月の様子がおかしかった。
血の気が引いた深月の頬を、こめかみから汗が伝い落ちていく。
深月は呼吸を整えようとするが、それもままならない。
早鐘を打つ鼓動を抑えるように、胸に手を当てる。
その手が、小刻みに震えていた。
「ちょ、だ、大丈夫?」
食器を乗せたトレイが、音を立ててテーブルに落ちる。
片手をテーブルにつき、どうにか身体を支えようとするが、膝が震えて今にも崩れ落ちそうになっていた。
咄嗟に龍二が深月の身体を横から支えていなければ、そのまま倒れていただろう。
「凄い熱……」
身体を支えるために触れた龍二は、制服越しでもわかるその異常な体温に戸惑う。
「く、久良屋さん?」
「……くっ、うっ」
平気だと言おうとして開いた唇から、苦しげな吐息が漏れる。
ただの体調不良などではない事は、火を見るよりも明らかだった。
「ヤバくない? 保健室、連れてった方がいいよ」
「あ、あぁ、だよね」
くのりの言葉に僅かながら冷静さを取り戻した龍二は、深月に肩を貸す。
「僕が連れてくから、ここ、頼める?」
「う、うん。私もすぐ行くから」
「助かるよ」
その場はくのりに任せ、何事かと集まり出した生徒をかき分けるようにして、龍二は保健室へと向かった。
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